ディフィールの銀の鏡 第06話

 万梨亜は翌日、ジュリアスと一緒に上掛けをかぶって目覚めた。起き上がろうとして全身痛いのに気づき、昨晩何回もジュリアスに抱かれた事を思い出して、なんともいえない気分になった。身体はやっぱりべたつき、腰はだるく足の間に物が挟まった不快感がある。それが悲しくて胸が痛んだ。いずれは来るその日だったが、実際訪れると喪質感が半端無い。

 万梨亜はもう、乙女ではなくなってしまった。

 指輪はきちんと填まっていた。だけど、自分はもうケニオンに戻れないだろう。戻ったとしても、結婚したデュレイスにどのように接したらいいのかわからない。もともと奴隷風情が一国の王子に想いを寄せる事自体が、思い上がりもいいところだった。しかし、そう簡単に想いを断ち切るなんてできるわけがない。

 暢気に眠っているジュリアスと同じ寝台にいるのが嫌になり、降りようとした万梨亜は自分の身体を見てびっくりした。

「な、なにこれ……新手の伝染病? どうしよう……」

 身体中赤い痣だらけだ。鬱血していると言っても良い。どうしようと思っていると背後でジュリアスの押さえた笑い声が聞こえた。

「何を考えているかと思えば……そなたは可愛いな」

 そう言いながら万梨亜に腕を伸ばしてきたので、万梨亜はさっと胸を隠しながら寝台から飛び降りた。

「何かの病気にかかりましたので、近寄らないでください!」

「病気などではない。何も心配ないからこっちへ来い」

「嫌です! 王族に変な病気をうつしたらそれこそ死刑ですので」

 ふうと息を吐いたジュリアスは、右手の人差し指を万梨亜に「来い来い」と言わんばかりに動かした。すると身体がふわりと浮き、嫌だと思っているのにジュリアスに引き寄せられ、あっという間に彼の腕の中で抱きしめられてしまった。

「うつります! いくら魔力が最強でも病原菌に勝てるとは思えません!」

「じたばたするなよく見るがよい」

 ジュリアスが万梨亜の腕に唇を付けて強く吸い上げた。ちくりと痛みが走り、その部分を改めて見下ろすと同じ痣ができている……、これはキスマークだ。万梨亜は自分の勘違いが恥ずかしくなって、顔が熱くなった。

「楽しいから沢山つけてやった。なんならもっとつけてやるが」

 にやっと笑ったジュリアスは本当に腹黒な感じがした。それにしてもつけすぎだ、この王子は少しおかしいと万梨亜は頭が痛くなってきた。

 手早く服を着てジュリアスは立ち上がった。

「そなたはあちこち痛いであろうから、今日はおとなしくしているがいい。昨日は余も手加減なしでしてしまったからな」

「回復魔法を使ってください!」

「無駄な魔力は使わぬ方が良いのだ。寝ていれば疲れは回復するのだからな」

 万梨亜は一計を案じて、ジュリアスを見上げた。

「……本当はできないのでしょう?」

「愚かな事を」

「じゃあ、試しにこの赤い痣すべて消してください。そうしたら信用します」

 ジュリアスは人の悪い笑みを浮かべて、エプロンを腰に結んだ。

「その手には乗らぬよ。余のものである証を消すつもりなどない。ふふ」

 ……ひっかからなかったかと、万梨亜は肩を落とした。

 信じられない事に、ジュリアスは本当に心の底から家事が好きな王子だった。午前中はせっせと掃除をし、午後は森の中の野菜畑で農作業をしていた。兵士達がそんなジュリアスを、農奴が王族に間違って生まれてきたのだと嘲っているのを、お茶をとりに厨房に入った時に万梨亜は聞いた。衛兵達はジュリアスが家から一キロも離れた森の中の畑に居るというのに、誰一人として同行していなかった。職務怠慢にもほどがある。万梨亜は草取りを手伝いながら、腹が立たないのかとジュリアスに聞いた。

 ジュリアスは涼しい目で鋤(すき)で土をならしながら、冷たく笑った。

「別に……。馬鹿な奴だと思われた方が余はうれしい」

「剣の稽古とかどうなさってるんです?」

「王族が剣などふるう様になったら、戦は負けだな。ほどほどには使えるが苦手だ」

「…………」

 デュレイスは剣の名手だった。戦ではいつも先陣を切っていたのを思い出す。

「前にも言ったが余は戦は嫌いだ。ケニオンがこれ以上いいがかりをつけて来ない様に祈っている。そなたのデュレイスがいくら口をすっぱくして戦を止めようとしても、欲に目がくらんでいる王や貴族どもは言う事をきかないであろうからな」

「私が貴方を連れて帰ったら……戦はなくなるかもしれないわ」

 そう言った瞬間万梨亜は後悔した。冷たい視線をジュリアスに向けられたからだ。

「余はケニオンには行かぬし、そなたを返す気もない。覚えておけ」

「貴方の妃になんかならないわ」

「奴隷は主人の言う事を聞くものだ」

「この世界では当たり前でも元の世界では……、私の国ではそんな身分差なんてなかった。だから嫌です」

「これから余を愛すればいい……」

 鋤を置いたジュリアスに手首を握られて、万梨亜ははっと息を飲んだ。その目は青い炎がまた燃えている。

「身体を奪っても、魔力の石の力が完全には手に入らぬのは何故だ。封印の力は消えたというのに」

「王子……!」

 ジュリアスは強引に万梨亜を抱き寄せて、荒々しく唇を重ねた。

 冷たい外見に似合わない激しくて甘いキス。強く抱きしめられて万梨亜は酔いそうになる。

 自分の心の変化に、万梨亜は動揺していた。

 ジュリアスが欲しいのは、万梨亜が持っている魔力の石の力だけだ。それなのに何故このキスはこんなに甘く、抱擁は蕩ける様にうっとりとしてしまうほどの心地よさなのだろう。甘いキスと抱擁で足の力が抜けていこうとした時に、左手の指に何かを填められた。

「え……何?」

 左手薬指に輝くのは肉の一部として同化した、ディフィール王家の紋章が入っている青銀の指輪。

 

「こういう事は先手必勝だ」

 そう言いながらジュリアスは、涼しい顔で自分の指にも似たような指輪を填める。

「ま、ま、まさかこれ……」

「まさかしなくとも、結婚指輪だ。本当はちゃんと神殿で式を挙げたかったのだが、時間がない」

 冗談ではない! 奴隷の言う事を聞くとは思っては居ないがだまし討ちだ! 万梨亜は必死に取ろうとした。しかし、完全に肉体の一部になってしまっている。

「王家伝来の指輪だ。死ぬまでとれない」

「国王が奴隷との結婚なんて許すわけが……」

「許すに決まっている。余は奴隷以下に扱われているのだからな。そなたがデュレイスの側妃になるより簡単だろう」

 ジュリアスの両目に青い炎が宿った。いつもに増して燃え続けるそれは、彼を急き立てる何かが迫っているのを知らせている。ジュリアスは万梨亜を抱きしめて、肩に顔を埋めた。

「来るぞ……」

 突然空が暗くなったかと思うと、ばりばりと凄まじい雷の音が響いて地面が揺れた。次に目も開けていられないくらいの、緑色の蛍光色の光が満ちた。ジュリアスは万梨亜をじっと抱きしめ続けていて、その胸がとても安心を与えてくれた。無理に抱かれて結婚させられた男に抱きしめられて安心している自分を、なんて愚かしい人間だと万梨亜は思った。

 やがてだんだんと地震の振動が静まっていき、万梨亜はゆっくりとジュリアスの胸から顔を離した。そして目の前に、黒目黒髪の鎧を纏った凛々しい騎士が立っているのに気づいた。

 それは、あんなにも会いたがっていたデュレイス王子だった。デュレイスは開口一番に言った。

「万梨亜を返してもらおうか」

「断る。彼女はもう余の妃になったのだからな」

 

 ジュリアスは口角をあげて微笑み、万梨亜の指輪を見せた。デュレイスはそれを見て顔色を変えたがすぐに平静に戻った。

「貴方はそんなにしてまで魔力の石が欲しかったのですか」

「誰かがもらう前にもらっただけのこと。それにしても勇ましい事だ。たった一人の奴隷の為に、敵国へ単身で乗り込んで来られるとは」

 デュレイスはふっと笑い、剣をはらった。長い刃が太陽の光を受けて煌めく。

「……貴方がこの国一の魔術使いであるように、私もケニオンではそうなのですよ。魔力の石を持つ乙女は万梨亜だけではない……。私はその乙女を手に入れ、しかもその魔力の石の力をもう自由自在に操る事ができるのです。現に今や強大なはずの貴方の魔力をも上回っている。一方の貴方はまだ万梨亜の力の一部分も支配できないというのにね」

「く……っ」

 デュレイスの手から雷の様な波動が放たれ、ジュリアスがその衝撃で抱きしめていた万梨亜を手放した。

「万梨亜っ」

 ジュリアスから伸ばされた手を、万梨亜はとっさに振り払ってしまった。罪悪感が何故か心の中に広がり、自分がわからなくなった。わからない、自分は一体何にとまどっているのだろう。

 動けないジュリアスを中心に魔法円が発動した。魔法の光の鎖がジュリアスの身体を縛り上げていく。

「万梨亜……」

 ジュリアスは、とても悲しく胸がかき立てられるような切ない笑みを浮かべていた。どうしてそんな顔をするのだろう。そんな微笑み方はジュリアスにはふさわしくない。もっと人を狡猾に騙しているような、意地悪な微笑みの方が似合っている。

「……余をさらっても何もならぬぞ。この国の連中は、余がいなくなったほうがありがたいのだからな」

「それでも万梨亜を救う事はできる。任務を成功させて奴隷の身分から解放されて自由になれるのだ」

 その言葉にジュリアスはくすくす笑った。

「愚かな。妃を迎えたそなたがまだこの奴隷を愛するというのか。結ばれるはずがないものを」

「婚姻の指輪をはめていようと、万梨亜は私の愛する女だ」

「……愛? 后がいるのにか」

 ジュリアスは不思議そうに首を傾げた。デュレイスは万梨亜に手を差し伸べた。

「万梨亜おいで。もうすぐこの国の兵達が、どこの国から間者が侵入したのか調べに来る。魔法の匂いを消しておきたい」

「でも」

 万梨亜はジュリアスを見た。彼もじっと万梨亜を見ている。デュレイスが焦れたように言った。

「ジュリアスの魔力は封印した。とにかく戻るんだ。話はそれからだ」

「……でもっ」

 躊躇う万梨亜の手をデュレイスは握り締めた。そして次の瞬間には、ケニオン王宮の北にあるデュレイス王子の館の庭に移動していた。鎖に縛られたままのジュリアスも一緒だ。これで良かったのかどうかわからず、万梨亜はジュリアスとデュレイスを交互に見やっておろおろするしかない。

「王子よ! ご無事でしたか」

 デュレイスの側近の赤毛のティイを始め、数人の騎士達が駆け寄ってきた。そしてジュリアスを見て目を見張る。

「……これがジュリアス王子ですか?」

「そうだ、しばらく牢に入れておく様に」

「……太っていて、愚鈍な男と聞いていたのですが」

 何を言っているのだろうと首を傾げた万梨亜に、ジュリアスが言った。

「万梨亜、デュレイスが言ったように余は魔力を封印されてしまったのだ。だから変化の術は使えない」

「……どうして、封印」

「せめてそなたの魔力の石の力が自在に使えたのなら、余に勝算はあったろうにな。鎖に縛られているのはデュレイスであったろうに」

 そう言って皮肉気に微笑むジュリアスは、男のくせに妙にはかなげな美しさだった。デュレイスが騎士達に命令した。

「この通り、奴隷の万梨亜はジュリアス捕獲に成功した。ティイ、アジャックス将軍に報告を。お前はこの王子を囚人の塔へ連れて行け」

「は!」

 騎士達はきびきびとデュレイスの命令に従って行動していく。牢に入れられたらジュリアスはどうなるのだろう。万梨亜自身もどうなるのだろう。さっきジュリアスの手を振り払った自分は、何か重大な過失を犯したのではないだろうか。自分はジュリアスを助けるべきだったのでは……。

 目の前で、魔力がないジュリアスが騎士に乱暴に引っ張られた。よろめきながらもジュリアスは万梨亜に振り返った。その青い瞳は強く輝いている。

「万梨亜、そなたは余の為に生まれてきた女だ。いずれ思い知るであろうよ。牢から救い出すのもそなただ、忘れるな、そなたにはそれだけの力が本来備わっているのだから。そなたはそなた自身で自分の力の大部分を封印している。早く目を覚ますがいい……」

「早く連れて行けっ!!」

 デュレイスが怒鳴った。ジュリアスは長い銀の髪を揺らせながら、騎士達に牢のある塔へ連行されていった。万梨亜はそれを見送った後、デュレイスを見上げた。

「ジュリアス王子はどうなるのですか?」

「国王かアジャックス将軍が判断されるだろう。ディフィール次第だが、最悪死刑といったところか」

「死刑!?」

 ぞっとして背中が冷たくなった。やはり万梨亜は間違っていた。デュレイスは青い顔をして倒れそうになった万梨亜に優しく言った。

「お前はあの王子にひどい目に遭わされたのだろう? 何故負い目を感じる必要がある? 万梨亜に乱暴を働いたのだから、それくらいは当たり前だ。おそらくは地下牢に当分つながれている事になる。お前も安全だから喜ぶべきだ」

 そうだ、確かに万梨亜は乱暴された。だが何か違う。ジュリアスは意地悪だったが争いが嫌いで、自ら魔力を封印するほど平和が好きで、兵士に嘲笑われても戦争をさけるために毎日を静かに過ごしていた。あの真実の眼を利用したらいくらでも自分に有利に事が運べるのに。

 そんな人を牢に閉じ込めるのが、正しい事なのだろうか? 

 見覚えのあるデュレイスの部屋に入った万梨亜は、デュレイスにきつく抱きしめられた。

「万梨亜、万梨亜……! 苦労をさせたね。もうあんなことはさせやしない。お前はもう自由だ……!」

「自由……?」

 あんなにも帰りたいと思っていたデュレイスの腕の中なのに、万梨亜はどこか喜べない。ジュリアスはどうなるのだろうかと、そればかりが気にかかりフラフラする自分が信じられない。キスをされ再び抱きしめられた時に、ためらいがちのノックの音が聞こえた。

「入れ」

 デュレイスが言い、入ってきた女性に万梨亜は衝撃を受けた。その女性はジュリアスが脳裏に映像を送り込んできた……――。

「万梨亜、彼女は私の正妃で名をヘレネーと言う。よく仕えるように」

「………………」

 ジュリアスが言っていた事は、正しかったのだ……。

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