あとひとつのキーワード 第15話
あれ以来、ひなりは他社へ出向しており、詳しい話を聞けていない。謎掛けみたいな言葉を残してくれたせいで、物思いが増えた。
そしてひなりの宣言通り、足繁く通っていた靖則は、この一月ばかり姿を現さない。ほっとする自分がいる一方で、なんかもやもやとしている自分もいる。
今日もいつもどおり定時に仕事を終え、早々にアパートに戻った。
部屋の隅にあるダンボールは相変わらずだ。
あの日、アパートに帰り着くなり、真嗣さんにもらったものを何もかも、買ってきたダンボール箱に次々と放り込んだ。
中に入っているのは高級な服や装飾品だ。そして、北山真嗣という男からもらったという、過去の自分の彼に対する想い。 」
見事に沙彩と彼の仕掛けた罠に引っかかって、本気で好きになって、身代わりにこんな身体にされて……。
「馬鹿の上に大馬鹿の上に……」
自分を罵っても、虚しさは変わらない。諦めと投げやりな心だけが湧いてくる。この箱を捨てるべきなのはわかっているのに、捨てた途端、自分が壊れそうな気がして、捨てられないままでいる。
「お腹が空いたな」
私の神経はワイヤーロープで出来ているのか、それとも悲惨なことが起きすぎて麻痺しているのか、巷でよくあるような食欲不振には陥れなかった。
「簡単なサラダと汁物と焼き魚と、ストックしてあるフルーツでいいか……」
レタスをちぎって皿に載せ、トマトを切る。ドレッシングぐらいは作ろうか。シーザーでいいかな……。
おもえば、真嗣さんとのデートではいつも高そうなレストランでの食事で、美味しいけれどそれだけな感じだった気がする。真嗣さんと会うのだけが目的で、それ以外は皆おまけのような、そんな寂しい感覚。
普通の恋人同士の食事って、どんなもんなんだろう。
思い出すと消えてしまう前世の一部分。
誰かの作為的な妨害ってことよね。
ジョセフィーヌは見事に己の魔力を操って、レイナルド王子に貢献していたようだけれど、何らかの事情があって殺されたみたいだった。
その時の光景がふっと浮かびかけ、強く思い出そうとするとかえって遠ざかってしまう。
誰なんだろう、妨害をしているのは。
沙彩?
それともレイナルド王子の真嗣さん?
ひなりの言い方だと、パザン大佐だった靖則は、何らかの束縛というか呪いというかをレイナルド王子だった真嗣さん? にかけられていて、自由に動けないようだ。ひなりは靖則と前世関係の知り合いで、事実を知っているけれど、こちらも呪いみたいな魔法をかけられていて話せないらしい。
正直言ってわけわかんない。
というか、靖則が私を護ってきたんだとか言われても、散々な目にしか遭ってないからピンとこない。無理矢理なキスや、私に嫌な頭痛を与えて苦しめたり、皮肉ばっかり言って精神的に傷つけてきたり、最悪勝手に婚約者になって身体を奪ってきたし。
思い出せと言われても、思い出したくもない。
ドレッシングをかき混ぜている手を止め、ため息をついた。
それにしても、ああも自分に執心してきた男がいきなり来なくなると気になる。
会社を潰すのがなかなか大変なんだろう。
靖則なら決めたら絶対やるだろうけど、思いのまま操っていた沙彩が黙って見ているとは思えない。それこそ悪知恵がよく働く女だもの。
「…………」
パプリカの薄切りをトッピングしたサラダに、ドレッシングをかけた。焼き魚も焼け、汁物も温まった。
靖則が居た時は、それなりにたくさん作っていたっけ。あの男はよく食べたから。失敗しようが成功しようが黙って出していた私は、顔色を一切変えない靖則に感心したものだった。その中で唯一目を和ませたのがこのカラフルなサラダだった。
前世でジョセフィーヌが腕を奮ったものだったのかしら?
こんなかんたんなサラダしか作れない女だったのかな?
前世の夢で食べ物は見たことがないから、そのへんはさっぱりだ。
ま、いいか。
テレビをつけて、主菜の焼き魚の横にサラダを置き、汁物をよそう。ご飯をお皿の端に盛り付けたら完成だ。
「いただきます」
一人で手を合わせて箸を伸ばす前に、インターフォンが鳴った。
どきりとした。来るとしたら靖則しか居ない。
無視しようかと思ったけれど、明かりを今更消してもばればれだ。何らかの報復、特にあの頭痛を起こされてはかなわない。
「……誰ですか?」
「………、て」
かすれてか細い声だ。気持ち悪いな。靖則じゃないみたい。酔っぱらい? まだ夜の七時にもなっていないのに。
「誰?」
「……靖則」
靖則と言っているけれど、声はひなりだ。どうやって来たの? 大方靖則に教えてもらったんだろうけれど個人情報というものがあるでしょうが! 最も、沙彩関係者にそんな常識は存在しないけどね。
そっと開けると、しゃがみこんでいるのが見えた。具合でも悪いのだろうか。仕方なくチェーンを外してドアを開けたら、ひなりは男一人を抱えてしゃがみこんでいた。
男は靖則だった。
「……来ないつもりの男を、連れてきたわけ?」
迷惑だと思い切り顔に出しながら言うと、ひなりが睨みつけてきた。
「いいから入れなさい!」
「偉そうな招かざる客ね」
ため息をついて仕方なく二人に入るように言ってから、靖則の異変に気づいた。
「ちょっと、怪我してるじゃない!」
「そうよ。だから早く入れろって言ってるの!」
そうじゃなくて、お腹から血が出てるなんて、救急車を呼ぶレベルでしょうが! うちでなんかあったらたまらない。
迷惑顔の私を押しのけ、ひなりは勝手に六畳の部屋の畳の上へ靖則を横たえた。
「湯を沸かして! 器具は持っているわ」
「え、あんたが治療するわけ?」
「免許は持ってるわよ。それにこれくらいの怪我、学校の保険医でもできるわ」
本当だろうかと疑いながらも、仕方なく一番大きな鍋に湯を沸かす。ひなりはその間にどこに持っていたのか器具を取り出し、準備をし、湯が湧いてから、処置を始めた。私は血が大嫌いなので部屋の隅に移動した。
なんなのよまったく。救急車をなんで呼ばないのよ。なんで私の家へ来るんだろう。
自分の領域をめちゃくちゃにする人間が増えただけな気がして、思いっきり不愉快だ。
靖則は何も言わない。時々呻くので、痛いのだろうってのはわかる。
ひなりが言う、大したことがない怪我の割には処置は時間がかかり、一時間ほど経過した頃、ひなりが私に振り返った。
「ちょっと、布団敷いてよ」
「……わかったわよ」
まさか今夜、この三人で寝るわけ? 場所が狭い上に一人分足りない。だから病院に行ってほしいのに。
布団を敷いて、そこへ顔色の悪い靖則を怪我に触らないように注意しながら、二人がかりで移動させる。 「靖則、薬を飲んでちょうだい」
ひなりが言う。靖則は意識がいつ戻ったのか、嫌だと言った。そして、目を開けて、私を見た。
「すみれ……」
なんで私の名前を呼ぶのよこの男。ひなりはおかしそうに、くっと笑った。
「あんたに飲ませてほしいんだって、ほら」
コップに入ったその薬を、口移しで飲ませろと押し付けられる。
「いやよ。あんた医者なんでしょうが」
「免許持ってるだけだもん。この薬高いのよ。嫌がって吐き出されたらもったいないわ」
「その男が生きようが死のうが苦しもうが、知ったことじゃないのよ」
いじわるそうにひなりは口元を歪めた。
「ここで靖則が死んだら、あんた確実にもっと大きなごたごたに巻き込まれるわよ。面倒くさいことになりそうね」
「あんた、なんとかできるんでしょうが?」
「こういった手当ならね。それ以上は無理だわ」
「…………!」
このクソ女。
むかっ腹が立ったけれど、確かにここで靖則の状態が急変したら、それこそ近所や沙彩の知るところになる。会社どころかアパートまで面倒事が持ち込まれたら、たまったもんじゃない。
「……ひなり」
靖則がちらりとひなりを見ると、ひなりは、はいはいと言いながらキッチンへ移動する。なんなのよまったく……。
仕方なく薬を口移しで飲ませると、靖則はおとなしく飲み下していく。かなり熱が出ているようで、内心かなり驚いた。
飲ませ終わって離れようとしたら、靖則が抱きしめてきた。
馬鹿なの? お腹の傷に触るでしょうが! と思うのに、強い力で振りほどけなくて、仕方なくされるがままにした。
「……沙彩と北山に……真実を知らされたそうですね」
「ひと月前ね。今頃、傷心の私を笑いに来たのかしら?」
「貴女は傷ついてなどいない。貴女は、北山を愛してなどいなかったようだ」
失礼な。愛してたわよ!
「そんなことがなんでわかるの?」
「誰も貴女を愛してなどいなかった。そんな、貴女が、……人を愛せるはず…な、い……」
薬が効いてきたのか、嫌味だけを言って眠った靖則を蹴飛ばしてやろうかと思ったけれど、辛うじてとどめた。血の色など見たくない。
上がけを被せてテーブルを見ると、勝手にひなりが私のご飯を食べていた。
「あんたたちは私のものを私物化するのに、ためらいはないのかしら?」
「あんたのご飯はこっちよ」
ひなりが弁当屋の袋を私に差し出した。さっきの器具といい、どこから出したんだろうか。中を見ると、駅前の美味しいと評判のレディース弁当セットだ。ご丁寧に飲み物とデザートまでついている。
「一体何があったのよ?」
「会社を潰そうとして、反対するろくでなし重役の手下に襲われたの」
「あわよくば会社を自分のものにって考えなのね。それにしても、なんで靖則は考えを急変させたの? 私との結婚で、沙彩から融資が受けられるとか言ってたのに」
「言わされてたのよ。そういう呪いなの」
「はあ?」
ひなりは持参したお茶をコップに汲み、一口すすった。そして痛むのか頭をさすりながら顔をしかめた。
「思っていることと真逆のことを言わされるの。真実を口にすると……苦痛を味わうのよ。今の私みたいに、ね……。体力的にも……精神的にも疲弊するの」
なんだそれは。
「私にもかけられてる。それを解けるのは、すみれ、あんただけなの……」
「解いたらあんた達は本当のことを話すわけ?」
「生きてたら、ね」
よほど痛むのか、ひなりはテーブルに突っ伏してしまった。
なんかこれ、ものすごく覚えがある。
そう、靖則が仕掛けてくる、あの刺すような頭痛。あれじゃないのかな。
「……まさか、あれは、靖則がしてたんじゃないの?」
信じられない思いを抱えて言うと、痛みに額に汗をにじませながら、ひなりはかすかに笑った。
「正解……」
その時、私の中で亀裂が生じた。
心を覆っていた呪いと言う名のそれから、心は虹色の輝きを放ちながら開放を促していく。