アイリーンと美獣 第19話(完結)

 壱夜が蒼人の前に飛び出したのと、付き添っていた岩井がはっとして振り向いたのはほぼ同時だった。組の襲撃かと思ったらしい岩井は、血相を変えて現われた壱夜に瞠目し、構えの姿勢のまま先程の壱夜と同じように固まった。美女が乱入してきた壱夜に軽い悲鳴をあげる。

「蒼人ーっ!」

 壱夜は驚いている蒼人のブランドスーツの襟を両手で掴み、その大きな身体で高級車をぶっ叩いた。かなり大きな音がして通行人が振り返った。

「壱……夜?」

「おまえっ……何やってんだよ!」

「何って……」

 言いよどんでいる蒼人に壱夜は怒り、蒼人を突き放して思い切り高級車のドアを蹴飛ばした。どごんと凄まじい音がしてドアが変形した。どかどかと壱夜が車を破壊していくのを蒼人が呆然として見ているだけだったので、岩井が止めようとしたが、反対に壱夜に殴り飛ばされて見ている通行人の群れに突っ込んだ。やがて、見るも無残な姿になるまで車を破壊した壱夜は、蒼人に怒鳴った。

「なんだよこの真っ黒けのベンツは! てめえの変な趣味のギンギラマセラッティはどうしたんだよっ」

「壱夜。とにかく落ち着いて」

 ようやく調子を戻しつつある蒼人が、美女をもう一人の部下に預け、壱夜に向かい合った。

「っさい! 落ち着いていられっか!」

「壱夜……」

 部下達は皆壱夜を知っているので、岩井に止められて成り行きを見守っているだけだ。ざわざわと通行人の人だかりが出来始め、ホテルの支配人が出てくる騒ぎになっているが、壱夜は恥も外聞もなく叫んでいた。

「ずっと待ってんのになんで来ねえんだよ! 俺はお前のもんじゃないのか! 逃げ出したくっても追いかけてきてくんなきゃ、意味ねえんだぞ!」

「…………」

 壱夜は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。案の定面白そうに携帯端末で写真を撮る馬鹿が出始めた、しかし彼らはすぐに携帯端末を蒼人の部下に奪われ、すごまれて逃げていった。ぐずぐずと泣き始めて座り込んだ壱夜の肩に、蒼人が優しく自分の手を置いてかがみこんだ。

「壱夜」

「お前なんか……大馬鹿鬼畜野郎だっ」

「壱夜」

「自分の言った事忘れやがって……」

「すみません」

 たまらなくなった壱夜は、がばっと蒼人にしがみ付いた。きゃあという女性達のうれしそうな悲鳴と、男性達のざわめきが沸き起こった。蒼人は注目されるのが好きではないので困ってしまったが、何も言わずに壱夜を抱きしめ返した。  

「大馬鹿は貴方でしょう? せっかく開放してあげたのに……」

「うっせぇ。俺は縛られんのが好きなんだよ……」

 おいおい泣きながら壱夜が蒼人のスーツの胸の部分を濡らした。蒼人は微笑する。

「そうだと思いました。私は貴方の心にも鎖を繋いだんです」

「…………まじかよ」

 くさすぎる台詞に、壱夜の涙は一気に引っ込んだ。見上げた蒼人の顔は、よく見ていたふてぶてしい態度が満ち満ちていて、ふつふつと壱夜の心の底に反抗心が芽生えてきた。それを感じ取った蒼人が、さっと壱夜の身体を横抱きにし、また通行人の山から悲鳴が沸き起こる。

 美女は蒼人ににっこり微笑んだ。蒼人もうれしそうに微笑み返し、さあっと人が開けた道の中を通ってホテルに向かって歩いていく。

「まじですよ。だから貴方はこうして来てくれたんでしょう?」

 拍手が沸き起こった。壱夜はそこで初めて自分の狂態に気づき、赤面した。

 ホテルで一夜を過ごし、仕事がある蒼人を見送ってから、岩井と共に壱夜が蒼人のマンションに帰ると、何故か照久が待ち構えていて一日中思いっきり愚痴られた。

「ってなわけで、ここ数ヶ月の蒼兄ったらなかったんだぜ。ふつーどーりに会社はやってんだけど心はここにあらずって感じでさあ。男も女も遊ばねえし、聖人君子かっての」

「はあ? 昨日は美女とホテルに入ろうとしてたぜ」

「ありゃあ愛人じゃなくって、得意先の社長だっつーの」

「へー」

 どうりで修羅場にならなかったわけだ……。

 壱夜は岩井の用意してくれたホットミルクをすすった。昨日の蒼人は妙に紳士的で薄気味悪かったが、まあ奴なりに反省しているのだろうと壱夜は結論付けていた。岩井がなにやら心配げに言った。

「本当にこれでよかったのかどうかはわかりませんけどね、言っておきますけど蒼人様は組を継がれる方なんで、一人様を遙かに超えるとんでもない輩が襲ってきますよ? それでもいいんですか?」

「嫌だけど。もういいよ」

「変わった方ですね。ヤクザの世界に飛び込んでくるなんて」

 岩井はコーヒーを立ったまま飲んだ。照久がひひひと笑って壱夜の頬をつついたので、壱夜は照久をでこピンした。

「って! このやろ、犯してやる」

「おーこーとーわーりー」

 壱夜が怪力を発揮して照久の手首を捻り上げた。ぎゃあっと照久は叫んで床にひっくりかえり、降参降参と喚いた。そこへ蒼人の帰宅を告げるインターフォンが鳴った。

「お、やっと帰ってきやがった」

「お待ちください。ご本人かどうか確かめませんと」

「ばーか、この押し方は明らかにあの野郎なんだよっ」

 スキップで走っていく壱夜に岩井は深いため息をついた。この先も自分は蒼人の愛人関係に苦労しそうだ。いや、もう愛人とは言えない。今朝、壱夜は二宮蒼人の養子になり、義理の息子という家族になったのだから。よく使われる手だが、愛人が書類上の息子というのはかなり気が滅入る……。しかし、玄関から楽しそうな会話が聞こえると、その滅入りも消えていくのだから自分も毒されているのだと岩井は苦笑する。結局自分も照久も壱夜の魅力には勝てないのだ。

「照久様はこちらで私と食事にしましょう」

「わかってるよ。あのいちゃつきぶりを目の前にはしたくねえ」

 照久はまだ痛む手首を押さえながら、リビングから見えるキッチンを眺めた。今日は壱夜が和食を作ったらしく、和食好きな蒼人が珍しい笑顔を浮かべている。気持ち悪いなあと思いながらも、照久はうらやましくなった。

「また壱夜貸してくれんかなー」

「もう無理でしょう。今度は東京湾に沈められますよ」

 岩井がリビングのテーブルにご飯を並べながら、こともなげに言った。

 壱夜は蒼人と向かい合って座り、ニコニコ笑った。

「おい、てめえ、俺に一口目はアーンしろよ」

「はいはい、わかってますよアイリーン。はい、アーン……」

 リビングの向こうで砂を吐いている二人を全く気にせず、壱夜と蒼人はのろけ全開でいちゃつくのだった。

【アイリーンと美獣 終わり】

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