あとひとつのキーワード 第20話
沙彩は部屋を出ていき、その後、真嗣さんは鍵をかけた。
「そんなに怖い顔をしないでください。私と結婚したいって言ってたじゃないですか?」
「面白がっていたのでしょう?」
くすくす真嗣さんは笑い、アパートでしたようにぱちりと指先を鳴らした。すると、部屋の隅にある長椅子に靖則が落ちてきて、床に転がった。
「う……」
「榊原さん!」
駆け寄って助け起こそうとして、ぎょっとした。何この首元のうっ血の跡は。ボタンが全部外れているシャツは上半身の前が丸見えで、それは至るところに有る。そういえば、先程の沙彩が言っていた。靖則を魔法漬けにして支配して抱かせたのだと。
「おやおや。私の妻と随分お楽しみだったようだ」
真嗣さんが私の後ろから靖則を覗き込み、困った男だなと呟いた。
靖則は辛そうに目を開け、焦点を私に定めると目を釣り上げた。
「何故、来た……っ!」
「何故って。榊原さん一人でなんて危険だから」
「貴女が来る方が危険だ。早く……、あ、くっ」
苦しそうに靖則は肩で息をした。
「沙彩は情交することで相手の魔力を奪う。榊原、そこまで吸い尽くされたら何も出来まい? いくらすみれさんに封印の大半を解除してもらったとしても、沙彩の足元には及ばないのだ。残りのジョゼの施した封印にこそ、魔力の大半があるのだから」
真嗣さんはそう言いながら、私の腕を掴み立ち上がらせた。
「さあ、ジョゼ。あちらの寝台で愛し合いましょうか?」
とんでもないことだ。
「嫌よ!」
「今だけですよ。そのうち善がり狂うようになりますから」
どうして優しい微笑みだと思ったんだろう。こんなにも人の心を踏みにじる男なのに!
「沙彩が奥さんなんでしょう? 裏切るの!?」
嫌なのに寝台まで引きずられ、真ん中へ放り投げられて転がった。逃げようとしてもあっさり捕まってしまう。
「沙彩が本当に好きなのは榊原靖則。だけど、彼は貴女しか愛さない。可愛さ余ってにくさ百倍という奴でしょうね。怒った沙彩は、魔力の大半を封印されて反撃できない靖則に、愛する貴女を虐げることでしか救えない魔法と、己の意のままに動く魔法をかけたんです」
両手を頭の上で押さえつけられ、動けない。覚えたての魔法じゃとても敵わない。ひなりは気絶したままで、魔力が枯渇した靖則はわかっていても近寄ってこれない。
首筋をベロリと舐められて、体中が怖気立った。
「嫌!」
嫌だ。
絶対に嫌だ。
その声は、夢の中のジョゼと重なった。
「ん……!」
強引に押し付けられてくる唇に、吐き気しか覚えない。好きだったのに、今は大嫌いだ。靖則のキスよりも、もっともっと嫌だ。身体を弄ってくる大きな手も、毛虫が這いずり回るよう。気持ち悪い。気持ち悪いのに……。
ふいに寝台が揺れた。
「なんだ榊原。まだそんなに動けるのか?」
見ると靖則が、真嗣さんの肩を震える手で掴んでいた。
「止めろ。すみれは……嫌がっている…………」
「お前の時だって嫌がっていても悦んでいたろう?」
靖則の手を跳ね除け、真嗣さんは私の背後に回り、靖則に見せつけるように愛撫を施し始めた。
「すべての罪は私が背負うと、言ったはずだ」
靖則は寝台の隣の床に膝をついた。辛いのだ。
「背負ってもらっていますよ。ざまあないね。すみれさんに一生嫌われて憎まれて、惨めに沙彩に飼い殺されるんです。愛されないとはいえすみれさんはお前の妻だ。沙彩ほど優しい女はいない」
「すみれには……、お前は絶対に手を出さないと……私に言ったはずだ」
「すみれさんの記憶を蘇らせないことが条件だった。それを榊原、お前は破った。よって無効だ。すみれさんには私の愛人になってもらう」
なんてことを言う男だ!
沙彩なみにひどい性格をしている。
まるでさっきの夢に見た宰相のようだ。
真嗣さんは私の胸を背後から掴んだ。優しいつもりの粘っこい触り方は、わざとやっている。靖則は肩を震わせて怒った。
「やめろ! すみれは何の罪もないんだ!」
言いながらも、靖則は限界なのか、床の上に這いつくばった。
逃げようとする私を背後から抱きしめ、真嗣さんは楽しそうに言った。
「わかってるよそんなことは。これからはあんなつらい会社じゃなくって、私のマンションで優雅な暮らしをさせてあげようと思ってます。ねえ? すみれ。うれしいでしょう? 上塚の長女にふさわしい生活をお約束しますよ」
それってつまり監禁じゃないか。嫌だ。
靖則がつぶやくように、
「……そんなもの。すみれは、望んでいない…………」
と、言った。
「黙れ!」
真嗣さんの声に怒りを孕み、靖則はあの頭痛に襲われているのか、頭を抱えて苦しみ始めた。
「止めて! 死んじゃう」
「死にはしませんよ」
もう気兼ねする必要は無いと言わんばかりに、真嗣さんは再び私をシーツに沈めた。
「や……だ! 離して」
「今に善くなる」
違う。と、思った。
夢で、闇の中でジョゼを抱いていたのは、レイナルド王子だったと思いたい。レイナルド王子はこんな感じじゃなくて……。
もっと真摯で、切なくて、でも強引で。それなのに優しさがあって……。
「……王子は」
「なんですか?」
「…………あ、……私」
どくんと胸が異様な音を立てた気がする。
私、今何を思った?
ふいに周りが色彩を無くした。
真嗣さんの熱も消えた。
思い出すのは靖則の熱。
昨日のキス。
あれは。
……あれは。
ジョセフィーヌが愛した男と同じだ。
「レイナルド王子……」
私がその名を口にした途端に、光の輪が宙に浮かび、私の身体に舞い降りて輝き出す。ジョセフィーヌがあの部屋で描いた魔法陣だ。
「封印が!」
真嗣さんが詠唱して止めようとしても、その声を光の輪が吸い取ってしまう。
「させるか……! 沙彩!」
沙彩を真嗣さんは呼ぼうとした。だけど、やはりそれは不発に終わる。
光の輪が一生眩しく光り輝く。
私は真嗣さんを突き放した。
もう目を開けてなど居られない。
瞑った目に、ジョセフィーヌを抱く、レイナルド王子の顔がはっきりと蘇る。
私は、真嗣さんに人差し指を突きつけて叫んだ。
「真嗣さん、貴方はレイナルド王子じゃない! ソフィアの父の宰相でしょう?」
叫ぶと同時に、私自身がかけた封印が、金色の縄となって身体に現れ、次に灰色になりぼろぼろと崩れて始めた。
真嗣さんは信じられないとばかりに、その封印の崩壊を止めようとする。どうしても出来ないと知ると、怯えた目で私を見た。
「ば、馬鹿な。何を言っている……私がレイナルドだ。ジョゼ、お前を愛した」
ぶれにぶれていた心が、真っ直ぐに天へ向かって伸びていく。
もう迷わない。
私は伸びてくる真嗣さんの手を思い切りはたき落として、寝台を降り、結界を張ると、俯いている靖則の両肩に手を置いた。
靖則は、ゆっくりと顔をあげ、レイナルド王子と同じ目で私を見つめた。
しばらく私達は黙ったまま見つめ合った。
駆けつけてきた沙彩は、私が張った結界には入ってこれない。
最後のキーワードを私は口にする。
「靖則。貴方がレイナルド王子なのね?」
靖則はゆっくりと顔を上げ、寂しそうに笑った。
「そうだよ……ジョゼ。私の、夜明けの美しい青に煌めく星」
私の封印の崩壊と連動して、最後に掛けられていた靖則の封印も完全に解けた。
気を失ったままのひなりを見る。
ああやっぱり、ひなりがパザン大佐だったんだ。
同じ気を彼女は持っていた。