あとひとつのキーワード 第07話

 それからの私は、真嗣さんの呼び出しに臆することなく応じるようになった。それは沙彩のプレゼントに関する相談だったり、食事に行く時に、彼女が好きそうなお店を考えるといったものだったけれど、特に不満はなかった。仕方がない、真嗣さんは、沙彩の婚約者なのだから。

「その服、とても似合ってるね」

 待ち合わせの駅前のロータリーに車で乗り付けてきた真嗣さんは、私を見るなり嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます」

 傍目からの羨望をたっぷりと浴びて、アクシオの助手席に収まり、真嗣さんに微笑み返した。誰が見てもそれなりの家の恋人同士に見えるだろう。

 休日だから道はごった返している。でもこうやってデートしていると気分がいい。

 連れてきてもらったのは、真嗣さんが、今度沙彩と来ようと考えているという、最近建ったばかりの水族館だった。

 真嗣さんは私の分までチケットを買ってくれ、手を引いてエスコートしてくれる。それがとても様になっていて、ちらちらと人目を感じた。

「最近のすみれさんは、ぐんと見違えるね。連れて歩くこちらもいい気持ちになるよ」

「そうおっしゃってくださると安心します。沙彩の代わりですから」

「十分だよ。彼女も満足している」

 本当だろうかと疑念が頭を掠めた。そして一体、何に対して満足しているのだろうか。

 優雅に泳ぐ色鮮やかな熱帯魚は、着飾った沙彩のようだ。

「小さいけれど美しいですね」

「ネオンテトラだね。家で飼えるよ」

「でも水槽は掃除が大変ですから」

「上塚の家で飼えば使用人がやってくれるだろうけど、……そうだね」

 こんなふうに真嗣さんは、常に沙彩の好みをデートの間に考えている。

 熱帯魚を見るふりをして真嗣さんと並ぶ自分を見た。品のいいスーツ姿の真嗣さんと、よく釣り合っていると思う。

 私は貯めていた貯金を、真嗣さんに会うための服や靴、化粧品などに使い始めた。あっという間に残高が減っていくのに、危機感はまったく覚えなかった。父が私のためにと言って、財産分与をしてくれたからだ。今までの不義理のおわびと称したそれは、三千万円ほどあった。上塚の家の財産分与にしてははした金に思えたけれど、不満はない。徐々に上塚の家を乗っ取っていけば、これの何十倍もの財産が手に入る。

「あら、北山さんと……沙彩さんの」

 気取った声が聞こえて振り返ると、ドレスに口紅で落書きをした令嬢が、見知らぬ若い男性と腕を組んで立っていた。

「ああ石井さん。沙彩がいつもありがとう」

 真嗣さんが微笑む。

「いいえこちらこそ。いつも沙彩さんには親しくさせていただいておりますわ。でも、今日もその方と?」

 ちらりと私を見る。

「沙彩が好きそうな場所を探す、手伝いをお願いしているんです。すみれさんは沙彩の好みをよくご存知ですから」

「まあ……そうですの。でも沙彩さんはお優しいから、嫌いなものでも何もおっしゃらないかもしれませんわ。私心配です」

「私とすみれには素直ですから、大丈夫です」

 痛烈な嫌味を、真嗣さんはサラリと躱した。

 石井という女は僅かに鼻白んだ。

「そ、うですの。それは……安心ですわね」

「ええ」

 何も言えなくなった石井という女は、邪魔をしたと真嗣さんに頭を下げ、連れの男と奥の方へ歩いていった。

「心配もここまでくると、おせっかいだね」

 真嗣さんがやれやれとばかりに言い、私も頷いた。同意したわけじゃない。ここまで人を使ってくる、沙彩の監視のしつこさについてだ。

 私達がデートを頻繁に繰り返しているという噂は、あっという間に広まっているようだ。

沙彩によって。

 

 ある夜、父に呼び出された。迎えに来たのは靖則だった。

 連れて行かれたのは、父がいくつか持っているマンションの、恐ろしく生活感がなく殺風景な部屋だった。仕事専用の部屋らしい。それなら社屋があるのにとおかしく思った。

 父は、少し疲れているようだった。目が若干充血している。

「何故呼び出したのか、わかるかい?」

「いいえ」

 見当はついていた。でもしらを切った。見ていた書類をテーブルの上にまとめた父は、お茶を出した靖則に礼を言い、隣りのソファを指し示した。おとなしく座ると、向かい側に座った父が言った。

「北山君と頻繁に会っているそうだな」

「沙彩のことで相談されてますけれど、何か?」

「いくら沙彩の代わりを頼まれたとはいえ、沙彩に会うより君に会う方が多いとなると問題だ。この婚約にヒビが入る」

「お言葉を返すようですが、沙彩に言うべきでは? 沙彩の言伝で私達は会うようになっているのですから」

「だからだ!」

 父はいきなり声を荒げた。その割には、はっきりものを言わない人だ。我が父親ながら情けない。

「申し訳ございませんが、私には上流階級の方々のルールなんてわかりません」

 くっと笑う声が背後からする。

 父は、ばつが悪そうに咳払いした。

「とにかく、あんまり北山君の呼び出しに応じないように。彼も世間知らずすぎるようだ」

 それには同意する。

 だから沙彩にいいように扱われてしまうのだ。

「しかし上塚社長。すみれさんは、沙彩さんから北山さんの呼び出しには必ず応じるように言われています。それを断るのは難しいかと」

 靖則が背後から言い、父はため息を付いた。

「困ったものだ。榊原君、君からなんとか言ってくれるとうれしいが」

「私がですか?」

 なんで自分がという感情を、ありありと靖則は顔に浮かべているようだ。父はますますばつが悪そうにした。

「こと、北山君に関しては、私は何も言えないのだよ。妻と沙彩が決めた婚約だからね」

 成る程。父は私の母や私のことで。あのおばさんに頭が上がらないのだ。そしてその威光を強く放つ娘の沙彩にも。

 少しかわいそうになった。あくまでも少しだけれど。

「しかし、私も沙彩嬢には頭が上がらないのです。私の会社は、御社の資金援助で助かったのですから」

「……ああ、そうだったね」

 父は思い出したように頷き、困ったものだと言った。

 へえそうなんだ。だから靖則は、この人たちの部下みたいになっているんだ。変だと思ってたのよね……。

「よろしいではありませんか。すみれさんも上塚の家の令嬢なのですから。政略に変わりはないのでは?」

 とつぜん靖則がそんなことを言い始め、私は驚いて振り向いた。そして父を見た。でも父は驚きもせずに、私を見て、首を横に振った。

「世間一般ではそうかもしれないがね。沙彩はどう思うかね。すみれ、くれぐれも北山君を奪おうとか恐ろしいことは考えないでくれたまえ。そのための財産分与でもあったんだからね」

「私は、そんなつもりは……」

 内心でどきりとしたのを表に出さず、それでも私は狼狽えた。

「沙彩は箱入り娘だが、妻の性格を強く引き継いでいる。君のことも快く思っていない。上塚の家は沙彩が継ぐことになっている……、それには北山くんが伴侶になることが条件だ。妻も沙彩も彼を手放すはずがない」

 

 マンションから一人で帰ろうとしたところを、靖則に引き止められた。車に乗って行けという。いやいやながら乗り、アパートに帰るのかと思いきや、連れて行かれたのは隠れ家のようなバーだった。

 個室に案内され、靖則の反対側に座る。テーブルの上のアロマランプが目に優しい。

「少しは反省しましたか?」

 勝手に私のものまで注文した靖則は、さくらんぼが入ったピンク色のカクテルを私に手渡した。一気に飲み干すと、喉とお腹の中がかっと熱くなった。

「沙彩に言いなりになっているだけなのに、何を反省しろというの?」

「私の目はごまかされません。貴女は北山に惹かれているでしょう?」

「何を根拠に……」

「いやいやながらつきあうにしては、やけに身ぎれいですし、出会う場所も貴女に不似合いなやたらと金の張るところばかり。おかしいですね?」

「先日は水族館でした」

「その後の料亭は、そこらへんの若造は入れない敷居の高さです。仲居から聞きましたよ、それはそれは親しそうだったとか。新入りの人間は貴女を婚約者と勘違いしていたらしい。必要以上に接近している証拠だ」

 私が唇を噛みしめると、靖則は自分のマティーニを少し飲んだ。

「しばらくは、北山からの誘いは断ったほうがいい。沙彩が何かを言ってきたら、私を頼りなさい。そうでないと、貴方は取り返しのつかない過ちを犯してしまう」

「たとえばどんな?」

「上塚の家から完全に追放される」

 その言葉に私は大笑いした。

「それこそ光栄だわ。取れるだけ取ったら出ていくつもりだもの」

「愚かな。取られるだけ取られて、裸同然で追い出されるのがおちでしょう。父君を見たでしょう? あの人はずっとあんなふうに妻と娘には頭が上がらない。その中で貴女にあれだけの財産分与をしたんです。少しは彼の意も汲んでやりなさい」

「知らないわそんなの。私は沙彩の命令を聞いているだけだもの」

 靖則の手が伸びてきて、私の前髪をさらった。

「……そうですね。貴方は前世でも今世でも悲しい操り人形だ。ずっと誰かの手の上で踊らされている」

 その目が妙に悲しみに染まっていたので、驚いた。

 静かに後ろに下がって、その手を外す。

「操っているのは貴方でしょう?」

「ジョゼ。いいや、すみれ。貴女は本当に頭がよくないうえ、身の程知らずにもほどがある。あの沙彩のずる賢さは社交界の裏側では有名な話です。貴女のような凡人が太刀打ちできるような相手ではない」

「私は……」

「目を閉じて」

 靖則の命令に従わされた。

 前世の映像が流れてきた。

 それは前世の沙彩を不幸に突き落として、意地悪に微笑むジョゼの姿……。そして、ジョゼを恨みながら死んでいく前世の沙彩と、その母親。

「貴方は二人に対して大きな罪をしでかしている。だから今世では償わなければいけない。また罪を重ねてどうするんです?」

「……私は倉橋すみれよ。それに罪ならとうに償っているんじゃないでしょうか。私は社交界ではいい笑いものだわ。どこへ行っても後ろ指を刺されてばかりだもの。母は死に、父親は沙彩たちに奪われたまま」

 靖則は私の額に当てていた指を放し、マティーニを飲み干した。

 どこかの席から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

「貴方の気持ちもわからないではありませんが、とにかく危険すぎる。北山に誘われて出かけるのは結構だが、それ以上は望まないようになさい」

 黙っている私を横目に靖則はウェイターを呼び、新しいお酒を注文した。

 ピアノ曲が静かに流れていく。

 ウェイターが同じものを運んできて、それぞれに置いてくれて去った後、私は言った。

「……北山さんが可哀想とは思わないの?」

「思いませんね。あれも見かけどおりの男ではない。上塚社長はご存知ではないようだが、沙彩の本性を知らないなどとは言わせないし、有り得ません。知っていて婚約する辺り、打算に満ちた汚い男です」

 私は再び笑った。

「貴方といい勝負じゃない」

「かもしれませんね」

 靖則は認め、苦笑した。

 今日はどうも調子が狂う。いちいち素直なのが不気味だ。

 そう思いながら、グラスに口をつけた。

 ……気になる。北山さんが打算に満ちた男? 沙彩が好きすぎて……という意味だとは思うけれど。

「好きな人間を手に入れるためになら、人間、誰も打算に満ちるのだと思いますけど」

「そうかもしれませんが……」

 アロマの炎が揺れ、同じように靖則の瞳も揺れた。

 あ、この顔を知っている。そう思っていると、炎から目を上げた靖則とバッチリと目が合った。

「……ジョゼは早朝に散歩するのが好きでしたが、貴女はどうですか?」

 その光景を思い出しているのか、靖則の目は、私の向こう側のジョゼを見ているようだ。

「しませんよ。寝ています」

「そうですか。やはり貴女は倉橋すみれなんですね」

 妙に靖則は優しく言い、グラスを軽く指先で弾いた。

「貴女の言うとおり、前世で縛られるのもいい加減考えものだ。現世は現世として生きていかなければ……ね」

「当たり前じゃないのそんなの」

 靖則は静かに頷く。それが記憶のどこかに引っかかった。この表情を確かに私は知っている。ううん、ジョゼが知っている。それは誰だろう。

「夜明けの美しい青に煌めく星は、今もありますから……」

「は?」

 いきなり詩的なことを言う男だ。

 私が怪訝な顔をすると、靖則は肩をすくめて、もう出ましょうかと言った。

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