愛だと信じていた 第12話
久しぶりにお会いした貴明様は、一見、前と変わらない印象を受けた。
相変わらずお美しくて、隙のない笑顔を浮かべておいでだ。
「久しぶりだね。あすか、元気だった?」
「はい。おかげさまで……」
じっと見つめられて気恥ずかしく思い、視線を机の上に置いてある新聞に移した。なんとなく字面を追って、その並びの意味が胸に落ちてきた途端、心が凍りついた。
これは……!
鹿島瑠璃が……、自宅マンション近くのラブホテルで……、遺体となって発見。死後一週間ほど経過、全身に暴行の跡があり死因は急性心臓麻痺……。
鹿島瑠璃が、死んだ?
死んだ?
驕慢な態度の彼女が、脳裏に浮かび上がって消えた。
「彼女、亡くなったらしいね。若いのに気の毒だね」
いつの間にか貴明様は、私の背後に立っておられた。
お腹に両手が回ってきて、抱きしめられる。以前なら、幸福な甘い気持ちに包まれたのに、今は貴明様がとても恐ろしかった。
「探させたんだけど、恵美のもう一枚の手紙は見つからなかった」
貴明様が、間接的に彼女を殺した。
……死神、という言葉が口に上る寸前で消え、そう思った自分にまで恐怖を感じる。暗闇と狂気が、貴明様の腕を通して、侵食してくる錯覚に襲われ、上げそうになった悲鳴を懸命に飲み込んだ。
「震えてる? 怖いの?」
「……どうして、そんなことを?」
「そんなことって何?」
「鹿島様……殺したのは」
背後の貴明様が、くすくすとお笑いになる。
妙な透明感と、前は確かにあったはずの、温かな感情の欠落が恐ろしい。
やっぱり貴明様は、変わってしまわれた。
「僕は何もしていないよ。彼女の恋人の一人に、恋人はお前だけではないと教えてあげただけ」
こうなるとおわかりになっていて、意図的に……行動されたのだ。
手の先、つま先が、すうっと冷たくなり、立っていられなくなった。
どうしよう。
どうしよう……、怖くてたまらない。
いいえ、落ち着かなければ。
こういう時こそ、自分の動揺を悟られないようにしなければ。
中宮の顔が脳裏をよぎった。彼を巻き込んではだめだと、もう一人の私が叫んだ。
「不安がる必要はないよ。僕は言っただけ」
「そうですね。でも、鹿島様はお気の毒です」
「そう思う? ふふ」
背後で笑うのは、貴明様のお姿を借りた悪魔だ。
逆らってはいけない。
部屋の奥のベッドに歩かされ、押し倒された時には、前の私の感覚が完全に蘇っていた。
「今、恵美の部屋の、管理をしているのは誰?」
昼間なのに、カーテンが閉まっているせいで、部屋の中は薄暗く、服を脱がされる衣擦れの音が、妙に大きく響いた。
「……メイド長です」
「なんとかして、彼女の弱みを見つけられない?」
こんなふうにおっしゃっているけれど、この方はメイド長の弱みをご存知なのだ。冷たい薄茶色の瞳が、私が知っているのを承知で、それを言うように促している。
貴明様も服をお脱ぎになり、私に覆いかぶさってこられた。
「……借金をされているようです、あ……」
耳に口付けされて、忘れていた甘い感覚が沸き起こった。同時に深い罪悪感のようなものが襲ってくるのは、中宮に対して後ろめたい気持ちがあるからだ。
……今はこの人を見捨てられない。こんな、自分を愛さなくなった悲しい人を、見捨ててここを辞めるなんてできっこない。
だから。
言い訳じみていると自覚しながら、貴明様にしがみつくと、低くお笑いになった。
「今夜、彼女を僕の部屋に呼んでくれる? 現場を見たと言ったら、すっ飛んでくるよ」
「はい……」
弄る手が、明確な意思を持って、私を快楽に引きずり込む。
以前と違うのは、まるで母に縋り付く子供を思わせる、余裕のない性急さ。
この方は……一人ぼっちだ。
お仕事は、人並み以上にされていると、そこかしこの人から漏れ聞こえてくる。大学もきちんと通学されている。アメリカへの逃避行はなかったことにされていて、たぶん、あの時現場にいた第二情報部の人たち以外知らないから、皆が皆、貴明様に期待している。そして、貴明様はそれに応えるように、表向きには完璧な御曹司振りを続けておられる。
だけど、裏は、めちゃくちゃだ。
奥様にあのような仕打ちをされて、家族へ完全に心を閉ざしてしまわれた。
当たり前だ。あまりに惨い仕打ちだった。
たとえ、この方が間違われていたとしても、あのように傷に塩を塗りこむような母を、どうして子供は愛せるだろう。
放置されて、会えば罵倒ばかりされていた私の方が、まだ幸せだったのかもしれない。
それから数日経った、ある夜。
貴明様に弱みを握られたメイド長は、とんでもない額の借金を貴明様に返済してもらうかわりに、恵美様のお部屋の鍵を渡した。さすがに良心の呵責を感じているらしく、その表情はかなり暗かった。反して貴明様の表情は、狂気が入り混じってとても明るい……。
メイド長は、圭吾様を慕っていたから、二重の裏切りだ。
でも、裏切りをしなければならないほど、メイド長は切羽詰っている。辛そうな後姿が、ドアの向こうへ消えたのを確認して、貴明様に伺った。
「恵美様をどうされるおつもりです?」
「そんな怖い顔をしなくてもいい。記憶を正常にしてあげるだけだよ」
機嫌よさ気にお笑いになりながら、貴明様はおっしゃるけれど、その瞳からにじみ出ている狂気で、まともな方法じゃないとあっさり察しがつく。
今夜は、圭吾様が外泊で、お屋敷にお戻りにならない。
つまりはそういうことだ。恵美様をお抱きになりたいのだろう。
不思議なことに嫉妬が湧いてこない。むしろ、恵美様をなんとかお救いできないだろうかと、その考えばかりが脳裏をよぎった。
「貴明様、恵美様が貴明様のもとを去られたのは、圭吾様のもとへお戻りになりたかったからではありません。そのおつもりなら、チャンスは、マンションでお暮らしになっている間に、何度もあったはずです。玄関の鍵は開いていたとおっしゃっていたではありませんか?」
「……そうかな。じゃあ、何故、恵美はあんなに幸せそうなのさ?」
「記憶障害を、患っておいでだからです」
「だろう? だから荒療治でもして治してやったほうがいい」
「貴明様……」
恵美様は、きっと、お二人とも愛しておられる。
でもそれは、お二人を不幸にすると思われた。
圭吾様は奥様がおいでで、貴明様にはもっとふさわしい令嬢がいらっしゃる。一時的にせよ、圭吾様の愛人になったような自分では、きらきらしい御曹司にふさわしくないのだと。
自殺未遂は、お二人の愛情が恵美様を追い詰めて、起こった不幸な事故だ。
なのに、どれほど言っても、貴明様はわかってくださらない。
時折目にされる、圭吾様と恵美様の蜜月ぶりに、裏切られたという思いが強くなってしまわれるようだ。複雑な家庭事情がなければ、幸せそのもののお二人だ。恵美様にいたっては、輝くばかりの笑顔だ。
きっと、恵美様は、貴明様の前であのような笑顔ではなかったのだろう。
お気の毒な方だ。
お逃げになってもすぐつかまり、檻の中に入れられてしまわれる。
檻の中は安全ではない。
カナリアを愛でたい者は、幾人もいる。
貴明様の後姿が、恵美様のお部屋に消えるのを見届けてから、私は廊下へ引き返した。
こうして、恵美様を手にお入れになった貴明様は、果たしてお幸せなのだろうか。
恵美様が今、愛しておられるのは、圭吾様。
圭吾様以外に抱かれるなど、強姦もいいところで、記憶を治すどころではない。
それなのに、私は貴明様を止められない。
貴明様のお望みを、少しでもかなえて差し上げたい。これ以上、貴明様が、壊れてしまわれないように。
だけど結果としては、これ以上は無いほど、粉々に砕けていっている。
この、報われない恋が辛い。
僅かに残っている望みが、余計に切なくてやるせない。
私のように、最初から叶わぬ想いであったなら、そんな望みを持たなくてすむというのに……。