アイリーンと美獣 第07話

 真夏の太陽が照りつけ、車内はサウナのように暑い。壱夜は冷房を全開にしながら、まず車内の熱気を追い出すためにパワーウィンドウを開けた。これから顧客の家へ家具を配達に行くのだが、真夏の強い太陽光線をもろに目にすると冷房が効いている店内へ帰りたくなる。

「よおアイリーン。へばってんのか?」

「へばってねーよ。大体年下の癖にタメ口聞くんじゃねーよ」

「すいやせーん」

 山田はへらへら笑ってハンドルを握った。地域の草野球チームに入っているという山田は、日に焼けてますます男らしさが増したような気がする。短く刈り上げてある髪は明るい茶色に染めてあり、太く頑丈そうな首に肩、身長がかなり高く、思わずひょろひょろしている自分と比べてしまった壱夜は深いため息をついた。

「なんすかー? 失恋かなんかですか?」

「恋ならしてねえよ。誰か可愛い娘居たら紹介しろ」

「俺も居ません。居たら自分がとりますよ。……妹なら居ますがね」

「まじかよ。紹介しろっ」

 うれしそうに言った壱夜に、横目だけで山田が笑った。

「無理っす。妹身長が170ありますから……。あと、好みはシュワルツネッガーっす」

「…………ふーん」

 あっけなく撃沈した壱夜は、よく考えたらゴリラみたいな山田の妹を彼女にしても仕方ないと思いなおした。それにしても冷房の利きが悪くてまだ暑い。作業着の前ボタンを二つ外して、右手でなんとなく扇いだ。

「そのチョーカーおしゃれっすね。どこに売ってるんすか?」

「! 馬鹿野郎っ。こんなんおしゃれじゃねえよ。てめえの目ぇ腐ってんのか!!」

「うわあっ」

 いきなり怒り出した壱夜に胸ぐらを掴まれ、山田はハンドルを持つ手を滑らせた。車がおかしな方向へ曲がりそうになり、懸命にハンドルを元に戻す。幸い人影は無く、空き地に突っ込む手前で車は止まったが、夕方だったら人を轢いたかもしれない。

「危ないじゃないっすか! 褒めただけなのに……」

「るせえ! これは好きでしてんじゃねえの。脅されてつけてんだよ」

「…………はーん……」

 にやりと笑った山田に、壱夜は山田の胸ぐらを掴んでいた手を離してたじろいだ。

「な、なんだよ」

「いるんじゃないっすか、彼女。そんなおしゃれなのくれるの。彼女ぐらいなもんでしょ」

「違う! あーもーうるさいっ。早く運転しろよ。時間間に合わないだろーがっ」

「了解っす~。可愛い彼女さん紹介して下さいね~」

「馬鹿かお前は!」

 壱夜の横ボディーが決まり、山田がごほごほと痛そうにしながら車を運転しているのを睨みながら、壱夜は胸の中で毒づいた。

(彼女がくれたんじゃなくて、野郎だっつーの! そんな事恥ずかしくて言えるか!)

 蒼人にマンションへ拉致されてから、もうひと月が経っていた。最初の二週間ほど蒼人のせいで会社へ出勤できず寝たきりになった。恥ずかしい所の怪我が治りかけるたびに蒼人が壱夜を抱きつぶしてくれたせいだ。

 今日ようやく出勤できたわけだが、その際にわざわざ蒼人がプレゼントしてくれたのが、このGPS付きチョーカーだった……。

「あーあ……、このまんまどっかに行きてえなあ……」

「やですよ、野郎と二人でトラックでどっか行くなんて」

 山田が腹をさすりながら文句を言った。壱夜は普通そうだよなと何回も頷く。

「でもさあ……、時々高飛びしたい時あるんだよ、僕」

「なんすか一体。犯罪でもするんすか?」

「……する度胸があったらとっくにしてるよ。はあ……」

 

 遥か向こう側に首都高速が見える。アレに乗って空港へ行き、ヨーロッパでもアフリカでも北極でもいいから、飛んで行きたい。チョーカーの先の小さな銀のコインをつまみながら、壱夜は無理だと首を振った。

 だが……。

(待てよ? 落としてしまったって言えばいいんじゃないかな? それに……)

 蒼人の部下である店長の畑中と、仕事中は絶対に付いて来るんじゃないと跳ね除けた、岩中が居ない今こそが逃亡のチャンスではなかろうか。顧客の家に着き、家具を運び込んでいる間、壱夜は逃走の事で頭が一杯になった。このチョーカーは壱夜の位置を蒼人に知らせるとんでもない人権無視アイテムだ。ひょっとすると盗聴もされているかもしれない。こんなものは無いほうがいい。

(いちかばちかやってみるか!)

 壱夜はチョーカーの黒いベルト部分を怪力でぶっちぎると、山田が見ていない時に顧客の家の近くの川に捨てた。そしてトラックで帰社する最中におなかを押さえながら言った。

「いたっ……いだだだっ! わりい、いきなりトイレ行きたくなった。下ろしてくれ」

「え? すぐ店に着くっすよ?」

「しゃれにならねー下痢なんだ。そこの喫茶店でトイレ借りる。あとは歩いて帰るから」

「大丈夫っすか? じゃあ……」

 山田の心配そうな顔にちくりと良心が痛んだが、自分の自由のためには多少の嘘は仕方がない。たたっと喫茶店に入り本当に用を足した後、喫茶店から出てきた壱夜は駅へ向かって走り出した。

「社長!?」

 書類を見ていたその目が剣呑に細くなり、いきなりパソコンを開き急いでキーボードを叩きだした蒼人に、決済を待っていた秘書が驚いた。

「いかがされましたか」

「……様子がおかしい。壱夜に何かあった。ここへ行って調べてこ……」

 蒼人が指示するのと同時に社長机の電話が鳴った。ひったくるようにその電話を取った蒼人の顔がどんどんどす黒いものに変わって行き、やがて黙って電話を切った。

「社長……」

「壱夜が逃げた」

 紳士的な仮面がはがれ、机を腹立ち紛れに蒼人は蹴り上げる。しばらく立ってから部屋に入ってきた岩井を目にするなり、蒼人は岩井の足を払って転ばせ、その腹を蹴り飛ばした。

「がっ……!」

「てめえ……、その面よく見せられたもんだ! ああ?」

 日頃の優雅な物腰のかけらもない口調で蒼人が怒鳴り、岩井をさらに蹴る。体格的には圧倒的に岩井の方が有利なはずだが、反抗せずに岩井はされるがままに蹴られ続ける。

「なんで壱夜の傍を離れた? てめえをあの店の従業員に加えると言ったろうが?」

「……壱夜様が望まれましたので……がはっ」

 顔を蹴られて岩井の巨体が転がった。 

「馬鹿かよ? あの坊やはまだ俺に従っちゃいねえ。あの猫みたいな目ぇ見てわかんねえのか! あいつはなあ、とことん可愛がって馴らさねえと家に居つかねえ野良猫だ。見ろ、早速逃げ出しやがったじゃねえか!」

 乱暴に蹴り続ける蒼人に、秘書が冷静に口を挟んだ。

「社長、壱夜様を探す事が先決かと」

「……ああ、そうだったな、……っち!」

 蒼人が煙草を口に咥えると、秘書がその先にライターでうやうやしく火をつけた。紫煙を燻らせながら冷え切った視線を彷徨わせた後、蒼人は何かに気付いたように笑った。

「そうか、……岩井お前……わざとやったのか?」

「……何の……事か」

 腹を庇いなが立ち上がった岩井の肩を、先ほどまでの悪鬼の形相が消えた蒼人が上機嫌に叩いた。

「まったくたいした奴だよてめえは。だけどなあ? 今は津島の馬鹿兄がこっちの弱みを探していやがるからな。そうそう日にちは置けねえんだよ。せいぜい今日の夕方までさ」

「それであの方には十分ではないかと」

「向かう先の検討がついてるんだな?」

「小野寺と渡辺に尾行させてます」

「ふっ……」

 小さく笑うと、蒼人は顎で秘書に岩井の手当をするように指示をする。手当てを受け始めた岩井をちらりと眺めやると、蒼人はどさりとソファに腰掛けた。ややあってから落ちていた岩井の携帯に着信が入り、勝手に蒼人が出た。

「私だ。岩井は今お休み中だから代わりに出ましたよ」

 すっかり紳士に戻った蒼人が優しい口調で言う。少しの受け答えの後通話を切り、蒼人がおかしそうに笑った。

「電車乗り換えの後、空港行きのバスに乗ったそうだ。パスポートがないから国内のどこかだろうね……。……離陸寸前に捕まえてあげましょう。夢は長く見られているほうが幸せというものですから」

「……そうですね」

 手当てが終わり立ち上がった岩井に今夜の食事はいらないと蒼人は言い、代わりに秘書に空港近くのホテルの部屋を押さえるように言った。やがて部屋で一人になった蒼人は煙草を灰皿に押し消した。

「しかし……、野良猫を手なづけるのは面倒なようで楽しいですね」

 ブラインドを指で軽く開け、真夏の晴れ渡っている空を見ながら蒼人は一人楽しげに口元を歪め、今夜はどう壱夜を抱いてやろうかと考えをめぐらせ始めた。

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