アイリーンと美獣 第03話

 蒼人に続いてキッチンへ入ると、大きなテーブルに鍋がセッティングされていた。

「鱧(はも)ですか」

「よく知っているね? 関西にしか出回らないような魚なのに」

「以前、京都に旅行に行った時に市場で見ました。でも高価だったから食べてないんです」

 当時、大学生だった壱夜は、鱧料理の値段の高さに目が回ったのを覚えている。

「じゃあ初めてなんだね。これはね、湯引きして食べるんです」

 壱夜の背後から箸を持った手が伸び、下ごしらえしてある鱧を一切れ摘んだ。蒼人の息遣いを頬や首筋に感じて壱夜は胸が騒いだ。近すぎやしないだろうか、第一なんでこんな後ろから説明するのだろう……。顔に熱が上がって、耳朶が熱くなるのを感じた壱夜だったが、蒼人は全く意識していないようなので悟られまいと普通を装った。

「ほら、これくらい白くなったら、こっちのたれをつけてくださいね」

 そのまま蒼人が、たれを付けた鱧を壱夜の口に運ぼうとしたので、壱夜は焦った。こんな事は小さい頃に母親にしかされた事がない。思わず横にそらすと蒼人はにっこり笑った。

「おいしいですよ。ほら、口を開けて」

「え……、と、僕は……」

「ほら、冷めないうちに。まあ冷めてもおいしいですけど」

 どうあっても食べさせようとする蒼人に、仕方なく壱夜はその鱧を口に入れた。上手に骨切りされている鱧は口の中で蕩けていく。

「……おいしい」

「でしょう? よかった」

 そう言ってやっと向かい側へ移動した蒼人に、ホッとした。なんというか自分のスペースに強引に割り込まれて息が上手くできていなかった気がする。ほぼ初対面の人間の部屋で食事をするという事など、今までなかったから余計だった。

「えと……二宮さんは、社長さんなんですよね?」

「うれしいな、名前覚えていてくれたんですか?」

 引越しを頼んだ客の名前なら、覚えていて当然なのにと思いながら壱夜は頷いた。蒼人は鱧はほとんど食べずに、白ワインのグラスを傾けてばかりいる。

「いちおう不動産の会社を経営しています。このマンションはうちの物件の一つなんです」

「そうだったんですか。凄いですねこんな一等地に……」

「ふふ、いろいろ大変だったのですが、その分大きな収穫がありましたから今となってはどうでもいいです」

「え……?」

 鱧に気を取られていた壱夜は蒼人を見て戦慄した。蒼人の微笑みにに妖しい影が潜んでいる。底知れぬ闇のようなもの、艶やかな闇色の毛を持つ獣のような……。

 それ以上食べる気になれず、壱夜は箸を止めた。

「どうしたんですか? まだ沢山ありますよ?」

「すみません、夕食を済ませていたので……」

「そうだったんですか? じゃあとっておきのワインを飲みましょう」

「いえ! もうお暇しないと」

「そう言わずに、ね?」

「…………」

 肩をやんわりと押さえられて、壱夜はやはり逆らえず再び椅子に座った。やっぱり蒼人は得体が知れない。とても優しいのに逆らう事は許さないという威圧感をビシバシ感じる。小さなワインセラーから、ロマネコンティと書かれているワインを持ってきた蒼人が栓を開けている間、壱夜は帰りたいとばかり考えていた。

「どうしたんです? 落ち着きがありませんね」

 蒼人に言われて壱夜は緊張した。しかし一体何に緊張しているのか分からない。得体の知れないものの正体が分からない。ただ、とにかくここは危険だ。とうとう我慢ができなくなって壱夜は再び立ち上がった。

「あのっ、僕やっぱり帰ります」

 このまま彼の思うとおりにワインなど飲んだら、ますます流されておかしな事になりそうだという不安が壱夜を急き立てた。もう手帳も社員証もどうでもいい。とにかくここを離れたい。しかし玄関へ向かおうとした壱夜の前に、両手にワイングラスを持った蒼人がたちはだかった。

「……あ…………」

「何をそんなに急いでいるんですか? 今日は何の予定もないと伺っていますが」

「そうじゃなくて、僕はこういうの慣れてなくて、そのワインは高価なものだし」

「たいした値段ではありませんよ。慣れてないのならこれから慣れればいいでしょう? さあ乾杯しましょう」

 これからとは何だろう。この得体がしれない美麗な男とつきあうのは嫌だと壱夜は思った。でも、やはり逆らえない何かに操られるようにグラスを蒼人から受け取ってしまう。

(何をびびってるんだ。ワイン一杯ぐらいさっさと飲んで帰ればいいんだよ!)

 薄暗いリビングの、紗の入った白いカーテンの向こう側に煌く夜景が見えているが、ロマンティックな気分にはまったくなれない。

「二人の出会いに乾杯」

 微笑みながら蒼人がグラスを鳴らすと、壱夜は一気にワインを飲み干した。ロマネコンティなどという高級ワインを飲んだのは初めてだったので、美味しいとか甘いとか味の良さはわからない。ただひどく飲みやすい酒だなとだけ思った。

「良い飲みっぷりだね。もう一杯どうですか?」

「いいえ、明日も仕事がありますし、これ以上はお客様に失礼になりますし、もうお暇させていただきます。夕食とお酒をありがとうございました」

 壱夜はグラスを突き返した。かなり失礼な態度だ。しかしこの蒼人という男に対してはこれぐらいしないと自分を通せない。

「そうですか……、残念です」

「それじゃありがと……うござ…………え……?」

 話している最中に、壱夜は何故かくらりとして膝を付いた。何故か手足が痺れて力が入らない……。

「どうかしましたか?」

 ひどく優しい声が、間近に聞こえて壱夜はびくりと震えた。屈んだ蒼人が自分を抱え込むようにして顔を覗き込んでいる。その目は始めて見るようなギラギラした恐ろしい色を帯びていた。

(これだ……、これが、この人の本性だ)

「僕……」

「具合が悪いんですね? それはいけない、横にならないと」

 心配しているというより、うれしそうな声で蒼人が壱夜を横抱きにして歩き出した。恐ろしい事が起きると壱夜は思い、助けを呼ぼうとジーンズのポケットに納まっている携帯を取ろうとしてみたが、もう指一本動かす事ができなかった。

(ワインに何か変な薬を入れられたんだ……)

 どさりと下ろされたのは、やたらと大きなベッドの上だった。低反発のスプリングに身体が沈みこむと、逃げなければという意思に反して、意識が朦朧としてきた。ふわふわと夢の中のいるような気がしてくる……。

(眠くてだるくて……熱い……え? 熱いって……)

 シャツの上から撫で回してくる、妙に熱い手のひら。時折その合間に、首がちくちくしたりぬるぬるしたり、くすぐったい。その刺激にますます身体が熱くなり壱夜は我慢ができなくなった。

「は……あ!」

「いい反応をしますね。楽しみだ……」

 くくくと笑う蒼人の声がごく間近に聞こえる。おかしい、なんだろうこれはと壱夜は沈んでいく意識を懸命に浮上させた。

「!」

 ぼやけた目で捉えたのは蒼人の癖がかった黒髪だった。身体全体に蒼人が圧し掛かっている。せわしない息遣いと水音が間近に響き、部屋が暗いだけにその感触は濃厚で壱夜を驚愕させるには十分だった。

「やめろ……よ! 何を……ふざけんの……やめ……うあ!」

 がり、と胸の先を齧られて壱夜は呻いた。信じられない事に痛いどころか妙に甘い疼きが走る。

「ふざけてなんかいません。私はね、今日、壱夜に出会ってからずっとこうしたいと思ってたんですよ。想像通りだ……」

 滑らかな蒼人の頬が自分の顔に摺り寄せてくる……。ぞわりと背中が総毛立った。

「止……めろ……僕は男……な……」

「知ってますよ。とびきり綺麗で可愛い青年だって事は。私の好みのタイプです」

 同性愛というものが存在する事は知っていたが、まさか自分の身に起きるとは壱夜は思っていなかった。得体の知れない闇は蒼人が壱夜を性的対象に欲している視線だったのだ。 本性を曝け出した獣が自分を嬲って、餌食にしようとしている。

「は……やあっ……ンン……くそっ……止め……あああ!」

「まったく煽ってくれる……ふふ。ゆっくり食べてあげますよ」

 壱夜は性行為の経験がない。22歳まで経験がないと言うと仲間は不憫な奴だと言って笑った。でもそういう行為は結婚する人としかしないと壱夜は決めていたのでなんとも思っていなかったし、それどころか自慢しているぐらいだった。もちろん人並みに性欲はあったので自慰行為はたまにしていた……。

「ぁ……あぁ……んっ……ん!」

 触っているのは男なのに、人にされる愛撫の気持ちよさは段違いで、それが壱夜を自己嫌悪に突き落とした。何しろ自分はこの男を愛しているわけではないのだから。それなのに感じている自分はなんだろう。

 すっかり肌蹴られた壱夜は、隅から隅まで蒼人に舐められて悶えている。それでも生来の負けん気が意識の隅で早く逃げろと言っていた。

「いいよ、壱夜……、すごくいい」

 時間がかなりすぎた頃、インターフォンが鳴った。

「誰だまったく……」

 蒼人は顔に似合わない舌打ちをして壱夜から離れると、玄関へ歩いていった。壱夜は逃げるなら今しかないと懸命に起き上がる。薬が残っているのか愛撫に蕩けたせいか多少痺れてふらつくが、走れない事もない。廊下をヨロヨロと歩いて玄関へ向かい、壁の影からそっと見ると玄関のドアが開いていて、黒スーツの男と蒼人が何か話している。

 黒スーツの男が頭を下げた瞬間に、壱夜は走った。

「あ!」

 蒼人の声と同時に、壱夜は自分の靴を掴んで黒スーツの男に思い切り体当たりし、外へ飛び出した。背後で蒼人の「逃がすな!」という切羽詰った声が響く中、壱夜はエレベーターに飛び乗って階下へ向かう。おそらくあの管理人が捕まえようとしてくるだろう。恐ろしさと緊張の中、壱夜は汗で湿った拳をぶるぶる震えながら握り締めた。

 しかし、この時天は壱夜に味方した。二人いる管理人はそれぞれ他の住人との対応に追われていて、エントランスにいなかったのだ。壱夜はそのままマンションを脱出するとタクシーに乗り、社員寮へ戻る事ができたのだった。

 社員寮で同室の若松は壱夜の話を聞いて眉をひそめ、一刻も早くここから離れたほうがいいと言った。

「どうしてですか?」

「二宮蒼人はやくざって噂があるんだ。なんでも母親がやくざの妾だったそうだぜ。結構会社経営もえげつないって聞いてる」

「……まじですか」

「あいつ、朝、お前の事凄く嫌な目で見てたから注意しようと思ってたんだ。あの手の輩はしつこいぜ……。お前鈍感だし、俺が牽制していたから気付いてないけど、お前に物欲しげな視線投げてる野郎は他にもいたんだぜ? 会社でも客でもな」

 若松はめったな事をいう男ではなかった。壱夜はその日のうちに会社を辞めて、県外へ飛び出した。その行動は大正解で、翌日蒼人の部下が会社へ乗り込んできたという。

 それを聞いた壱夜はさらに離れた東京へ移動し、目立たないようにひっそりと暮らす事にした。この半年は蒼人の影もなく、もう大丈夫だろうと思っていた矢先だったのに……。

 

「ぁあ……あ……んんン……はっ……うぁ」

「前回のように、中断は絶対にありませんよ。あれは不覚でしたね。せっかくの薬も弱いものでしたから効き目が薄くて……」

 圧し掛かってくる蒼人に何度も何度も首筋を舐められながら、固く立ち上がったものを扱われ、壱夜は快感に振るえながら首を頼りなく振った。蒼人の指先から愉悦の痺れが生まれて腰を蕩けさせる。

「駄目だって……、僕は……そんな趣味ねえ……から」

「そう? きっちり反応しているのに?」

 意地悪く笑った蒼人の唇がぬるりと下に下りて、赤く尖った乳首をきつく吸い上げた。

「ああぁあんっ……、ぁあっ……あっ……だ……め……そんな……くぅ」

 じゅうじゅうと吸われて、壱夜は足をばたつかせてよがった。このままだと自分が自分でなくなってしまう。たまらなくなってしがみつきたくもない蒼人の首にしがみついた。

「ああっ……ああっ! 駄目だ……っくる! くるよっ」

「イったらいいよ。可愛い……」

「じょ……っ離せよ! 嫌だ! や……! ああああっ!」

 蒼人から逃れようと壱夜は必死にずりあがった。しかし蒼人の腕が腰にしっかりと回っているので逃れられない。

「あっあっ……ああああっ……」

 蒼人のもたらす熱の愉悦に耐え切れずについに壱夜は達してしまい、どくどくと蜜を蒼人の手に吐き出してしまった。荒い息を吐きながら涙を流す壱夜を、いとおしそうに蒼人が抱きしめて肩から足へ優しく撫でた。

「可愛い……想像以上です」

「……るさい。お前なんか、死んでしまえ! よくもっ……う……」

「その泣き顔が見たかったんです。捜していたんですよ、私のすべてを暴いてくれる相手を」

 そんな相手に絶対になってやるものかと思いながらも、壱夜は蒼人に抱かれているしかなかった。

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