アイリーンと美獣 第18話

「薔薇が……うぜえ」

 壱夜は一般病棟に移ってから、毎日のように蒼人から贈られてくる色とりどりの薔薇の花に囲まれて、そのむせ返る芳香に頭痛さえ感じ始めていた。自分ひとりにこれだけの花はもったいないし、他の患者さんに分けてあげたい気がする。でもこれは蒼人の強い愛情の現われであるし、心配ともうしわけなさでもあるので受け取ってやるしかないと諦めている。

 あれから壱夜は、腕が第一級の外科医がいる病院へ連れて行かれた。銃撃を受けたという事で病院内では大騒ぎになり、当然通報された警察が駆けつけて事情聴取があった。複雑な事情が幾多も絡んでいたのだが、結局やくざの抗争という事で処理されたらしい。闇医者に見せて穏便にというふうにも出来たのだが、一人を追放したという意味合いも含めて発信するため、わざと普通の病院へ連れて行ったとの事だった。壱夜が目覚めたのは事件があってから四日が過ぎた朝で、居た場所は沢山の機器で溢れている薬品臭い部屋だった。一瞬どこに居るのか何故ここに居るのか焦ったが、付き添ってくれていた岩井が説明をくれたのですぐに状況を把握する事が出来た。一週間ほど集中治療室に居て、やがてホテルのスイートのような豪華な個室に移されてまた日々が過ぎ、現在に至る。

 薔薇を贈ってくるだけで本人は姿を現さない。こんなに会わないのは始めてだった。あの顔を見るのもいやだと思っていたのに、こうも見ないとさすがに壱夜も気になった。それで壱夜は思い切って岩井に聞いてみた。

「蒼人様は今どうしてもはずせない用事がおありなのでいらっしゃいませんが、とても心配しておいででした」

 岩井は常と変わらない表情で言った。

「……ふーん」

 いろんな感情がせめぎあってうまく思考がまとまらない。壱夜は自分の心の輪郭がぼやけて、蒼人への気持ちもぼやけてしまっていた。おかしな話だが、好き嫌いを通り越して蒼人という人間をどう思っていただろうかなどと考えている。怖い、得体がしれない、強引、ヤクザというのが壱夜が一番思っていた事で、一人から感じた憎しみや殺してやりたいとか羨望とかいう感情は全く無かった。開放されたら後腐れなく忘れてしまえそうな……。

 途切れ途切れに壱夜はそれを岩井に話した。彼は壱夜の身体を案じてくれているし、また一方で蒼人をよく知っている。全て聞き終えた岩井はパイプ椅子に腰を掛けて両腕を組んだ。

「なるほど、蒼人様の異様な執着の原因がわかりました。貴方から執着を感じないから余計にひどくなったんですね」

「え?」

「あの方はあの通りの容姿で男女共に猛烈に惹かれてしまうのですよ。でも、貴方はまったくそれがなかった。だからこそ鎖でつなげるなどと馬鹿な真似をされたんでしょう」

「あれって僕が初めてなわけ?」

「ええ。これまでは蒼人様が頼みもしないのにいろんな人間が押しかけてきて、われわれが追い出していたくらいですから」

 もてるのも大変なんだなと壱夜は少しだけ蒼人に同情した。ほんの少しだけだが……。

「この度の事はここまでひどいとは予想していらっしゃらなかったようで、めずらしくとても反省されておいでですよ。ご自分に対する一人様の執念を軽く見ていたせいで、壱夜様がこんな傷を負われたのですから」

「でも、それってあいつのせいじゃ」

 壱夜は思わず蒼人をかばってしまった。岩井はそれに対して横に首を振る。

「あの人のせいですよ。あの人はかなり傲慢な方ですが、一旦反省しだすと底がないのが困り者です」

「…………」

 テレビを見るのも本を読むのも禁止されている為、壱夜は退屈で仕方が無かった。幸い銃弾は内臓を傷つけなかったようだし、肌の傷も残るだろうが、のちのち身体に影響が出るものではないらしい。元来の超がつくほどの楽観的な性格のお陰で、一人達の陵辱に特にダメージは無かった。もっともあれ以上の事をされていたら、精神を患っていたかもしれない……。

「俺、アパートに帰れるの?」

「……そうなるのが、壱夜様のお望みだったのでしょう?」

 岩井が不思議そうに言った。確かにそうで、幾度も逃げ出してやると思っていた。でも一方でこんなに簡単なものなのかと(重傷を負ったが)寂しく思う一部分もあり、それに壱夜は憮然とした。自分はあっさりと蒼人を忘れられると思っていたはずなのに。

 こんこんとドアをノックする音が響いた。岩井が立ち上がりドアの向こう側に向かって声をかけている。やがて現われたのは、壱夜の記憶に無いが、姉さんと呼ばれていた恰幅のある女性だった。

「この度は、うちの馬鹿息子共が大変ご迷惑をおかけしました。許してください」

 きっちりと頭を下げられて壱夜は慌てた。岩井もびっくりしている。壱夜が何度も気にしていないと言うまで、女性は顔をあげなかった。ようやく頭を上げて少しだけ笑った顔は、蒼人に良く似ていた。

「最近、女遊びを止めたかと思えば男に走ってると聞いてどんな子だろうと思ってたら……、なるほど、あんたみたいな子だったら蒼人もいちころになるわね」

「……あのー、本当に蒼人のお母さんなんですか?」

「ええ。蒼人と照久を生んだのは私。一人は前妻の子だけど。どいつもこいつもクズに育ってしまって……、特に一人は申し訳なかったわね。組のもんにも世間様にも示しがつかないから、裏ビデオに売り飛ばしました。これでましになればいいけど……」

「う、裏ビデオ?」

 女性はうなずいた。

「何故か知らないけど蒼人に惚れて仕方なくてね。同性愛は気にしないけど、さすがに近親相姦は許されないでしょう? 蒼人も嫌がっていたし。今回の事件は頭もカンカン。誰も同情しないわ……はあ」

 同情したくなるくらい、確かにとんでもない三人ではある。やくざの家庭の事情はよく知らないが、組の抗争に追われてろくに子供の傍に居てやれなかったのだろう。壱夜は自分の両親を思い出し、多分の愛情を注いでくれた二人に今更ながら感謝した。

「顔と頭と金回りがいいと来たら、擦り寄る連中が多くてね。だから蒼人はどんな男も女もすぐ飽きてポイだったの。それなのにまあ……あんただけにはマンションに住まわせたり鎖つけたり、今回の事件が起こって岩井に聞くまで私も知らなくて、本当に迷惑をかけました」

「いえ、それは」

 大の大人のしでかした事を、熟年の親が謝るのに違和感を感じる。この女性が命じたわけではないので謝られる筋ではない。そう言うと、女性はじっと壱夜の目を覗きこみ、妙に温かな笑顔を浮かべた。

「……本当にいい子ね。だからこそ蒼人みたいな人でなしにはもったいないわ。ありがとう」

「あの……」

「早く元気になってね。そうそう退院後のアパートや職は必ず力になるから」

「いや、ちょっと、待って!」

「ごめんなさい。忙しいものだから。ではお元気でね」

 連絡先が書かれた紙を壱夜に手渡して、慌しく女性は帰っていった。親子とはこうも似るものなのかと壱夜は呆れた。蒼人といいあの女性といい、言いたい事だけ言って壱夜の心など考えもしないようだ。壱夜は出口の無い感情をもてあまし頬を膨らませたが、さっきまで居た岩井は女性を見送るために部屋を出て行ったため、誰も見ていなかった……。

 病院を退院すると壱夜は元のアパートに戻った。就職先は壱夜の怪力を活かした引越し屋にまた戻った。あまりにも平凡な毎日が過ぎ、蒼人の事は夢だったのかなと思うようになっていた。

「菅谷、おまえ本当にちっこいくせに怪力だなー」

「先輩が力が無さ過ぎるんです」

 壱夜は自分よりずうたいがでかいくせにと笑い、どんどん重たい家具を運んでいく。季節は晩秋で、日中でも長袖を着て作業するようになった。ここでは「アイリーン」などという嫌なあだ名はなく皆姓で呼んでくれるし、社内には可愛い女の子も多くて壱夜は満足していた。……満足しているつもりだった。

「今日は飲みに行くか菅谷?」

「いいですね。明日は定休日だし……」

「うんうん、お前の為にナンパも教えてやるよ」

 妻帯者の同僚に壱夜は笑った。

「ははは、奥さんに言いつけますよー」

 たんすなどを設置しながら、お客を交えての作業はとてもはかどっていた。壱夜がとても明るく開放的な雰囲気を持っているため、私語が多くなってもお客は許してしまうらしい。チップを貰う事も多く、今日も壱夜が気に入ったと言って、お客のおばさんから一万円も貰ってしまった。もちろんそれは壱夜のものになるのだが、壱夜はいつもそれをみんなで飲みにいくのに使い、独り占めしたりしなかった。それは両親からの教訓の様なもので、ラッキーなものは手に入ったら必ず皆に配るのが当たり前だと壱夜は思っていた。

 でも、もしアンラッキーが手に入ったりしたら……?

 そう壱夜が聞くと、両親は大笑いしてこう言った。

 そんなものは持っていたって仕方ないから、自分のためになる部分だけ貰ってあとはゴミ箱に捨ててしまえばいい。

「…………」

 終業後、壱夜は同僚達と夜の街中を居酒屋に向かいながら、そんな両親との会話を思い出していた。

「お、すげえ美人」

 同僚の一人がホテルの横で立ち止まった。他の同僚達もどれどれと見て、確かに美人だと言って笑う。壱夜はなんとなくそちらを見て固まってしまった。

「いーよなー、あいつ金有りそうだし面もいいから、美人が擦り寄ってくれるんだなー。あのホテル一泊いくらだっけ?」

「さー? スイートのすげえやつなら十万はくだらないんじゃねえ?」

 同僚達の話は壱夜の耳には入ってこなかった。高級車から降りてきた蒼人が美女を笑顔でエスコートしていく姿しか目に入らない。耳は聴覚を失ってしまったかのようだった。

 蒼人に会わなくなって数ヶ月が過ぎていた。

 それぞれがお互いの道に戻り、あっちはヤクザな毎日を、壱夜は平穏な毎日を……それでよかった筈だった。

 それなのに。

 壱夜は気がついたら同僚の肩を押しのけて、蒼人に向かって走り出していた。

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