愛だと信じていた 第06話
「浮かない顔だな」
貴明様のお部屋へ向かう途中、時間が早かったから、すこし立ち止まって中庭の薔薇を眺めていたら、いきなり背後から声をかけられた。
振り向いたら、圭吾様が少し離れた所に立っていらして、私は、ワゴンから手を離して頭を下げた。
「貴明は、今日はマンションへ帰らないようだが……」
「さあ、まだお昼ですのでわかりかねます」
「たいした忠義ぶりだ」
恵美様をお救いした貴明様は、マンションへ週の半分以上はお帰りになっている。
お屋敷では、恵美様はご実家に帰られたと説明されていて、誰も気にしていない。
貴明様のマンションに恵美様がおいでだとは、想像もされていないだろう。貴明様は恵美様の名前は口にされず、以前のように変わりなくこちらではお仕事をされ、大学へ通われているのだから。
「だから言っただろうに。早く辞めて、あいつの傍から離れれば良かったんだ」
「なんの話だかわかりかねます」
この方はとっくに恵美様の居場所を突き止め、どうやって再び取り返すか考えておいでだ。性急に事を運ばれないのは、恵美様の為なのか、それとも何らかの機会をお待ちになっているのか。
心配だ。
圭吾様は腕を組まれ、壁に背中を預けられた。
そのお姿は、成熟した男性しか持ち得ない、人生の影を感じさせる抗いがたい魅惑に満ちていた。
「恋というものは恐ろしいものだ。麻薬のようだというがまさしくその通りだな。一度胎内に摂取したら最後、なかなか抜けない。抜くにもすさまじい断薬症状に苦しまねばならん。それとわかっていてなお求めるとは愚かにも程がある……」
「奥様をですか、恵美様ですか」
「お前にとっては貴明だな。あんな腑抜けより、中宮のほうがはるかに良い男だぞ」
「恋は、良い男だからするものではないでしょう」
くっと圭吾様はお笑いになった。
「確かにそうだったな。愚問だった。相手が悪ければ悪いほどどつぼにはまる……」
この方も不思議な方だ。どうして貴明様と繋がっている私に、こんな話をされるのだろう。私が話すと思われないのだろうか。わざとならよくわからない。
公認で浮気し放題の方なのに、何故かいつも奥様に話が及ぶと、端正なお顔がわずかにゆがむような気がする。
愛のない結婚だと皆が知っている。だけど、ひょっとするとこの方の中では、そうではなかったのではないか。お金目当ての結婚だと、貴明様は、はき捨てるようにおっしゃっていたけれど……。
圭吾様は話を変えられた。
「お前の父親、私が中宮と親しいとわかった途端に、手のひらを返したように中宮に擦り寄っているらしいが、知っているか?」
「あの男らしいです」
「親を、あの男……か?」
「私はあの男を、父親とは思いたくもありません」
「……やはり、それがお前の地か?」
わずかに驚かれた圭吾様に、言い過ぎたかと思わないでもなかった。
だけどこの方には、とっくに私の本性などばれていると思う。……おそらく奥様にも。だから私はお二人が苦手なのだ。
「そんなもの私ですらわかりません。どちらにしろ、あの男はあの男です」
「…………」
生物学上では父親でも、気持ちの上では他人だ。愛など当の昔に求めるのをあきらめているし、いまさら父親面されると反発心しか湧かない。
「それに、何度も申し上げますけれど、私などなんの価値もありません」
「この結婚に関してのお前の価値は、中宮が決めることだ。お前でも私でも貴明でもない。ましてやお前の父親でもないだろう」
そう言って、圭吾様は私に背を向けて、お部屋に戻っていかれた。
ふうと身体中の緊張を抜いた。
あの方はおいでになるだけで場の空気が変わるから、それに負けまいとする意識が少なからず必要だ。きっと将来、貴明様もああおなりになるだろう。
……たぶん、そうなる。日本ではなくても。
気を取り直して、貴明様の部屋へ行った。
貴明様は、心がここにあらずという雰囲気だった。この部屋にいる間は素のお顔をさらされていて、それがとても幸福そうなのが見て取れる。
最愛の恵美様を、御自分のマンションに住まわせておいでなのだ。そして好きなだけお逢いできるのだから当然だろう。
貴明様がお幸せなのは、いいことだ。私も幸せになれる。
たとえ心の片隅が、ちくりと痛んだとしても……。
「今日は、あちらへは帰られないんですか?」
「毎日帰ったら怪しまれるからね。恵美も一人でいたい時もあるだろうし」
机の上には、英語の文書が置かれていて、それをドイツ語に貴明様は訳されていた。貴明様はドイツ語と英語が堪能だ。日本語すら怪しい私には、すばらしい学力をお持ちだと思う。私が馬鹿すぎるだけなんだけども。
そういえば、恵美様は英語が堪能だとお聞きしたことがある。
洗面所を磨きながら、鏡に映った自分をふと見つめた。
外見の美しさなど、せいぜい今のうちが華だ。二十歳を過ぎたらあっという間に衰えていく……。年を重ねるごとに、私という人間は価値がなくなっていくのだろう。だからあの男は、唯一の私の武器が有効であるうちに、結婚を急かすのだ。
年を取って醜くなったら、それこそ見向きもしなくなるに違いない。
結婚なんて絶対にしてやるものか。自分の娘が一人、どうしようもなく醜くなっていくのを、一族の汚点のように嫌う、薄っぺらなあの男の自尊心を傷つけるように、常に心の片隅に潜ませてやりたい。
我ながら、どこまで歪んでいるのかと、呆れ返らないでもないけれど……。
水滴ひとつ残さず、綺麗に鏡を拭き終えたら、鏡越しに、貴明様が不思議そうにこちらを御覧になっていた。
「……どうかされましたか?」
「あすか、何かあったの?」
「何かとは?」
「そんな険しい顔してるの、初めて見た……」
いけない。
鏡で自分など見るから、つい地が出てしまったらしい。
悪いことなど何一つ考えていないのが、ここで作り上げている私なのに。
「気のせいとは申しません。たまにはあります」
「そうなの?」
「はい」
にこりと微笑んだら、貴明様はもう興味が失せた様に翻訳に戻られて、ホッとした。
同時にさびしさが沸いてくるのが不快だ。
いい加減にしなさい、石上あすか。
貴明様にとって私は道具よ。道具が人並みに扱ってもらおうとか、考えるものではないわ。
そう……。わたしは、貴方のための立派な道具になりたい。
お部屋の掃除が終わってメイドの詰め所に戻ったら、メイド長から話しかけられた。
「奥様がお呼びよ」
最近頻繁だな。
そんなに鹿島瑠璃様と貴明様がうまくいってるかどうか、お知りになりたいのだろうか。
貴明様から伺っている通り、鹿島様の生活ぶりは、とても品のいい令嬢のものとは思えない。
男癖が悪いというのか、男がいないと生きていけないというか……、とにかく男性の出入りが激しすぎる。自分に興味がない女のほうが好都合な貴明様は、それについては特に問題はないとしかおっしゃらないけども、私としては不安がつのる。最近頻繁に彼女から電話を受けられているし、それがデートの誘いとなったらなおさらだ。
貴明様は週に一度程度だからと、お出かけになっている。カムフラージュを続けるのも大変だと思っていたのは最初だけで、私の中で、あのホテルでの救出劇以来、彼女は貴明様に本気なのではと疑念が強くなっている。
恵美様のパスポートをお取りになったのは先日で、お二人はもうすぐアメリカへ行かれる。あと数日の辛抱だからと、貴明様はのんびり構えておられるのだ……。
貴明様は、圭吾様がすでにお気づきなのをご存知のはず。
それなのに、鹿島様の性格については、詰めが甘いのではないかしら。
もともと恋愛に関して興味のない方だから、観察力が鈍くていらっしゃるのかもしれない。
恵美様に私は直接お逢いしたことはない。ううん、あったけどあの時恵美様は眠っておられた。
お声を聞くことは、多分これからもきっと、ない。
恵美様のためにも、アメリカ行きは成功していただきたいのに。
お部屋に出向いたら、そこに奥様の姿はなく、中宮が窓際に立っていた。
「奥様は?」
「先ほどお出かけになりました。我々も行きましょう」
話がさっぱり見えない。
「仕事があります」
「メイド長の了解はとってある。さあ、いらっしゃい」
「困ります。どこへ行くのですか?」
「ただのディナーの誘いです。それくらい構わないでしょう?」
思い切り構う。これから恵美様の服を引き取りにいくのに。
恵美様は外にお出になれないから、アメリカでお召しになる服を、私が買い集めている。どうしてもコートだけがいいものが見つからないから、これから特別に注文したものを受け取りに行きたいのに。
それなのに、強引に中宮の車に乗せられ、見知らぬ店でドレスに着替えさせられ、化粧を施された。連れて行かれたのはホテルの最上階のレストランで、しかも個室になっているところだった。
「貴方はやはり紫が良くお似合いだ。上にかかっている白のレースが、貴女を引き立てるカスミソウのようです」
「そうですか」
薔薇のモチーフのレースが、私に似合うとはとても思えない。
メイクをしているだけで、お店は閉店時間になってしまっていたから、コートは明日とりに行こう……。
中宮は、ふふと笑った。
何かを含んでいる気がしたから、思わず咎める目になったと思う。中宮は、そんな私の態度をむしろ楽しんでいるようで気に障った。
この男は内面に一体、何を隠し持っているのだろう。
私もある程度は人に対する観察眼はあるほうだけど、中宮武久に関してはさっぱりだ。やさしいのか、危険なのか、穏やかなのか、……それとも苛烈なのか。
「そんな怖い目で睨まなくても、私は何も企んでいません」
「私は……?」
「ええ。私は頼まれた方ですので」
「何を?」
「それはまあ、ここで食事を楽しんでからにしましょう」
そんな事を言われたら、楽しめるわけない。そもそも楽しむ気などない。以前から感じていた不安が一気に溢れて、私の周囲に迫ってくる錯覚が見え、頭を振った。
大丈夫。
……何が?
夜景のきらめきに混じる、赤い点滅群が、普段は気にしないのにやけに気になって仕方がない。
「こちらでよろしいか?」
聞き覚えのある男の声に振り返って、私は恐怖からではない、嫌悪からの震えを覚えた。
そこにいたのはあの男……、血のつながりがあるだけの父親だった。