ディフィールの銀の鏡 第01話
奴隷という言葉がある。現代ではその言葉はタブーとされ、人間は生まれながらに平等であるという事になっているが、現実では名称が他のものに替わっただけで依然として奴隷の存在はある。それを認識しているか認識していないかだけの違いなのかもしれない。
一人の若い女が黄金の枷が付けられた手首と首を、近衛兵に犬のように引っ張られながら、血だらけの素足で、ディフィール王国の王宮の大広間を歩かされていた。しかし、扱いはひどいものの着ている衣装は絹のように光沢がある立派なもので、居並ぶ貴族達に負けないものだった。
近衛兵はディフィール国王の前に女を引き据え、声高に報告する。
「こちらはケニオン国王からの贈り物です。他に男の奴隷が十人、角に金を被せた牛が二十頭、虎が一頭、鷹が五羽でございます。この女は直接陛下に見ていただくようにとの事です」
大広間の一番上座に座っていたディフィール国王は、長いあごひげを撫でてにんまり笑った。
「ほう、黒髪はいただけんが美しい女だな」
好色な国王は、近衛兵に俯いている女の顔を自分に良く見えるようにさせた。女の頬は滑らかで容貌はかなり整っていたが、国王の好きな顔立ちではなかった。
「……色香が足りんな。何より生意気そうな顔をしておるではないか。見かけはよいが女としては楽しめそうもない」
「陛下のお好きな女は、もっと可愛らしい子兎の様な種類でしたわね」
横に座っていた王妃が相槌を打った。貴族達も値踏みしていたが、この国ではあまり好かれない黒髪であったため、ほとんどが国王と同じ言葉を囁きあっていた。
「いらん。テセウスにやろう」
国王夫妻から少し離れた場所に同じく座っていた王太子は、さも嫌そうに首を横に振った。
「冗談ではありません。我が后マリアの方が遙かに美しいというのに」
マリアという名前に女が反応した。王太子が見ている王太子妃を見て目を大きく見開く。
「……マリア」
女の声に王太子妃も反応して、女と同じような顔になった。しかし、女が喜びに満ち溢れているのに対して、王太子妃は王太子と同じように汚らわしいものを見たかのように、その美しい顔を歪めた。
居並ぶ貴族達から非難する声が上がる。女はっとして口を枷が嵌められた手で押さえたがもう遅い。テセウスが許しがたいと呟き、近衛に命令した。
「この者は身分をわきまえぬのか。ルーア。こやつに自分の地位を思い知らせてやれ」
近衛兵二人が女の両腕を掴んだ。貴族達の間から革の鞭を持った大男が現われ、にやにや笑いながら女の前に立った。震える女を、居並ぶ貴族達も国王達も庇おうとしない。この世界は徹底した身分社会で、奴隷が過失を犯したら主人が罰を与えるなど、当たり前だ。良い主人ならばらそれなりによい環境で暮らせるが、どちらにしても主人の気分次第で天国にも地獄にもなり、奴隷は持ち物の様な存在だった。
「思う存分叩くがいい。わが国では黒髪の女は不吉の象徴だ」
「かしこまりまして」
王太子の命令に、ルーアと言う大男が卑しい笑みを浮かべながら跪いた。貴族達の中には顔を扇で隠したり背けている者が居たが、やはり王太子には何も言えない。奴隷には主人が絶対であるように、貴族達にも王族が絶対なのだ……。
女の後ろに立ったルーアが、思い切り鞭を振り上げた。びしりと革が肌を叩く音が大広間に響き、女性達は肩を竦ませる。何回か叩かれても声を発するどころか涙も流さない女に、国王は面白くなさそうに欠伸をした。
「泣いて許しを請うのでもなければ、悲鳴をあげもせぬとはくだらぬ。止めよ」
鞭の音が止み、腕を掴んでいた近衛兵が素早く離れた。
女の白いドレスは背中の部分が鞭で引き裂かれ、直接叩かれた肌がはれ上がり、夥しい量の血が流れていた。女は肩をぶるぶるさせながら苦痛に耐えているが、それでも許しを請う気配はなかった。
好みの女ではない上に、何の反応も示さない奴隷をどうすればいいか、国王は頭を悩ませた。大国の贈り物の奴隷だけに、あっさり死なせたりすれば、どんな言いがかりを付けられるかわからない。貴族たちはそんな国王の顔をじっと見つめている。
その時だった。
「……その者を余に下賜くださいませんか」
涼やかな声が貴族達の列の最後尾から聞こえ、貴族達も国王達も注目した。赤い絨毯を進んで歩いてきたのは、でっぷりと太った若い男で、長い青銀の髪を伸ばして首の後ろで束ねている。最後尾に居たにも関わらず、国王にいきなり話しかけた男を咎める声は上がらなかった。プライドの塊の様な王太子も唇を噛んだだけで何も言わない。
男は女の横まで歩いてくると、国王に向かって膝をついて頭を垂れた。
「誰かジュリアスの他に、この奴隷を欲しい者はおらぬか?」
国王の声に誰も何も反応しない。女は激しい痛みと発熱で朦朧としていて、意識を保つのに必死だったため、男を見る余裕がなく顔をずっと俯かせている。
国王は面倒くさそうに頷いた。
「……良かろう。ケニオンの女奴隷は、第一王子ジュリアスに下賜する」
「お心の広い陛下に神のご加護を」
男……ジュリアス王子が頭を下げる。
女が意識を保っていられたのは、そこまでだった。
女は夜も押し迫った頃に目覚めた。熱に浮かされた目に入ってきたのは、薄暗いランプの炎に照らされている、まるで農夫の小屋の様な粗末な部屋のむき出しの梁や木の天井だった。
「気がついたか」
声をする方を見ると、でっぷりと太ったジュリアスが饅頭の様に背中を丸めて、薬を作っているところだった。円盤の中心に棒が刺してあり、棒の両端を持って、円盤の歯を転がして薬草を押しつぶしている。
「話せぬのか? それとも話さぬように今までの主人に言われたか? 余は話しかけられてもかまわぬゆえ、名前を言え。熱が高く辛かろうから横になったままで構わぬ」
「……デリアと、申します」
その時、王子の両眼に青い炎が一瞬燃え上がった。
「こちらの世界での名か。それはそなたの本当の名ではあるまいに」
驚いたように女が目を見開き、警戒するようにおどおどとさ迷った。
「そう怯えずともよい。この世界での常識はこの数ヶ月で知っておろうが、魔力を持たぬ者は存在せぬのだと。余はさらに”真実の眼(しんじつのまなこ)”を持っているゆえに、大概の人間の心は読める」
「……ならばどうなさいます……? 私がどういう類の人間かもうおわかりでしょう」
「さて、な」
小さく微笑み、ジュリアスは粉にした薬草を、他の薬草と混ぜて練り始めた。
「賭けをするか万梨亜」
本名をずばりと言われ、万梨亜はぎくりと身体を強張らせた。たちまち激痛が背中をつんざいたため、そのまま寝台の上でゆっくりと力を抜いた。ジュリアスは静かに万梨亜の枕元まで歩いてきて、置いてある粗末な木の椅子に腰掛けた。
「……奴隷風情を相手に賭けとは」
「余は奴隷も貴族も王族も同じ人間と思っているゆえ、奴隷風情という考えはせぬ。大体戦に負けて王族から奴隷に転落したり、貴族が誘拐されて奴隷として売り飛ばされたりしているのだから、別とはとても考えられぬよ」
「…………」
「そなたは心を見えないように魔術を掛けている、もしくは掛けられている。相当な術者か生来のものかは知らぬが、ただ単に奴隷としてこちらへ来たのではあるまい」
万梨亜はじっと黙っている。嘘がつけない性格なようで、沈黙が肯定を意味するのだとわからないようだった。ジュリアスは大きく出ている腹を擦った。
「そなたと余の魔術対決。負けた者は勝った者の言う事を聞く。どうだ?」
「……生死もありですか?」
「構わぬ。余はこの容姿と魔力の低さで第一王子とはいえ、このように農夫のような暮らしぶりだ。殺されたとしても喜ばれこそすれ、誰も非難はすまいて」
「証書を」
意外なところできっちりしているとジュリアスは笑った。部屋の隅にある机から、一枚の魔術用の契約書の用紙と羽のついたペンとインク壷を出し、さらに小刀を持ってきた。
さらさらと今の賭けの内容を書き、ジュリアスは小刀で自分の指を突き出血させて、自分の名を書いた。万梨亜も高熱で辛いが、きちんと文字を読んで同じようにする。
契約書はたちまち燃えて消えた。違えた場合のみ、あの用紙が復活して現われるという仕組みだ。
「疲れただろう……ゆっくり休め」
薬を飲まされた万梨亜は、そのジュリアスの言葉を聞く前に眠りの淵に落ちた。奴隷と主人を平等に見るとは、変わった人間もこの世界にいたのだと思いながら……。