あとひとつのキーワード 第04話
営業から回ってきた書類に不備があり、営業部のある4階のフロアに向かっている最中に、見覚えのある姿が目に入ってきて思わず足を止めた。向こうも同じように足を止めたけれど、私と同じでそれは一瞬で、お互い何もなかったようにすれ違った。すれ違う瞬間、胸の奥に潜む想いが痛みとなって突き刺さってきて、持っていた書類のファイルでそれをそっと押さえた。
珍しく周囲に人はなかったので、誰にも何も言われなかった。
前社長が、真嗣さんの結婚を期に社長職を退き、真嗣さんがこの会社の社長になった。それはダメ押しのように、私と真嗣さんとの間に距離を作るものだった。
……もう私と真嗣さんの間には、何もない。
半年前はあんなに近かったというのに。
父と沙彩親子と初めて会った日、靖則に前世の記憶を蘇えさせられて、上塚の広く立派な屋敷へ連れて行かれた。
「おかえりなさいませ……、そちらは」
出迎えた使用人頭の中年の女性は、私を見るなり顔を思い切り顰めた。私を知っているのだろう。
「なんですか旦那様。この娘を本当に迎えお入れになるおつもりですか?」
それに答えたのは沙彩だった。
「ちがうのよ夢乃。すみれさんはとてもしっかりした方でね、ご自分で何もかもおできになるから、こちらへはいらっしゃらないのですって。だけど、一度でもご招待したほうがいいかなって、私が無理にお連れしたのよ」
「まあ、お嬢様はどこまでお人がいいんでしょうね。ですが、どうして……」
「私が一度でいいからいらしてと、ご招待したの。だからすみれさんをそんな目で見ないで、ね?」
先ほどとは別人のような沙彩。どこから見ても、母親違いの姉を立てている健気な妹だ。
相当な性格の悪さに、吐き気すら覚える。
「客間にお連れするから、お茶を持ってきてね」
「かしこまりました」
それでも夢乃という女は、私を面白くなさそうにちらりと見た。
好きで来てるわけじゃないってのに、不愉快な人達だ。いつものポーカーフェイスで見返したら、睨み返され、母と私の評判はここでは最悪なのだと思い知らされた。
客室へ通された私は、ソファに向かい合って座った沙彩と靖則の間に立たされた。まるで使用人扱いだ。父と沙彩の母親は入ってこなかったので、部屋にいるのはこの三人だけだ。
まるで女王のように優雅に足を組んで、沙彩が言った。
「いいこと? 夢乃が来たら、黙ってお茶を受け取りに行きなさい」
「なんで私がそんなことをしなきゃいけないのよ?」
命令する沙彩にむかっ腹が来た。
沙彩はせせら笑う。
「さっきの夢乃の態度でわからなかったわけ? ちょっとは気をきかせなさいな」
「する気もないわ」
馬鹿馬鹿しい。もう帰ろうとドアに向かおうとした時、突然頭に激痛が走った。
「……──っ!」
あまりの痛みにふらついて、壁にぶつかりしゃがみ込む。
冗談じゃない、こんなところで倒れたくない。
なんだろう。病気?
不安と痛みをやり過ごそうと、唇を噛み締めていたら、沙彩のもう止めなさいという声が聞こえた。
もう止めなさい?
どういうこと?
ようやく痛みが去り、息を荒くしながら沙彩に振り返ったら、向かい側の靖則の指先が私に向けられているのが見えた。
まさか、これ。
私の表情を読んで、沙彩が言った。
「そうよ。靖則さんは前世から変わらない魔力をお持ちなの。さっき、前世を思い出させた時にもお使いになってたでしょう?」
「魔、りょく……」
この現代社会に馬鹿馬鹿しい言葉だけど、私には恐ろしく怖く響いた。
「ジョセフィーヌの生まれ変わりだけど、今の貴女は美女ではないし魔力も持たない、平凡以下のくだらない女よ。さらに前世に私達にしでかした罪の自覚がまだない、頭のお粗末さ。だけど私はとても優しい社長令嬢だから、償いの機会を与えて差し上げようと思うの」
「…………」
「靖則さんは、うちと取引している企業の一つのオーナーをされているわ。今回、ご親切にも応援してくださることになって、ふふ、償いと私達の余興の手伝いと言ったところね」
頭痛の衝撃が強すぎて汗が引かない私は、沙彩の言葉をぼんやりと聞いていた。
そこへドアをノックする音が響いた。
沙彩が顎で私に指図する。
目の端に靖則が手を胸元に持っていくのが見え、先程の恐怖が蘇った私は、さっとドアを開けて、渋い顔をした夢乃からお茶を受け取った。
そしてドアが閉まると、静かに二人にお茶を出した。私の分はない。
「最初から素直にそうしていれば、靖則の罰を受けずに済んだのよ。ふふふ、やっとお利口さんになったわね」
沙彩の嫌味よりも、あの頭痛の恐怖だけが心に渦巻いていた。
あれがもしも心臓にやられたら、私は死ぬかもしれない。
「いい気味。ねえすみれ。貴女は前世に私達に同じことをして笑ってたのよ? どんな気持ち?」
「申し訳……ないと」
「そうよねえ? だから、今から話すこと、受けてほしいのよね」
「話?」
沙彩は頷き、私に部屋の隅にある電話を持ってこさせた。
「夢乃。お連れして」
しばらくして、一人の男性が入ってきた。
「ひどいじゃないか沙彩さん。約束通りに私は来たのに何分も待たせて」
「ごめんなさい真嗣さん。人をお連れしていたものですから。紹介させていただきますわ、こちらが以前お話していた、母違いの姉になる倉橋すみれさん」
男性と目が合った私は、頭痛の余韻をたっぷりに引いていたので、またなにかされたらとびくびくしていた。男性はすぐそれに気づいた。
「……お顔の色が悪いようだけど?」
「ちょっと頭が痛むっておっしゃったのよ。でももう大丈夫よ、ね? すみれさん」
促されて私は頷いた。こちらを見ている靖則がただただ怖かった。
「そう? ならいいけれど。沙彩が無理にお連れしたんじゃないの?」
「それは反省しているわ。ごめんなさいねすみれさん」
「いえ……」
帰りたい。
それだけを思った。こんなところにいたら気が変になりそうだ。おかしな前世の記憶も、怖い頭痛も嫌だ。
「それより、お話って……」
「そうそう。それにはまず自己紹介をしてもらわなければ、ね?」
しろと沙彩に命令され、私は頭を下げた。
「……倉橋すみれです」
「私は北山真嗣です。沙彩さんの婚約者ですから、近い将来貴女の義理の弟になる予定です。よろしくね」
「よろしく……お願いします」
こんな女の婚約者だ。優しそうに見えても、とてつもない悪い人間に違いない。
沙彩が言った。
「それで貴女にしてもらいたいことは、私の身代わりなのよ」
「身代わり……?」
「ああ、間違えないで。私は身体が弱くて、出なくてはいけないパーティーに行けないことがたまにあるのよ。そんな時に私に変わって出席してほしいの。真嗣さんお一人では体裁が悪いもの。姉なら皆納得するでしょうから」
納得するのかどうかなんて、私にはわからない。
「……でも私、マナーも、服も」
「こちらで用意するわ。マナーについては、真嗣さんがリードしてくれるから大丈夫。お願いできるかしら?」
したくはない。だけど頷くしかない。
私は黙って頷いた。
「ごめんねすみれさん。初対面なのに、こんなことをお願いして」
申し訳無さそうに話す真嗣さんは、とても人が良さそうだけど、沙彩の夫になろうとしているくらいだから、信じてはいけない。
「いいえ……」
さらに真嗣さんが何かを言おうとした時、それまで黙っていた靖則が、話に割り込んできた。
「すみれさん、とてもお疲れになったでしょうから、もうお暇しましょうか?」
優しい声が恐ろしい。頷いていいのかどうかもわからない。
「そうね、靖則さん、悪いけれど送って差し上げてくださる?」
沙彩が言う。
「構いませんよ」
馴れ馴れしく肩に触れてきた手を、振り払う勇気は私にはなかった。
帰りの車の中で、助手席に座らされた。
「沙彩はあの通りの性格でね。昔から表面が良くて皆騙されるんです」
なぜ騙されるのか不思議でならない。
そう思ったけれど黙っていた。
「飽きたら構わなくなってくるでしょうから、しばらく付き合ってやってくださいね」
「はい」
心で思っていることと真逆の言葉を口にすると、靖則はハンドルを握りながらくすくすと笑った。
「そんなに魔法が怖かったですか?」
「……魔法が怖いんじゃないわ」
「というと?」
「痛いのが怖いのよ。刺されるような痛みが、昔から、苦手」
前世とおそらく関係があるのだろう。
何となくそう思った。
アパートの近くの駐車場に車は止められた。
降りようとしたら、右手を掴まれて引き止められた。
はっと身構える私に、靖則の顔が近づいてくる。もう夜で、駐車場の暗い照明に片頬を照らした美貌が、人形じみて見えた。
「すみれさん」
「な……、なんですか?」
「ジョセフィーヌは、胸を剣で貫かれて殺されたんです。だから貴女はその痛みが怖いのでしょう」
「!」
靖則の目が怖かった。
怯える私を引き寄せて頭の後ろを掴み、口付けられる。
キスされてから気づいても遅い。初めてなのに、何故か覚えているのは、多分前世でなんらかの関係があったのだろう。
逆らうと何をされるかわからないから、逆らわなかった。
「本当に貴女は可愛らしい……」
唇を離した靖則は、そう言い、私のために車のドアを開けた。
「前世でも現世でも、私を夢中にさせる」
優しい顔で言う靖則が怖くて、不気味で、私は慌てて車を降りてドアを閉めた。
はは……と笑う靖則の声が、かすかに響いた。