ディフィールの銀の鏡 第10話

 勤めていた会社は一部上場企業だった、マリアの口添えで一般事務として雇ってもらえる事になったのだと、入社した時に上司である総務係長から万梨亜は聞いた。その会社はマリアの父親が経営している会社だった。

 本当は別の会社に就職先が決まっていたのだが、マリアが『私のパパの会社の方がお給料がいい』と言って、強引に変えさせたのだ。万梨亜もマリアと一緒に居たいと思い、彼女の望む通りにした。

 マリアは秘書課に所属していて、花形秘書として輝いていた。そんな彼女がちやほやする地味な万梨亜は、『お姫様と従者』とか『王女と乞食』と陰口を叩かれたが、社長令嬢のマリアに告げ口されると皆が恐れた為、万梨亜の耳には一切は届かなかった。

 しばらくは平穏な日々が続いていたが、取引先の専務、谷原純一郎(やはらじゅんいちろう)と万梨亜が付き合うようになってから、社内の空気が一気に冷たくなった。実は彼はマリアの恋人だと、万梨亜以外の社員の間では周知の事実だった。しかし内気で交友関係が著しく狭い万梨亜はその噂を知らなかった為、初めての恋に有頂天になっていた。優しく明るい純一郎とのささやかな時間はとても新鮮で、万梨亜を楽しく夢見心地な気分にさせてくれた。

 交際が深くなる程、会社の人間の視線が冷たくなった。共同でしていた仕事を回されなくなったり、ミスをなすり付けられたり、部長クラスの上司の前でわざと叱責される事が増えた。

「今日の仕事? 無いわ、別に。自分で探して?」

 

 先輩社員の木谷は事務的口調で言い放ち、自分の仕事をやり出した。入社してまだ一ヶ月の万梨亜は、指導する木谷が仕事をくれないと何もできない。試用期間は三ヶ月だった。

「でも……あの」

 万梨亜が困っていても、同期もほかの社員達も無視している。まだ始業したばかりであと八時間は勤務しなければいけない。自分を拒絶する雰囲気が恐ろしくなって、万梨亜は廊下に飛び出した。

 ミス等ほとんどしていないはずで、挨拶もきちんとし、電話の受け答えもきちんとしていたはずだ。一体何故こんな事になってしまったのだろうか。それより今日はこれからどうしたらいいのだろうと、万梨亜は途方に暮れた。

「万梨亜」

 声を掛けられて振り向くと、廊下の遙か向こうに秘書を従えた純一郎が居た。万梨亜はうれしくなったが、にらんでいる秘書が恐ろしくその顔も強ばった。

「どうしたの? 仕事は始まっているのにこんなところで」

 まさか仕事が無くて困っているとは言えずに、万梨亜は笑顔を作った。

「……これから資料室に行く所です」

 そうだ、どうせすることがないのだから、掃除をしようと万梨亜は思った。

「そっか、じゃあ僕も行こうかな」

「専務! 取引先の会社で勝手をなさっては困ります」

 秘書の女が怖い目で万梨亜を睨んだ。万梨亜だって勤務中に純一郎といるのは気が引ける。だが純一郎は万梨亜の肩に腕を回して、強引にどこかへ連れて行こうとする。廊下を歩く他の社員の視線が突き刺さり、純一郎の腕を振り払えないまま、万梨亜はうつむきながら歩いた。

「あの……、資料室はこっち……それに」

「ああここでいいか、開いてるし」 

 純一郎が開いている会議室に勝手に入り、おどおどしている万梨亜を引き込んで、ドアに鍵をかけた。万梨亜は意味が分からず純一郎を見上げる。あのいつもの優しい笑みは無く、なんだか仄暗い影が落ちている。

「あの、仕事中は困るんです。だから」

 その万梨亜の言葉は純一郎には届いておらず、彼はゆっくり万梨亜に近づいてきた。

「万梨亜は、かわいいね……」

 万梨亜は純一郎に強く手首を握られて顔をしかめた。いつもとぜんぜん違う。

「じゅ……」

「つきあって一ヶ月経つし……そろそろいいよね?」

 何がいいのか分からないまま、万梨亜は床に押し倒された。恐ろしくなってもがいても、男の力には敵わない。

「いや……っ」

「いやじゃないだろ? いっつも物欲しそうに僕を見てたじゃない? 職場で虐められてるんだろ……、いっそ転職して僕の秘書になれよ」

「できな……いやあっ!」

 スーツの前ボタンを引きちぎられそうになった時、ドアの鍵の音がした。ばたんとドアが開いてハイヒールの音が響く。さっきの秘書と木谷、他総務の社員が数名立っていた。

「あ……」

 何が起こっているかは一目瞭然だった。秘書達の目線の先は純一郎だ。純一郎は慌てて立ち上がると、信じられない事を言った。

「どうしても抱いてくれって、頼まれたんだよ」

「……本当ですか?」

 万梨亜はすがるように秘書達を見る。

 違う、純一郎は自分を犯そうとした。万梨亜はそう言いたかったのだが、ショックで涙があふれて、泣き声にしかならなかった。ここでハッキリ言うべきだったのだが、気の小さい万梨亜は言えなかった。そして万梨亜はわかっていなかった、もともと良くなかった自分の評判が、ここで地に堕ちた事を。

 

 秘書はこう言っただけだった。

「戸田万梨亜さん、こういう事は二度としないでください。会社信用に関わりますよ?」

 どういう事だと見上げた万梨亜に、秘書達の冷たい視線が突き刺さった。純一郎は非常にばつが悪そうな顔をしている。

「わた……しは、……だって、純一郎さん」

「僕にはもう近づかないでくれ」

「…………!」

 慌てた純一郎と秘書達が出て行き、ショックで固まっている万梨亜に木谷の容赦ない追い打ちがかかった。

「早く仕事に戻りなさい? 総務係長が何度も放送で呼んでるわ。このバカ女!」

 罵声を投げつけられてさらに怯えて動けなくなった万梨亜を残し、木谷は他の総務の連中とさっさと部屋を出て行った。

 自分をなんとか励まして総務課に戻った万梨亜は別室に呼ばれ、係長に厳しく叱責された。木谷も一緒だ。

「戸田君、困るよいつまでも学生気分でいられては! 木谷君が仕事を教えようとしても全然覚える気がないそうじゃないか」

「そんなことは……」

 万梨亜が意見を言おうとすると、木谷が万梨亜を押しのけた。

「本当にこういう人は困ります。社長令嬢のお友達と思って我慢してましたけれど、今日も黙っていなくなるんですもの。先日の仕入れ伝票のコンピューターの月〆も、〆られてなくて十日あまりも削除しないといけませんでした」

 それはコンピューターの操作方法のファイルを渡されて、〆ておくようにと指示されたものだった。確かに万梨亜のミスだが、複雑な内容はファイルを見ただけで初心者ができるものではなく、普通は熟練者が数回はサポートに入るものだ。木谷の万梨亜への指導ぶりと他の新入社員たちへの指導ぶりとは、天と地程の違いがあった。他の新入社員へは懇切丁寧に木谷は接している。

 その為他の新入社員達は、万梨亜が仕事をする気がないのだと思い込んでいた。

「木谷君、それは本当かね?」

「ええ、私は見直そうとしたんですけど、戸田さんが大丈夫って言ってたんで」

 そんな事を言った覚えは無い。何度も声を掛けて見直してもらおうとしたが、無視されたのだ。万梨亜の意見を聞かないまま、係長は木谷の方を信用した。木谷は性格はともかく仕事が出来る社員だった。

「駄目じゃないか戸田君! 学校じゃないんだから、自分一人で決めないでくれ」

「本当に困っています。何かあったら、社長令嬢に文句を言われるのは私です。やりにくくて仕方ありません」

 冷たい拒絶の壁が万梨亜と二人の間に出来、とても真実を言えなくなった万梨亜に、係長がため息をつきながら残酷な宣告をした。

「もういい、今日から君は倉庫で作業してくれ」

「……はい」

 係長も木谷も、社長令嬢であるマリアが推薦した万梨亜を、辞めさせる事はできないのだった。

 万梨亜は、総務課所属であるにも関わらず、資材課の倉庫へ行かされた。突然現れた万梨亜に資材課の数人の男達はいやそうな顔をした。ここにも万梨亜の悪評は流れていて、おまけに資材課は完全に男の職場だった。資材課の課長は古紙が入っている段ボール箱で何箱も万梨亜に渡すと、メモ用紙を作るように言い渡した。

 完全に閑職であり、辞職を強要するいじめだ。だが万梨亜はもくもくと従事した。何も言わせてもらえない以上、どんな仕事も真面目に取り組むしかない。万梨亜の仕事は、延々と八時間も古紙をカッターで切り、メモ用紙を作る事に変わった……。

 純一郎はあの日以来、万梨亜を誘う事が無くなった。逢いたいとも万梨亜は思わなかった。逢ってどう接したらいいのかわからない。優しいマリアにもとても言えなかった。

メモ用紙作成の仕事は半年続いた。いつかは総務課に戻してもらえると万梨亜は思っていたが、望みはないと秋の異動ではっきり分かった時、辞表を出した。事実を知ったマリアが、今自分が上層部に働きかけている最中だからもう少し我慢して欲しいと言ってきたが、万梨亜は首を横に振った。大好きなマリアに迷惑はかけたくない。

 ロッカーで帰り支度をしている万梨亜に、久しぶりに木谷が声をかけてきた。

「辞めるんですって? 短い間だったけどありがとう。皆で送迎会をすることにしたから、来週の金曜日の19時に『花』に来てね」

 初めて聞く優しい口調に万梨亜は驚いた。

「え……でも」

「貴女に辛い仕打ちしてしまったのを謝るわ。誤解だったの。皆、謝りたいって思ってたのに辞めるから驚いてるのよ。せめておわびでもと思って。もう貸し切り予約しちゃったから、絶対に来てね」

 『花』の住所と地図の書かれた紙を手に押さえつけられ、万梨亜は驚きながらうなずいた。木谷は優しく微笑んだ。

 

 そうか……、何か誤解があったんだなと万梨亜は思った。そうでなければあんなに冷たくされたりするわけが無い。それに万梨亜も物覚えが良い方ではなく迷惑をかけたかもしれない。もう辞めてしまうのだから、送迎会の時に自分も謝ろうと万梨亜は思った。

 当日は、雨がしとしとと降る天気だったが、万梨亜は気分も明るくアパートを出た。

 だが。

 地図で渡されている『花』はなく、そこにあるのは潰れて売り物件の看板が貼られている廃店舗だった。間違えたのかと思ったが、場所は確かにそこだった。

 ひょっとすると移転したのかもしれないと思い、万梨亜は会社に行って木谷に聞く事にした。しかし道の途中で華やかな格好をしている木谷と、元同僚達が違う店に入っていくところを見つけた。

「ねーえ? 戸田ってば今頃あそこでなにしているかしらね?」

「さあ? 馬鹿みたいに待ってんじゃない? 誰もいないもんね。ぷぷ!」

「だれが送迎するかっての! あの陰気馬鹿女が辞めてくれてせいせいしたわ~」

「虐めがいがあったわよね~。ストレス解消には良かったわ、はははっ」

 万梨亜は影のようになって、元同僚と先輩社員が店に入っていくのを見ているしか無かった。耳鳴りがひどくなり、周囲の声が聞こえにくくなる。そんな中、マリアの声がした。

「万梨亜? なにしてるのこんなところで」

 振り返って万梨亜は驚いた、一緒に居るのはマリアと純一郎だった。万梨亜の視線に気づいてマリアが花の様に微笑んだ。

「ああ、この人? 谷原純一郎さん。私の恋人なの、よろしくね?」

「恋……人」

 純一郎は万梨亜を馬鹿にしたように見て、そっけなく言った。

「同じ『まりあ』なのに、全然違うね」

「万梨亜は清楚だから」

 マリアがそう言うと、純一郎は鼻で笑った。

「清楚ねえ? この女、僕に誘いをかけてくるようなあばずれだぜ? ま、こんなみすぼらしい女とはやる気も無かったけど。僕にはマリアの方がとても清楚で魅力的に見えるよ。早く行こう? 今日は僕たちの婚約を皆が祝ってくれるんだろ」

「え、ええ……」

 マリアが万梨亜を見た。気のせいだろうか、一瞬マリアの口元が意地悪にゆがんだように見えたのは。

「ごめんなさいね報告が遅れて……。一緒に祝ってほしいから……入らない?」

「この子はもう会社を辞めたんだろ? 今日は送迎会があるんだって聞いたぜ。早く行こうマリア」

「え……ええ、じゃあね万梨亜」

 今まで受けたどの言葉よりも二人の婚約はかなりの衝撃で、万梨亜は呆然とその場に突っ立ったままだった。マリアが入っていった店のドアには『本日貸切』と張り紙があった。扉がしまった瞬間に盛大な拍手が沸き起こり、万梨亜は聞いていられなくて、雨が降る中を傘もささずにアパートへ走った。

 馬鹿みたいだ。

 馬鹿みたいだ。

 こんな私など、居なくなってしまえばいい……!。

 そしてあの魔術師が現れたのだ……。

 顔に冷たい手のひらが当てられるのに気づいて、万梨亜は目覚めた。いつの間にやらテーレマコスの家の小さなベッドに寝かされていて、ジュリアスがそばに座っていた。

「ずいぶんうなされていた」

「あれ……私」

「ここはディフィールだ。トウキョウではない」

「……そうですか」

 黒馬のニケにキスされた後の記憶が無い事から、多分すぐに気絶したのだろう。そう言えば彼はどうしたんだろうと万梨亜は部屋を見渡したが姿は無い、代わりに庭から情けない声がした。

「ジュリアスさま~。もうしませんからお許しを~」

 ニケが大木に魔法の縄でぐるぐる巻きにされて、動けなくなっている。そばで獰猛そうな狩猟犬が数匹吠え立てていた。

「ふん、余の万梨亜に口づけなどして、よこしまな想いをいだくからだ。いい気味だ」

 万梨亜は胸に意味不明の熱い感情が沸き起こってきて、ごろりと寝転がってジュリアスに背を向けた。

「どうした?」

「……別に」

 その想いのかたまりを出さないように、万梨亜は息を飲み込んだ。だけど、うまく行かなくて肩と指先が震えた。この感情はなんと言うのだろう。うれしさと切なさが交差するこの想いは。ジュリアスの骨張っているけれどすらりとした指先が、万梨亜のカールしている髪の毛をやさしく梳いていく。

「やさしく……しないで」

「やさしくして欲しいと思っているであろう?」

 万梨亜は首を振る。

 

「……やさしくされる価値などありませんから」

「好きな女にはやさしくしたいものだ」

「そうでしょうか……、大して美しくもない私です」

「ジュンイチロウのような男の事で傷つくな」

 ジュリアスは万梨亜の夢を見ていたらしい。別に腹も立たなかった。

「ですが私は、人に迷惑をかけるだけの存在なんです。ですから、もう情けをかけるのは止めて欲しいんです。裏切られるのが怖い……」

「余を屑どもと同じにするな。やつらはそなたの人格を破壊して楽しむ下劣な輩だ。そんな人間よりそなたを愛している余を信用しろ」

 本当に、ジュリアスは自分を愛しているのだろうか。彼が愛しているのは魔力の石がある戸田万梨亜ではないのだろうか。でも聞いた所でジュリアスが正直に話すはずが無い。

 あの会社で、万梨亜の存在が迷惑をかけたのは事実だろう。万梨亜が居なくなって、今頃はまともに運営されているはずだ。

 マリアにはひたすら申し訳なかった。自分が愚かな願いを言ったせいで、望まないのにこの異世界に来たのだから。王太子妃として幸せでいてくれる事が何よりも幸いだった。だが、元の世界の人々には顔向けが出来ない。きっと誰からも愛されていたマリアを、沢山の人が行方不明になったと心配しているはずだ。

 自分は妃などより奴隷の方がふさわしい。人より格段に劣った人間は、まともな人間の迷惑にならないように生きるべきだ。

 ジュリアスはいろいろと言ってきたが、万梨亜は聞かない振りをして、そのまま眠った。この人にも嫌われてしまえば良い、心はもう開かないと思いながら。

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