愛だと信じていた 第03話
藤田さんが寿退職するらしい
素晴らしい縁談だそうで、メイド仲間から花束を貰って、お祝いの中心にいる藤田さんは幸せそうに笑っていたのに、私と視線が絡んだ瞬間にその笑みを消して、恐ろしい目になった。
貴明様に袖にされたのが、そんなに腹が立つのだろうか。単純だと思ってたのがばれていたとか?
何らかの報復があるかもしれない。気をつけよう。
「藤田さんの空いた所には、田辺さんが入るんですって」
隣の安中さんが拍手しながら、ひそひそと後ろの赤羽さんに言った。
「ふうん。彼女なら真面目にするものね。藤田さんあんまり仕事してなかったし、圭吾様に嫌われていたみたい。なんであんな人が圭吾様付きになってたの?」
「うっふふ……」
「何よー気になるわね!」
「……ここだけの話、藤田さんのおうちの情報を引き出すのが、狙いだったみたいよ」
「へー、情報戦はお互い様って事ね。馬鹿ねあの子。影で恵美様をいじめてたみたいだし、これからあの子の実家はひどい目に遭いそうね」
「近いうちに藤田出版も潰されるかも。あそこ、週刊誌が実名出したりしてたし、他にもいろいろあったみたいだもの。おお怖。圭吾様って容赦ないもんね……」
「出版業界って最近不況だもの。いつ潰れても不思議じゃないわ」
プライベートスペースでは、メイドも自分自身を赤裸々に曝け出してしまうらしい。
圭吾様は日常をさらけ出す代わりに、世話をする人間の日常を掴むわけだ。自分の弱点を探り出そうとする、彼女達の実家の思惑に気付かない圭吾様ではない、利用されているようで実はその逆になっているのだ。
それにしても恵美様をいじめていただなんて、馬鹿な真似をする人だ。あれだけ過酷な環境にいる人をいじめるなんて、一体どれだけ自分中心に物事を考えている人なのやら。
もちろん悪いのは、圭吾様とナタリー様なんだけど。
でも、どちらにしろ藤田さんは、まずまずの相手と結婚できるみたい。
二人の言葉を聞いていると、前途多難な門出だろうけど、ま、私には関係のない話だ。
でも……。
……恵美様はどうなるのだろう。圭吾様は確実に恵美様に執着していて、一年やそこらで彼女を手放されるとは思えない。年を取ってから、お払い箱にされるのだとしたらお可哀相過ぎる。
また藤田さんと目が合った。
なんなんだろう本当に……。
おびえた目で見返してみても、変わりがなくて、深い悪意を持たれているのがわかる。
相当厄介なことになるかもしれない。
ほどなくして花束贈呈は終わった。
解散して廊下を歩いていると、携帯が震えた。
貴明様からのメールだ。
うれしさですぐに陰鬱な気分が払拭され、ある種の期待に胸を躍らせながらメールを開封した。
from : T
subject:お願い
────────
悪いけど、夜の12時になったら起こしに来て欲しい。余計な仕事を頼んでごめん。
待ちうけ画面に戻しながら、睡眠時間を削って仕事や勉強をしている貴明様が心配になった。
貴明様は佐藤グループの次期社長になる方だから、幼い頃から帝王学を学ばれ続けている。今は仮社員扱いであちこちの課に従事されているけど、大学の勉強だけでも大変なのに大丈夫なんだろうか。
皆、貴明様を恵まれている御曹司だの、苦労しらずだの、エリートだからなんでもできるとか好き勝手言っている。その裏でどれだけ御自分を犠牲にして、血の滲むような努力をされているのかわかっている人はいるのだろうか。外見の美しさだけで、判断している人が多い気がする。
何よりも貴明様は今、大切な恵美様を救い出せなくてお苦しみだ。
「……はあ」
時計を見たら夜の八時だ。厨房に貴明様の夜食を頼もうと思って止めた。自分で作ったほうが早いし、夜は手軽に食べられるものの方が良いだろうから。
夜の十二時になって、夜食を持って貴明様の部屋に行き、渡されている合鍵で貴明様の部屋に入った。
つけっぱなしの照明に照らされながら、やっぱり貴明様は広い机の上でうつぶせにお眠りになっている。静かに夜食を机の片隅において、貴明様に近寄った。
「貴明様……」
呼びかけに、貴明様はすぐにお目覚めになった。
「ありがとう、やっぱり寝たみたいだな」
何故か貴明様は、机の上に広げていた書類を片付けていかれる。
あれ? ただの目覚まし時計がわりに、呼ばれたのだとばかりに思っていたけど。
「……いかがされました?」
「ん?」
「だって、いつもなら続きをされますのに」
「いいじゃないかたまには。それよりそれを食べたい」
貴明様は質問には答えてくださらず、夜食の方をごらんになったから、仕方なく並べて、お箸を貴明様にお渡しした。
「これ、あすかが作ったの? あすかは料理が上手だからうれしいよ」
「あの……」
そうじゃなくてと言おうとすると、貴明様は小さく微笑まれた。何故か意地悪な感じだ。
「親父と恵美が旅行に行くから、着いて来いだとさ」
「旅行?」
また強烈なあてつけを思いつかれたものだ。
圭吾様と貴明様の確執は相当深くて、会社の将来がなんだか心配になる。ナタリー様が不慮の事故とかでお亡くなりになったりしたら、一騒動どころではすまなさそう……。
「あいつも焦ってるのかな? 恵美が靡いてくれないから点数を稼ごうとしているのかも」
「…………」
お気づきになっている。圭吾様が恵美様に恋されているのを。
思わず給仕をわすれ、貴明様の箸が煮物の先に伸びるのをぼうっと見つめた。人参が貴明様の口の中に消えた。
「で、でも、今だけかもしれません」
「あすかは知らないだろうけど、あいつは一度だって、愛人を自分の部屋に住まわせた事なんてないよ。さすがにナタリーが怒るだろうしね。ましてや旅行なんてとんでもない」
「貴明様へのあてつけとか……」
「それはあるだろうけど、そんなご機嫌取りしなければならないほど、不安なんだろう」
不安……?
不安そうなのは貴明様ではないのかしら?
食べ終えられた貴明様は、箸を綺麗に並べて置かれた。
私は、あわててお茶を貴明様の湯飲みに注ぐ。貴明様は行儀悪く机の上に肘を突かれ、だるそうにあごを乗せた。
「三十歳の男が、二十歳前の小娘相手にご機嫌取りか。ふ……っ」
「でも恵美様は嫌がっておいでです」
「そうだといいね」
貴明様は、頬杖を止めてお茶を静かにすすられた。何故か中宮を思い出した。
中宮は、恵美様と圭吾様の仲を知っていても、心の動きまでわかっているとは思えない。
『辛くて辛くて、彼の側から離れたくなる日がきっと来ます』
そんな日が来るなんてありえない。私は貴明様が好きだ。そして、恵美様と貴明様がご結婚されるのを見届け、お幸せになるのを見るのだから。
「あすか」
名前を呼ばれてわれに返った。いけない。どうしてあの男の事なんか考えるのだろう。
圭吾様に似たひどい男なんて考える必要は無い。
「すみません、ちょっといろいろありまして」
「なら……いいけど」
貴明様は怪訝な顔をしておいでだ。
普段の私は、こんなふうに物思いに沈んだりしないから……。
主従の関係にある貴明様は、私のプライベートには介入して来られない。私も口にする気はない。
したところでどうなるものでもないし、貴明様は関係ないのだから。
早く下がったほうがいい。今日の私はどうかしている。
そそくさと食器を片付けてワゴンに乗せた。
早く寝てしまおう。明日は休みだし午前中は部屋でゆっくり過ごそう。
そう思ったのに貴明様の腕が腰に回り、背後から抱き寄せられた。
「……明日休みだよね?」
耳朶を噛まれて身体が一気に熱くなった。貴明様が身体を求めてこられるのは稀だ。
それは大抵なんらかの情報が欲しい時……、でも今は、何も貴明様にお伝えなんかできない。
まだ何も掴めてない、圭吾様の部屋から恵美様をお救いする方法を。
あの藤田さんから田辺さんに代わってしまったから、きっと私は圭吾様の部屋に入るチャンスが今までより格段に減る。ひょっとするとないかもしれない。
「でも私……」
役に立つ時だけ抱いてもらえるのだと思ってた。
こんなのは駄目だ。
とまどっている私の体の向きを変え、貴明様は唇を性急に重ねてこられた。
──── 違う。
中宮の顔が浮かび、慌てて脳裏から消した。
貴明様にそのまま身体を抱きしめられ、角度を変えて唇をむさぼられ、吸われる。
その甘い感触に足が震えて立っていられない。
大きな手に私はどんどん追いつめられ、逃げ場を失っていく……。
ベッドに連れて行かれ、そのまま私たちは横になった。
「僕が、嫌いになった?」
耳に吐息のような、甘い声で言われるとたまらなくなる。
何も言わずに、恐る恐る、貴明様の背中に両腕を回したら、くすくすお笑いになった。
痺れる様な甘さに包まれた幸福。
私はなんていやな女だろう。
恵美様はきっとお泣きになっているのに。
…………。
いいえ、泣いてなどおられないかも……しれない。
だって今の貴明様は、こんなにも不安でいっぱいになっておいでだ。
先日の、あの愉悦に満ちた恵美様の声が耳の底に蘇って、心の中でかぶりをふる。馬鹿な事だわ。あり得ない。
身体と心は別のはず。きっと恵美様は貴明様をずっと愛されてお待ちのはず。
なのに何故私は、中宮を完全に心から消し去れないのだろう。