愛だと信じていた 第16話

 それからあっという間に日々は過ぎ、私は答えを出せないまま、中宮が北海道へ帰っていってしまった日をカレンダーで見つめていた。

 あの男たちの件は、中宮が本当にうまくやってくれたようで、外に出ても出会わないし、電話がかかってきたりすることもない。

 仕事をして、休日は静かに過ごして、ときおり外出して、そして寮へ帰る。

 平穏そのものの毎日だ。

 メイド長は退職させられたけれど、とてもいい人と結婚したとはがきが来た。写真は花嫁と花婿を囲んだ家族と一緒のもので、彼女が幸せでいるのがすぐわかる。

 うらやましいな、と、思った。

 でもそれだけだ。

 私に、その幸せが合うとはとても思えない。

 廊下でリネンのワゴンを押していると、ふと明るい笑い声が聞こえたので、何気なく見たら貴明様と恵美様が仲がよさそうにお話をしておられた。

 ありえない光景に、思わずワゴンを押す手を止めてしまった。

 ……いつ、仲直りされたのだろう。

 大きなお腹の恵美様は、今にもお子様が生まれそうだ。そんな恵美様を、以前のように、ううん、以前より穏やかな眼差しで見つめておられる貴明様。

 何が起こったのだろう。私が知らない間に。

 再びワゴンを押し、不意に寂しさに押しつぶされそうになった。

 皆変わっていくのに、私は変われない。

 あの自由を手に入れた日から、どうしたらいいのかわからないまま……。

 中宮はきっと幸せにしてくれる。

 一方で、私は中宮を幸せにできるだろうか。

 その問いの答えを出せなくて、北海道へは行けなかった。 

 私にあるのは美しさだけで、ほかにはどうしたって何もない。家もないし財産も才能もないのだから……。

 結婚するんだと言って、同僚の一人が幸せそうに婚約指輪を見せびらかしているのを、遠めで見ながら、私にはそれはないのだと思う。

 私はきっと、相手を不幸にする。

 幸せのなり方がわからない。

 でも、不幸のなりかたは知っている。

 中宮と一緒にいると確かに心が安らいだ。でもきっと、それだけだ。

 私は……、私は……。

 いつも考えはそこで止まり、ループを繰り返している。

「石上さん、貴明様がお呼びよ」

 メイド長の不在で、一番年かさの高田さんがその役目をされている。きっとお昼に見ていたのがばれたんだな。返事をして了承して、久しぶりにお会いできるというのに、なぜか心がときめかない自分を疑問に感じた。

 お部屋に伺うと、貴明様はソファを指され、私は向かい側にかけた。

「ひさしぶりだね。元気そうで何よりだ」

「貴明様こそ」

「うん、心配かけた。もう何もかもふっきれた」

「恵美様を、あきらめられたのですか?」

「うん。昨日改めて告白して、あっさり振られたよ。ものすごく……すっきりした。今の恵美は初恋の人で、親父と幸せだ。もう……いい。やっと彼女の幸せを願えるようになった」

「本当に?」

「本当さ」

 貴明様は長い足を組みかえられた。本当にそう思われているようで、お顔には穏やかな笑顔まである。

 どうしてそんなふうに思えるの?

 あんなにお好きでいられたのに、どうして?

「だから、もう僕は平気なんだ。そうそう、メイド長も結婚したらしいじゃないか。本当に皆どんどん幸せを掴んでいくんだよな」

「……そうですね」

 私がなんともなしに同意するので、貴明様は驚かれたようだ。

「あすかだって幸せになる。掴めるよ? 他人事みたいに言うんだね」

「他人事ではありません。貴明様にお幸せになっていただきたいんです」

「ん……。でも、僕は当分いい。やらなきゃいけないことが沢山ある。あすかは、どうなの?」

「私も何もありません」

 どうしてなのだろう。胸が弾まないのは。

 貴明様が私に腕を伸ばされないのを、幸いとまで思ってしまうのは……。

 はかなげな雰囲気や妙な妖しい影は消え去り、本当に穏やかにおなりになったのは、とてもうれしいのに……。

 貴明様は、以前の貴明様より遥かに立派になられた。それは、私はもう必要がないのだと思い知らされるのだ。

 そうこうしている間に、一月どころか二月が過ぎ、恵美様が女の子を出産された。

 美雪と名づけられた女の子は、圭吾様が大事に抱えられて佐藤邸にやってこられた。恵美様とお二人で帰ってこられたそのお姿は、とてもお幸せそうだ。ナタリー様も貴明様もうれしそうだった。

 変わったご夫婦だけど、確かに奥様と圭吾様は、友人のような関係なのだろう。

 この先はどうなさるのかと、皆が噂している。

 多分、貴明様が社長におなりの際に、離婚されて、恵美様と再婚されるのだろう。

 それが一番スムーズにいくような気がした。

 貴明様は、もう無茶な話はされない。

 私との関係も、普通のメイドと主人の関係。

 皆も、私と貴明様の中を詮索しない。何もないのがありありとわかるから……。

 中宮からは、なんの音沙汰もない。

 所詮、あの男の思いはその程度のものだったみたいだ。どこかで失望している自分にいらいらする。

 結局私は、いつだって中宮を待っている。だけどこれが答えだ。来てくれないのかと聞いてももらえない存在なのだ。

 このまま、人の幸せを見ていてもいいけれど、ここには中宮の思い出があって、思い出すのは辛い。

 思い切って、すべて忘れる必要がある。

 そう。

 足を止めて、窓から青空を仰いだ。

 辞めよう……、この屋敷を。

 私の居場所はここにはない。

 貴明様は、もう、おひとりでも大丈夫だ。無茶もされない。私は自由だ……。

 それも中宮がくれたものなのが、胸をせつなくさせる。

 未練がましい自分が嫌になる。

 奥様のお部屋へ辞める旨を告げにいくと、奥様は驚かれたようだけれどうなずかれた。

「行くあてはあるの?」

「はい」

 本当はありもしないのに、私は即答した。奥様は届けの用紙をくださり、その場で書いて判を押した。

「貴明は知っているの?」

「これからお伝えするつもりです」

「そう……」

 奥様は何かをおっしゃりたいようだった。でも何もおっしゃらずに、私はそのまま奥様の部屋を出た。妙にすがすがしい気分だった。

 廊下を歩いていると、圭吾様に呼び止められた。

「お前、辞めるそうだな」

「さっき奥様に申し上げたばかりですのに、早いですね」

「偶然だ」

 圭吾様は微笑まれ、私の肩を軽く叩かれた。

「ま、早く、中宮のところへ行くんだな」

「そうですね」

 行く気はないけれど同意した。圭吾様は満足されたように歩いていかれた。皆が皆幸せそうだ。

 笑顔を見るのはとても気持ちがいい。

 今夜、貴明様はパーティーに行かれる予定で、お召しになるタキシードをクリーニングに出していたのが、戻ってきていた。お部屋へ行くとおいででない。同僚に聞くと恵美様のお部屋だという。最近たびたび恵美様の部屋へ行かれているので、だれもそれを気にしない。

 お電話をかけたら、貴明様は持ってきてとおっしゃる。

 あまり行きたくないけれど仕方ない。

 最後の仕事だからと言い聞かせて、お部屋へ行き、ドアをノックをすると、恵美様の御声で返答があった。

 お二人は本当に仲がいい。美雪様はベビーベッドでお眠りのようだ。

「貴明様お持ちしましたが」

「ありがとう」

 ぎょっとした。貴明様はその場で服を脱ぎ始められた。

 でもぎょっとしたのは、私だけではなかった。

「ちょっとどこで着替えてんの! 圭吾以外の下着姿の男なんて見たくないんだから!」

「別にいいじゃん。素っ裸になるんじゃあるいまし。恵美ってばいつのまに純情になったの? 親父とやりまくってるくせに」

 生々しい話をされる貴明様に、恵美様は頬を赤められた。それが本当に魅力的で、羨望を覚えた。

「やりまくってない!」

「ったく面倒くさいな。仕方ない部屋で着替える。悪いけどあすか部屋まで持ってきてくれる?」

「貴明の馬鹿っ、エッチ!」

「恵美のほうがエッチなんじゃない? あははっ」

「貴明っ!」

 貴明様が部屋を出て行かれるので、私も出た。貴明様はとてもご機嫌だ。

 改めて、私の手はもう必要ないのだと、少し寂しく思った。

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