愛だと信じていた 第08話

 深夜、中宮の携帯電話が鳴った。会話の内容から、仕事がらみのようだ。

「すみません、帰らなければ。……一人で大丈夫ですか?」

 頷く私に、中宮は申し訳なさそうにしながら、スーツの上着とコートを身につけた。そして、私の頭を優しく撫でて出て行こうとして、忘れていた事を思い出したかのように、はたと立ち止まった。

 なんだろう?

 中宮はじっと私を見据えた。

「事を急いだのは、貴女を一刻も早く救いたかったからです。これ以上御曹司の傍にいたら、貴女は確実にごたごたに巻き込まれて、ただでは済まない」

「……もう巻き込まれています」

「そんなんじゃない。命の危険さえあると言ってるんです、今回の愛人の件で、佐藤氏は御曹司を徹底的にいたぶるつもりでいる。あの二人の場合、貴女達親子のようにはいかない、会社の社員達をはじめ、多人数の人間を巻き込んでしまう」

「大丈夫です。もうすぐ……」

「もうすぐ?」

 アメリカ行きのことをうっかり言いかけて、口をあわててつぐんだ。危ない。気をここまで許してしまったら、貴明様を危険に放り込んでしまう。

 中宮は、くれぐれも身体に気をつけてと言って、部屋を出て行った。

 服が部屋着のままだ、シャワーをあびて着替えないと……。

 あの男との別離はまだ心にどす黒い染みをつけていたけど、中宮のおかげで冷静にそれをみつめられるまでになっていた。と言っても、当分は気になってしまうのだろうな。

 眠れられなくなって、とりあえずホットミルクでも飲もうかと思った時、インターフォンが鳴った。中宮が忘れ物でもしたのかな。

「……はい」

『僕だ。開けて』

 外は雪が降っているらしく、肩に雪をつけた貴明様は、不審がる私に一枚の手紙を差し出された。見ると、恵美様の綺麗な筆跡で、迷惑をかけられないから家を出る。探さないで欲しいとある。続いて、貴明様の未来や御家族について、自分に気にすることなく切り開いていって欲しいとも。

「一人で出て行った、僕を置いて」

「この手紙……なんか、中途半端ですね。もう一枚あるのではないですか?」

「あすかもそう思うか? これだけ書いているのなら、僕に対する気持ちもきっと書いたはずなのに、それがない。きっと鹿島が持っていったのだと思うんだが」

「何故そう思われます?」

「直前に喧嘩していたんだ、あの二人」

 嫌な予感が胸に広がった。中宮の言葉と、鹿島様の貴明様へ執心する態度、私への態度……。

 二人で立ち尽くしていると、インターフォンの音がして、こちらが開けてもいないのに勝手に鍵が開錠され、数人の黒づくめの男達が押し入ってきた。

 なに、これは……!

 出て行ってもらおうと言いかけ、口を噤んだ。圭吾様が入っていらしたのだ。

 圭吾様は私を一瞥されるなり、腕を掴まれ、男二人に物を投げ与えるように背中を突き飛ばした。

 この人たち、きっと、……第二情報部の人たちだ。

 佐藤グループは基本エリートの集まりといわれている。けれど、第二情報部の人たちだけは別だ。彼らは学歴が一切公表されず、国籍も定かではない。どこかの軍隊から逃げ出してきたとか、マフィアとか、そういう怪しい人たちの集まりで、裏の情報戦を得意とする人たちだと言われている。会長と社長の私兵と言ってもいい。皆不気味がって、彼らには近寄らない。

「本当にいいんですか?」

「構わない。この娘は貴明のためになら、なんでもする奴隷だ」

「へー……」

 わけがわからず混乱して、圭吾様を見上げた。男二人は好色な色を目にたたえて、私を上からしたまでじろじろと見ている。

「わからないままだと、気の毒だから説明してやろう。我が佐藤グループは、こんな形で会社を捨てるやつを許さない。よって、制裁を加える」

「…………っ」

「将来継ぐべき家も会社も捨てて、そのへんの女と二人でアメリカへ移住を企てた。初めての裏切り者が、会長の息子とはお笑いだ」

 隠密裏に進められていたのにと思った瞬間、鹿島様の顔が脳裏に浮かんだ。漏らしたのは彼女だ、きっと。

「だが、石上あすか……、お前が貴明の身代わりをつとめるというのなら、貴明への制裁は……リンチはやめてやるが、どうだ?」

「身代わり……?」

 貴明様は両脇を取られ、身動きが出来ない状態だった。その目は今まで見た記憶が無い、不思議な色を放っていた。怒りと悲しみと諦めが同時に現れ、そしてもう一つ、何かの思いが一番強い光を放っていた。

 貴明様がひどい目に遭われるなんて、とんでもない。

 きっと私は、ここにいる数人に犯される。

 先日のチンピラに襲われた時の恐怖が蘇って、身体はかたかた震えるけれど……、これが私の仕事だ。貴明様のためになら、どんな目に遭っても我慢すると、貴明様に抱かれた夜に自分に誓った。

 どうせ、失うものなど何も無い。

 生きている価値が、今、急に見つかった気がする。

 そうだ、私は貴明様の盾になるために生まれてきたんだ。

 それなら……。

「やめろっ! あすかには手をだすなっ!!」

 私を掴む男の手が、胸へ伸びようとした時、貴明様が叫ばれた。

「あすかは、僕の言いつけに逆らえなかっただけだ。僕が脅してそう仕向けた。だからあすかには何もするんじゃないっ」

「ほう? じゃあ、お前はいさぎよくリンチを受けると言うのだな?」

「好きにしろ。あとひとつ、恵美にも乱暴はするな」

「注文が多すぎる……。そちらの都合ばかり聞いていると、裏切られた社員に不満が残る。骨の一本はもらうぞ。逆らえばこの女を犯す」

「……わかった」

 圭吾様のひどすぎる言葉に、貴明様はうなずかれた。

 どうして、貴明様?

 男達は貴明様を一端放した。だけどそれは開放じゃない。反動をつけて男の一人が貴明様の顔を殴った。鈍い音がして倒れ掛かる貴明様を、別の男が後ろから抱き取り、今度はお腹をこぶしで殴りつける。

 無抵抗の貴明様に対するリンチが始まった。

 たちまち貴明様は血を流され、立っていられなくなった。でも床にお倒れになった貴明様を、別の男が蹴り上げて、壁にぶつけた。

「止めて! 止めてくださいっ」

 見ていられなくて、必死に叫んだ。

 隣で煙草の煙をくゆらせた圭吾様が、貴明様を嬲るような残酷な言葉をおっしゃる。

「……それくらいでくたばってどうする? この女が男にめちゃくちゃにされていいのか?」

「お願いです圭吾様。このままでは貴明様が死んでしまいます」

「急所は外させている。死にはしない」

 そんな言葉はとても信じられない。

 どうしてですか、貴明様。私は貴方の道具です。道具なんて壊れたら別のものを用意されたらいいだけなのに。

 私のために、どうして!?

 胸を淫靡に撫でる男たちの手よりも、貴明様が心配だ。

 貴明様が力なく立ち上がられた途端、男の一人が、貴明様の御顔を横から蹴り、歯が何本か折れて鮮血と共に飛び散った。

「ぐ……」

 仰向けになった貴明様の御腹を別の男が思い切り踵で突き、もう何も出せない貴明様の口から胃液と同時に血も流れた。それでなくとも貴明様の御顔は、至るところが殴られたり蹴られたりして腫れ上がり、頭から流れる血で赤く染まっていた。

「が……あっ」

「貴明様っ」

 ここにいる数人の男たちは、いずれも海外で実戦経験のある者たちばかりのはず。人を痛めつけるのに慣れているこの人たちが、抵抗しない貴明様を弄り続けている。それでも貴明様なら、ここにいる数人など、あっという間に何とかおできになるほどなのに。

 わかりません、貴明様。

 私は道具だから、どうされてもいいのです。

 それなのにどうして自分を傷つけられるのですか。命より大切だとおっしゃった、恵美様はどうなさるのですか?

 私の夢はお二人が結ばれること、それだけなのに!

「お願いしますっ、私はどうされようと構いませんから!」

 このままでは貴明様は死んでしまわれる。

 圭吾様は止めてくださりそうも無い。

 何か止める方法はあるはず。必死になって考えをめぐらした。

 この人の弱点は……逆らえない人は……。

 そうだ。

「ナタリー様にどういいわけなさるおつもりです! 貴明様を再起不能にしたら、ナタリー様のお怒りは……」

 かえってきたのは鋭い眼光だった。だけど、ここでひるむわけにはいかない、これ以上の暴力は、確実に貴明様はなんらかの後遺症が残り、健康体には戻れない。私をどうにかしたいのならどうにかすればいい、護るものなどもう何もない。家族は消えて、天涯孤独だ。

 果たして圭吾様の目が緩み、男達にやめるようにおっしゃった。

「お前は、貴明に最後まで利用されるつもりか?」

「貴明様はお優しいお方です。どう利用されても私は構いません」

「こいつの頭にあるのは別の女だ。振り向きもしない男に人生を投げるつもりなのか?」

「それで貴明様が助かるのなら」

 圭吾様は男達から私を開放させ、貴明様を佐藤邸内の病院へ連れて行くように、おっしゃった。

「……それだけの忠誠心があるのなら、貴明の暴走を何故止めなかった?」

「貴方のなされようは酷過ぎました」

「それはお前が見ていられなかっただけだろう?」

 私は、はっとした。圭吾様の御顔には嘲りも何も無かった。 

「愛しているのに奪い取る度胸が無いのなら、さっさと諦めてしまえ」

「ご自分ができない事をおっしゃらないでください」

 圭吾様は苦笑された。

「死んだ人間には勝てない」

「…………」

 やっぱりこの方は、奥様を愛しておいでだったのだ。

 今は恵美様に変わっただけで、この方も満たされない心を抱えて苦悩しておられる。

 冷たい態度からはわかりにくかったけれど、奥様は貴明様のためにこの会社を護っておられる。

 圭吾様の貴明様への憎悪は、奥様の愛情を一心に受けておられる貴明様への羨望だ。なら、皆捨てて行こうとされた貴明様の行動は、三重の意味での裏切り行為に、この方の目には映っただろう。

 奥様、自分、会社の社員達……。

 そうだ、貴明様はこれから、それらをすべて償っていかれなくてはならない……。

 きっと恵美様は圭吾様の元へ戻られた。そうでなくては、圭吾様がこんなに落ち着いておられるわけが無い。

 貴明様は愛も、夢も、人の信用も失われてしまった。

 愛と夢はともかく、一度失った信用を取り戻すのは、生半可なことではないだろう。

「貴明についてやれ。だが怪我が治ったら離れたほうがいいぞ、今ならいくらでもやり直せる。他の誰かに愛されているのなら、そいつを選ぶべきだな」

 中宮の事をおっしゃっているのだ。でも今はそれどころではない。

 圭吾様に頭を下げて、佐藤邸内の病院へ向かう担架に乗せられた、貴明様について行った。

 まだ夜明け前で屋敷内は薄暗い。そこは佐藤グループの社員ならびに縁者だけが受診できるところで、外来診療は行われていない病院だった。担架に乗せられている貴明様は、微かな呼吸があるだけのかなり危険な状態で、すぐにそのまま集中治療室へ運ばれた。

 数時間後手当てをされて出ていらした貴明様は、意識が戻っていらした。まだ油断がならない状態みたいで、その部屋からは出られないらしい。

 全身包帯で巻かれていらして、素肌が見える部分はわずかだった。

 貴明様の御手が、かすかに私に向かって伸ばされたから、傷に触らないように気遣いながら取った。

「あ……すか、無事?」

「無事です。何もされていません」

「……よ…………かった」

 かすれて途切れがちの声が、心の底からの安堵の声に聞こえて、言い様の無い怒りを抑えるのに苦労した

 貴明様、貴方は馬鹿です。恵美様という大切な方がおいでなのに、どうして私みたいな女のためにこんな傷を負われたのですか!

 どうして?

 そんな犠牲みたいな優しさは、貴方にはふさわしくないのに。

 他人を踏み台にして、どんどん輝いていかれたらいいのに。どうして……。

「泣くな……」

 泣いてなどいない。あの男に何を言われても私は泣かなかった。

 だけど……ああ。

 涙がどうしたって止まらない。

 涙は、愛だ。

 心の器が愛で満たされたら、入りきらない愛が涙になって零れていく……。

 こんなにもこの方を愛している。

 中宮の心配げな顔が、貴明様の御顔に重なった。あの男に謝罪を要求してくれた中宮は、世間での私ではなく、本当の私を認めてくれた初めての人間だ。

 今私が泣けるのは、中宮が愛と思えるものを注いでくれたから。

 だけど、中宮……、ごめんなさい。

 貴明様の手を握って涙を流し続ける私を、ガラスを隔てた向こう側の廊下から、圭吾様に囚われた恵美様が御覧になっていたと知るのは、朝日が高く昇ってからだった。

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