あとひとつのキーワード 第11話

 それから数日後、父が来た。

 ノックもなしに入ってきた父は、横になっている私に起きろと命令した。まだ痛む身体を苦労して起き上がらせ、私は父を見上げた。その顔はひどく疲労していて、赤黒く怒りに染まっていた。

「ヘマをしたな。お前のしでかした横恋慕は、あっという間に噂になっているぞ」

 言うなり父は、腫れが引いたばかりの私の左の頬を打った。力任せに殴られた為、口の中が切れて血が溢れた。

 父は怒りに肩を震わせながら、さらに怒鳴った。

「成功ならまだしも失敗だと? お前は! お前のせいで私や麗子まで評判を落としているんだ! 親不孝者めが! お前など死んでしまえば良かったんだ! お前さえ生まれなければ、麗子だって……っ!」

 何も言わない私に腹を立てた父は、私の術後の左足を力任せに揺さぶる。激痛が走り流石に悲鳴を上げた。父は気が狂ったように、お前のせいだお前のせいだと私を打ち、偶然部屋へ巡回に来た看護師に止められ、数人がかりで部屋から引きずり出されていった。

「お前など娘でも何もない! 赤の他人だ! 勘当だ! 麗子の墓にも来るな! 上塚の家にも来るなど許さん! 沙彩にも合わせない! 金も返せ! わかったな!」

 最後まで父は私を詰ったけど、私は激痛でそのまま気を失い、その罵倒はろくに耳に入っていなかった。

 

 真っ暗闇の中で夢を見た。

 私は誰かに抱かれて、揺さぶられていた。何も見えないのに、ジョゼである私は相手の男をレイナルド王子と呼んで、しがみついて歓喜の声を上げていた。男は一言も話さないまま、幾度も体位を変えてジョゼを翻弄し、辺りが白白と開けてくる頃にようやく身体を離した。

「レイナルド様……。お慕いしております」

 相手は何も言わない。ただ黙ってジョゼの抱き寄せて、軽い口付けをする。

「どうしていつも閨の間は口を聞いてくださらないの? ……いいえ、何も申し上げません。ただ、今この時が幸せならいいんです」

 ジョゼが思い浮かべるのは、自分に冷たい家族たち。魔力を持ちすぎるジョゼを両親は厭い、兄は苛め抜いた。折檻されて雪の道へ馬車から放り出されたジョゼを救ったのは、たまたまお忍びで城下を探索していたレイナルド王子だった。

 レイナルド王子だけが、ジョゼにぬくもりを与えてくれる。

 今も、昔も。

 やはり男は何も言ってくれなかった。

 

 数日後の夕暮れに靖則がやってきた。

「上塚社長に乱暴されたとか。何故私を呼ばなかったんですか?」

「……呼ぶ必要を感じませんでしたので」

 聞いていたラジオの電源を落とし、枕元へ片耳のイヤホンをずらした。

「私は貴女の婚約者です。呼ぶのが普通でしょう?」

 私はまだ引かない頬の傷みを感じつつ、力なく笑った。

「普通なんて言葉、私達にあったのね……」

 普通じゃない出生に、普通じゃない家庭、普通じゃない婚約。そんな中で普通を考える、お花畑な脳みそがあるなんて信じられない。

 靖則は珍しく瞳を揺らし、ひどいことを……と、私の左の頬を壊れ物を触れるよう撫でた。

「私は父にとって汚点そのものらしいから、仕方ないわ」

「すみれ」

「愛してもいない人間に何を言われようが、私には響かないわ。あの男が愛しているのは私の母の麗子だけ。私じゃない」

 その母ですら見捨てた腰抜けのくせに、プライドだけは高い救いようがない馬鹿男。お母さんはあの男の何が良かったんだろうか。手を組まなくて正解だった。もし組んでいたら、もっと酷い目……最悪やってもいない罪を着せられて、殺されていたかもしれない。己の保身しか頭にない父ならやりそうなことだ。

 靖則はため息をついて、近くの椅子に座った。

「誰に聞いたの?」

 私が聞くと、

「ご本人ですよ。婚約者ならもっと躾けておけと」

 と、靖則は答えた。私はおかしくなって小さく笑った。

「何でも他人任せのおぼっちゃんなのね。貴方も振り回されて……ご苦労様」

 そこへ看護師がノックの音と共に入ってきて、夕食をセッティングしていく。すぐに出ていったが、彼女の靖則を見る目は同情的だった。私の悪評は病院内まで広められており、そんな私の婚約者なのだから、可哀相だと囁かれまくっている。見た目靖則は普通の美男子なので、誰もこの男の本性に気づかないんだろう。

「怪我がひどくなって、リハビリがまた延期になっています」

「医師から聞きました」

「その日は私が来ますから、大人しくしていてください」

「そう」

 どうせ来るなと言っても来るんだろう。そういう男だ。

「……その足は訓練すれば歩けるようにはなるんです。投げやりにはならないでくださいね」

「そうね」

「すみれ」

「……」

 早く帰って欲しい。一人でいたい。

 別に悪評が広がったっていい。真嗣さんといられないのなら、自分の評判など地に落ちようが、嘲笑われようが、全く気にならない。私は自分の価値などどうでもいいのだから。

 妙な気遣いを見せる靖則が鬱陶しい。ひょっとして、真嗣さんからほしいものを自分が与えることによって、その苦しむさまを見て喜んでいるのかもしれない。

 だったとしたら、とことん性根が腐っている。

 靖則の大きな手が、私の頭を優しく撫でた。

「……ねえ、すみれ。北山は貴女に愛される価値などないんです。あの沙彩との結婚を選ぶ、強かな男ですよ?」

「何が言いたいのかわからないけれど、もう過ぎたことでしょう? それより貴方はどうなの? 悪評高い私と結婚して、何のメリットがあるの?」

 手が鬱陶しくて力なく払った。まだ傷が癒えていないので、その動作だけでも辛いものがある。

「上塚の家のお荷物を引き受けることで、我社への融資が続けられるんです」

「もっと他のところから受けたらいいのではないの?」

「……事情がありましてね」

 刹那、靖則の顔は陰った。何か事情があるんだろう。こんな私でも結婚しなければならない、のっぴきならない事情が。お気の毒なことだ、とまったく気の毒にも思っていない私が内心で呟く。

「それに、私はこの結婚で何も失うものはありません。貴女とは違います」

「そうね。私の悪評は、沙彩や真嗣さん、貴方の価値を高めてくれるわ……。良かったわね、便利な駒が居て思い通りに動いてくれて。あの男には災難だけれど。いつまで社長で居られるのかしらね」

 父はきっと、今回の件でさらなる窮地に追い込まれるのだろう。おそらく沙彩は、入り婿の真嗣さんに、上塚の全権を握らせると表向けには見せ、裏で自分が全てを握るつもりなのだ。

 まあ見事にここまで計略できたものだ。

「安心したら良いわ。私が何を言おうと、誰も聞きやしないから。仕向けられたとはいえ、真嗣さんを奪おうとしたのは事実なのだし」

「すみれ」

「嘲笑われることや悪意には慣れてるの」

 幼い頃から、私は悪意に晒されていた。

 父親が不在なうえ母が授業参観に来ないというだけで、仲間はずれやイジメが当たり前だった。同じような家庭は珍しくなかったのに、何故かそうなっていた。私が何も反抗しなかったせいもあるのかもしれない。幼い頃から母しか私には居らず、母以外の人間との距離感が掴めなかった。今でも掴めていない。だからあっさりと沙彩の罠に引っかかった。

 母は私が誰かと親しくなるのを恐れていた。人の視線、近所の噂に、上塚の家の影を感じていたからだろう。

 沙彩の母親、または上塚の親族たちが、ずっと母を苦しめていた。父はそれをずっと知りながら手を貸さなかった。そんな父だったのに、何故母は死ぬ前になって助けを求めたのだろう。娘がさらに地獄へ突き落とされると思わなかったのだろうか。それともその頃になって父が私の知らない場所でアクションを起こしていて、仕掛けられた罠とも知らずにそれに縋ったのだろうか。……。

「幸せになりたいとは思いませんか?」

「ご飯が食べられて、寝るところがあれば幸せよ」

「それでは犬や猫と変わらない」

 レイナルド王子の捨て駒だったジョゼ。きっとレイナルド王子に使われているだけで、幸せだったんだろう。それなのに王子に唆され、妃になろうとしたから殺されたんだ。私は命があるだけマシだ。

 あまり美味しくない病院食を食べて美味しいと思う私は、おかしな人間なんだろう。

 靖則は、無言で私の食事の介助をしてくれた。

 手慣れた手つきを全く疑問に思わない程、私は、榊原靖則という男に興味がなかった。

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