ディフィールの銀の鏡 第02話

 万梨亜が館に来て数週間が過ぎ、背中の傷が治った頃、ジュリアスに隣の部屋へ連れて行かれた。そこは木のテーブルと椅子、小さな寝台があるだけの殺風景な部屋だった。とはいえ、ジュリアスの部屋もそれに本棚と薬草を薬にするための器具があるくらいだが。

「今日よりここが万梨亜の部屋だ。今は何も無いが、必要なものがあれば言うがよい」

 奴隷に一つの部屋とは恐れ多い高待遇だ。とはいえ今までも主人であるジュリアスの寝台を万梨亜は使用していて、ジュリアスはこの隣の部屋の寝台で寝起きしていた。

「他の奴隷達と一緒の部屋でいいです」

「使用人はそなたしかおらぬ」

「え?」

 部屋の隅にかけてあった雑巾を、ジュリアスが手渡してきた。

「この家には余しか住んでおらぬ。衛兵も居るが、皆別の宿舎に帰るのだ。ああ、そなたは部屋から出られなかったゆえ、気づかなかったのだな」

 王子がそんな暮らしをしているとは、どうにも信じがたい。

「でも……、お食事とかお掃除とか」

「全部余がやっている」

 万梨亜はびっくりした。家事をやる王子など聞いた事が無い。ジュリアスは万梨亜の驚いている顔が余程面白かったらしく、はははとでっぷりと太った巨体を揺すって笑った。

「裏では畑も作っている。さすがに狩りはできぬから、衛兵どもに狩りに行かせているがな」

「………………」

 黙っているのをどう取ったのか、ジュリアスはやや寂しげな顔をした。

「幼い頃は、この家に住んでいた老夫婦が面倒を見てくれていたのだが、亡くなってからは一人で大抵の事はやっている」

 本来ならば、大勢の人々に傅かれるべき存在の一国の王子が、まるで農民のような暮らしぶりだ。万梨亜は切なくなってきた。そんな万梨亜に気づくこともなく、ジュリアスは木の桶を手にした。

 王子にそんなことはさせられない。

「水汲みなら私が!」

 ジュリアスはそうかと言いながら、もう一つの木の桶を万梨亜に渡してくれた。

「川はすぐそこだが、女には辛かろう? そなたのいた世界にはスイドウという便利なものがあったようだが」

 ジュリアスはそこまで読み取っているらしい。秘密を抱えている万梨亜は内心で冷や汗をかいた。だがそれ以上はジュリアスは言わなかったので、ばれてはいないようだ。ばれていたら、こんなに親切にしてくれるわけがない。

「こちらにきてから散々しておりますから、水汲みは慣れております」

「まあそう頑張るな。とにかく、ここでは初めてであろうから、連れて行ってやろう。危険な所もあるゆえな」

 家の出口の扉を開けて出ると、そこに居た衛兵達が直立の敬礼をした。しかし、ジュリアスを見る兵達の目は彼を馬鹿にしていて、見ていて不愉快になる。おまけに、聞こえるように罵倒をし始めた。

「……ぶっさいくだよな、あれが本当に王子なのか?」

「王太子のテセウス様とはえらい違いだ」

 ジュリアスは特に気にする風も無く、のしのしと歩いていく。誇りの塊の、横柄な王族ばかりを見てきた万梨亜の目には、そんなジュリアスが妙に新鮮に映った。

 森の小道をしばらく行くと、前に小川が見えてきた。川の水質はよく、透きとおっていて泥の濁りもない。川底で丸い色とりどりの小石が、太陽の光りを受けてきらきらと輝いていた。

「ここは流れが速いゆえ気をつけるように。森の奥の方まで行けば魚がいるが、危険な動物がうろついていることもある。一人では行かない方が良い」

「はい」

 万梨亜は桶に水を汲んだ。ジュリアスも自分の桶に水を汲む。

「そなたの白い木でできている桶は飲料用だ。余の黒い木でできている桶は掃除用だ」

「はい」

 館に戻ると万梨亜はさっそく掃除を始めた。ジュリアスが手伝うと言って聞かないので、気が進まなかったが手伝ってもらう事にした。

 みるみる綺麗になっていく部屋を見て、ジュリアスが呟いた。

「……人がいるというのは良いものだな。心が浮き立つ気持ちがする」

 寝台を整えながら、万梨亜はテーブルを拭いているジュリアスを見た。太った身体は後ろを向いていて、無造作に結ばれた波打つ銀髪がジュリアスの動きに合わせて揺れている。

「万梨亜が来てくれて、余はとてもうれしい」

 微笑みながらジュリアスが振り向いた。自分が慕う相手がこのように微笑んでくれたならと、一瞬万梨亜は思ったが、すぐに契約の内容を思い出してその思いを打ち消した。ジュリアスに隙を見せてはならない。

 次の瞬間、ジュリアスは外を見てふっと険しい顔をした。

「いかがなさいました?」

「……いや、何でも無い」

 万梨亜はジュリアスと同じように窓から外を見たが、緑の木々があるだけだった。ジュリアスは掃除が終わると、夕方まで部屋には来ないようにと言って部屋に篭ってしまった。

 午後も万梨亜は一人で館内を掃除した。

 陽がだいぶ傾いた頃、狭い館内の掃除は終了し、次は夕食を作らねばと万梨亜は額の汗を拭った。使用人が作っていると思っていた食事が、実は王子が作っていたとわかったからには、掃除同様させるわけにはいかない。

 敵の様な存在の王子だが、傷を癒してくれたり、部屋や食事を用意してくれる良い部類の主人だ。それ相応に応えなければと万梨亜は考えていた。

 万梨亜の部屋の隣が厨房になっていた。造りはケニオンと似たようなもので、石造りのかまどと調理台、そして皿などの食器が入っている棚、調理器具が壁に沢山掛けられていた。部屋の中央の食卓にはいろいろな野菜が置いてあり、下には塩漬けの肉や魚の入った樽が置かれていた。

 この世界に来て早いもので数ヶ月経つ。ケニオンの奴隷生活を続けていた万梨亜は、こちらの世界に適した家事ができるようになっていた。

 野菜を包丁で切っているところへ、衛兵がひとり入ってきた。

「水くれよ」

「はい」

 万梨亜は木でできたコップに水を汲み、手渡した。兵士はじろじろと万梨亜を見る。舐めるような嫌な目つきだ。

「夜はジュリアス王子の相手してるのか? 」

 不躾な言い方に、万梨亜は顔を赤らめた。

「そんな事は……」

「ふーん。あの女に全然モテない王子の為に、お前が来たって聞いたけど」

 万梨亜より少し年上くらいのその兵士は、いきなり万梨亜の手首を掴んだ。

「何をなさいますっ」

「あの王子にはもったいないくらいの、上玉じゃんお前。ケニオンのデュレイス王子の性奴隷だったんだろお前……」

「違います!」

 肩を壁に押し付けられた万梨亜は、持っていた包丁を兵士に突き出した。

「やめて!」

「おーこわ……」

 万梨亜を離して兵士は後ろに下がった。

 しかし、万梨亜がそのまま右に移動して部屋から出ようとした時に、新たな男が背後から現れて、その男に包丁をはたきおとされて羽交い絞めにされた。

「お前、帰って来ないかと思ってたら、ぬけがけは駄目だぜえ?」

「いーじゃねえか。別に」

 男二人の手が前後から身体を這い回りだし、万梨亜は気持ち悪さと恐ろしさでぶるぶる震えた。胸を服の上から嬲る、前の兵士がニタニタ笑った。

「あんなぶっさいくな王子にやられるより、俺達の方がいいって」

 何か言い返してやりたかったが、後ろの男に口を塞がれている。反対側の手で、後ろの男が衣装のの裾を捲くった。

「きれーな足してるな」

 もがいても、大人の男二人が相手では敵わない。この手のいやがらせはケニオンでも多かったが、どこでもやっぱり同じなのかと腹ただしくなる。確かに自分は奴隷だが、この男達は主人ではない。

これ以上されるわけには……。

万梨亜の黒い目がきらりと光った時だった。

「そこまでだ」

 ジュリアスの声がして、本人が厨房に入ってきた。衛兵二人は舌打ちをして万梨亜を離した。そのままへたり込んだ万梨亜をジュリアスは横抱きにし、出て行こうとした衛兵に声をかけた。

「そなたら、この女をただの奴隷と思っていたら痛い目に遭うぞ」

「は?」

 太っているわりにはジュリアスは万梨亜を抱いて身軽に歩き、衛兵達の横を通り過ぎ様に言った。

「古来、戦士が堕ちるのは、女の色香と自らの驕りによるものが大半だ……」

 万梨亜は左胸の熱のような熱さに、唇を噛み締めた。ジュリアスはそのまま万梨亜を抱いたまま、二階に繋がる階段を昇っていく。部屋へ入った途端、ジュリアスのものではない魔法の気配がした。微かにそれは女の匂いがする。

「……宮廷魔術師長デメテルが作った結界だ。たまに魔物が余を喰らおうと出てくるのでな、わざわざ彼女が出向いてきて張ってくれた。そなたが来るまでは、こちらで過ごしているほうが多かったか」

 学者の部屋のように、本棚は一杯で、入り切らなかった本が所狭しと床に沢山積み上げられている。窓が一つだけあるようだが、本の劣化を防ぐためか窓掛けが閉められていて真っ暗だった。天井から下がっている明かりだけが唯一部屋を明るく照らしている。

「治癒魔術、自然相手の魔術が大半。そなたが知っている戦術の類の本は置いていない」

「…………」

 椅子におろされ、万梨亜はなぜここに連れてこられたのか、ジュリアスの真意を計りかねた。張られている結界は宮廷魔術師長が張ったと思われる、魔物対策のものだけのようだし、自分をどうこうしようとしているわけではないようだ。

 それよりも胸が熱い。ここでこれをジュリアスにばらすのはまずい。あの兵士達が余計な手出しをしてこなければ良かったのにと思いながら、万梨亜は静かに胸を押さえた。

「……魔力の石が痛むか」

 秘密中の秘密を当てられて万梨亜は飛び上がった。ジュリアスからしてみれば、万梨亜の行動は心など読めずともわかってしまうものだった。これを狙って送り込んできたのだとすれば、ケニオンもやる事が卑劣極まりないと思う。所詮、奴隷の女で使い捨てなのだと哀れにすら思える。

「そんなものは、私には」

「無いとは言わせぬ。おそらくあの大広間でも気づいた人間は居る。それが余と宮廷魔術師長デメテルだ。国王やテセウスに気づかれていたなら、そなたは今頃城の豪華な部屋に幽閉といったところか」

 椅子から立ち上がって部屋を出て行こうした万梨亜の腕を、ジュリアスが素早く掴んだ。それと同時に万梨亜の胸の奥深くにある、魔力の石が青く光り輝き始めた。

「く……っ」

 呻いたのは万梨亜ではなく、ジュリアスの方だった。振り向いた万梨亜は、ジュリアスが虹色の霧に包まれ、彼の輪郭がぼやけて細くなっていくのを見た。ぱちぱちと魔法の火花が小さく散り、太って醜い容姿のジュリアスが、優美な美しい青年に変わった。

「え?」

 胸の光を必死に隠していた万梨亜は、目の前で起こったこの出来事に意識を奪われた。辛そうに銀色の睫毛を瞬かせた後、ジュリアスはそれでも万梨亜の腕を放さずに呟いた。

「……そなたの魔力が上回って……、変化の術が破れた」

 この麗しい姿こそが、ジュリアス王子の真実の姿だった。

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