ディフィールの銀の鏡 第12話
ある日、花がとても美しく咲き乱れている場所で、ジュリアスが言った。
「万梨亜、このかすみ草と薔薇とどちらが美しいと思う?」
「薔薇に決まっております」
「余はかすみ草が美しいと思う」
ジュリアスは千切ったかすみ草を愛おしそうに頬ずりした。ジュリアスの青い瞳と純白のかすみ草はよくつりあっている。やはり引き立て役の花なのだ。大体おかしな事を聞くと万梨亜は思う。花屋で薔薇だけを買っていく客はいても、かすみ草だけを買う客がいるだろうか。
小川のさらさらと流れていく水音を聞きながら、万梨亜は摘んできた花かごの中の薔薇達を見つめた。世話をしていたわけでもないのに、美しい薔薇の花は誇らしげに花開いている。
突然ジュリアスが薔薇の花かごをさっと奪い、万梨亜にかすみ草を手渡した。
「よく見てみるがいい。白くて清らかで心が醒めていく心地がせぬか?」
「……かわいいとは思いますが、そこまでは」
「成る程」
得心がいった様にジュリアスは立ち上がった。万梨亜も一緒に立ち上がる。
上に覆いかぶさっている木々の葉が、まぶしい陽射しをやわらかなものに変えてくれている。ジュリアスがその木漏れ日を受けながら、万梨亜に微笑みかけた。
「そなたの美しさの基準はマリア王太子妃に刷り込まれたものだ。だからそなたにはそぐわぬのだ」
いきなりマリアの名前がジュリアスの口から飛び出してきて、万梨亜はぎくりとした。マリアに何を刷り込まれたというのだろうか。基準とは何の事だろうか。
「彼女ならば薔薇が美しくて当然と言うであろうな。だが本当の万梨亜ならどちらも美しいといったはずだ」
「……薔薇のほうが美しくはありませんか?」
花かごを取り返しながら、胸の奥がちくりとするのを万梨亜は感じた。何故だか薔薇がマリアで、かすみ草が自分のように思えてきた。誰でもマリアのほうが自分より美しいと言うだろう。それが万梨亜の中では当たり前の事だった。
「美しいと思う基準は人それぞれ違うものだ。そなたは無理をしている」
「無理などしておりません」
もう家に帰ろうときびすを返すと、ジュリアスに乱暴に腕をつかまれ抱き寄せられた。持っていた花かごが草の生えている地面に落ち、花が散らばった。
「余には、そなたが一番美しく見える」
期待してはならない、勘違いしてはならない、もう傷つきたくないのだから。自分の想いに気づいてはならない。
「……王子は、魔力の石が欲しいのでしょう?」
「欲しいとも」
はっきりと肯定されて、いささか万梨亜は面食らった。
「そんな王子から何を言われても、信じられません……」
ジュリアスの抱き寄せる腕の力がさらに強くなった。苦しいので緩めてもらおうと顔を上げたとたんに、唇が重なってきた。
ざあ……と風が森の中を吹き渡っていく。
唇を離すとジュリアスは腕の力を緩めた。そして万梨亜の目を覗き込むように見つめる。
「……魔力の石がなくとも、余はそなたを愛したと思う」
「…………」
「信じてくれなくても構わぬ。それが余の純粋な気持ちだ。そなたの心がデュレイスにあろうが、他にあろうが、余はそなたを愛している」
胸の中にある魔力の石が熱くなってきた。万梨亜の感情に左右されるのか、だんだん我慢できない熱さになっていく。ジュリアスがそれに気づき、そっと胸にその手を触れさせると、石は熱を失い冷えていった。
「どうしたら……」
ジュリアスは頭を振った。長い銀の髪がさらさらと音をたてる。
「どうしたら、そなたは自分の心に正直になるのであろうな」
「…………」
やっと解放されたので、万梨亜は地面に散らばった花を集めて花かごに戻し始めた。ジュリアスはそんな万梨亜を見つめていたが、やがて黙って同じ様に花を集め始めた。
雲がさして、急に森の中が陰って暗くなった。
「急げ、雨が降りそうだ」
ジュリアスが万梨亜の左手を引っ張り、二人は家に向かって帰り道を急いだ。風はますます強くなり湿気を多分に含み、雨が近い事を知らせた。
なんとか雨が降る前に家に着いた二人を迎えたのは、二名の煌びやかな近衛兵だった。近衛兵の一人はこうジュリアスに告げた。
『明日、国王陛下の誕生を祝う祝典がある。ジュリアス王子とその奴隷も必ず出席するように』……と。
翌日、それなりに美しい衣装を着て、ジュリアスと万梨亜は迎えに来た近衛兵と共に王宮へ向かった。白い大理石の壮麗な王宮内を歩いている最中に、ジュリアスが小さな声で万梨亜に言った。
「……おかしい」
「いかがされました?」
「この者達の心が見えぬ。どうなっているのか……」
立ち止まったジュリアスに、先を歩いている近衛兵達が振り返った。
「王子、立ち止まられては困ります」
「……帰る」
そう言って後ろに振り返ったジュリアスに、背後を歩いていた近衛兵が剣を抜いた。
「!」
ジュリアスの青い目が見開かれた。緊迫した空気が張り詰める中、剣を突きつけている近衛兵は厳しい面持ちで言った。
「我々は、必ず王子を大広間までお連れするよう仰せつかっております。このままお進みください」
しばらく二人は睨みあっていたが、やがてジュリアスが諦め、再び大広間へ向かって歩き出した。万梨亜は胸の動悸が治まらない。なんだか王宮内の空気がおかしい。それは万梨亜にも分かる。だがジュリアスはそれでも行かねばならないらしい。
じわじわと迫ってくる黒いものに押しつぶされそうになっている万梨亜に、ジュリアスが再び小さな声で囁いた。
「……何があっても、恐れるでない」
「王子」
「そなたは自分を信じる力をマリアに奪われた。そのような有様ではこの先は地獄しかない」
「こんな時に、何を」
万梨亜は何故ジュリアスがこんな事をいきなり言い出すのか分からなかった。先日から彼はおかしい。ひょっとするとこれから起きるなんらかの災いを、彼は真実の眼を通して知っているのではないか。そのためにあれこれ言うのではないか。
「世界中の誰もが万梨亜を否定しても、余は万梨亜を信じている。自分が信じられぬと言うのなら、余を信じろ」
「…………」
「負担に思うか? それでも構わぬ、覚えておけ」
横を歩くジュリアスを万梨亜は見上げたが、彼の目はまっすぐに前を見つめていた。大広間はもう目の前だ。中で大勢の豪華に着飾った貴族達が集まっていた。
「第一王子ジュリアス様、ご到着!」
近衛兵の奏上に、ざわめいていた貴族達は静まり返った。
かつて、万梨亜が歩いた赤いじゅうたんの上を、万梨亜とジュリアスは好奇のまなざしを貴族達に投げかけられながら歩いた。奥にはやはり同じ様に国王夫妻と王太子夫妻がそれぞれ席についている。
「相変わらず醜い王子ね」
「見よ、あのたるんだ身体……、まるで卑しい農夫のようだな」
「何故あのような王子を国王は呼ばれたのであろうか」
「テセウス様が王太子なのもうなずける」
小波のように侮蔑の声が貴族達の間から聞こえてくる。そして嘲笑も。ジュリアスは万梨亜以外には本当の姿を決して見せない。彼らはでっぷりと肥え太ったジュリアスを見ているのだ。
ジュリアスは国王から少し離れた所で膝をついた。万梨亜もそれに倣う。
「久しいな、ジュリアス」
相変わらず横柄に国王が言う。
「国王陛下におかれては、お変わりがない様で安心しております」
「相変わらず、醜い姿のわりには頭がまわるようだな」
「恐れ入ります」
久しぶりに会う親子だというのに、国王もジュリアスも素っ気無い言葉しか言わない。王妃は口を聞くのも嫌らしく、扇で口を隠して顔を横に向けている。その横には美しいが、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべるマリアとテセウスが居た。
「このような晴れの日にそなたなど呼びたくはなかったのだが、必要にせまられてな」
「…………」
「そこの奴隷を、ケニオンが返せと言ってきた」
国王の言葉に大広間にざわめきが広がった。
「……お断りします。貢物を返せとはおかしいのではありませんか?」
ジュリアスの声は冷気が漂っていた。万梨亜は身体の震えが止まらない。どういう事だろう、デュレイスがやった事なのだろうか。あのヘレネーがいる場所になど戻りたくない。戻ってまたあの辛い生活が待っているのかと思うと、恐ろしさに胸がつぶされそうだ。
「そう言うだろうと先方もわかっていたようでな。その奴隷の代わりを贈ってきた。連れて来い」
万梨亜もジュリアスも、入ってきたその奴隷に驚いた。ジュリアスがさっと立ち上がって万梨亜を後ろに庇った。美しい姿で着飾って入ってきたのは、デュレイスの正妃のヘレネーだったのだ。
ヘレネーが万梨亜達を見て笑った瞬間に、ジュリアスと万梨亜の足元に黒い魔法陣が現れた。空気が割れるような音と同時にジュリアスが苦しそうな声をあげて、がくりと床に手をついた。そしてそのまま四つん這いになりゆっくりと倒れていく。
何故だかわからないが周囲から感嘆の声が上がった。ヘレネーが高笑いをする。
「そうらご覧くださいませ。それがジュリアス王子の本当の姿です」
黒い闇の魔法陣がジュリアスを苦しめているらしく、ジュリアスは身体を震わせている。万梨亜はジュリアスの肩をゆすった。
「王子」
「……目が見えぬ……。身体が動かな……」
力なく言ったジュリアスに、ヘレネが笑いながら言った。
「あっさりひっかかったなジュリアス。目が見えなければお前は魔力を使えない。万梨亜の心を手に入れられないままのそなたに勝ち目はないわ! テセウス、何をぼさっとしておる、さっさとやらぬか!」
ジュリアスが殺されると思った万梨亜は、とっさにジュリアスを庇った。しかし、違う方から苦痛を訴える声が聞こえた。身近から漂ってくる血の匂い。
テセウスが剣を振り下ろしたのは、なんと父である国王と、母である王妃だった。
「な……ぜ」
国王が胸から血を流しながら、とどめを刺そうとするテセウスに問いかける。テセウスは血が滴る剣を掲げた。
「貴方は長生きしすぎなんですよ。いつ死ぬかと待ちくたびれました。放蕩三昧の貴方達は、庶民からもわれわれからも嫌われていたのです。ご存じないのですか」
「父を……殺すと」
「父であるなら息子の役に立ってください。さようなら、父上、母上」
「ぎゃあああ!」
万梨亜はジュリアスを肩に担いで逃げようとしたが、どうした事か魔法陣から出られない。
「逃がさぬぞ万梨亜。そなたには重要な役目がある」
ヘレネーの目が赤く光る。万梨亜は両目を押さえて苦しむジュリアスを抱きしめ、ヘレネーを見上げた。
「今、その王子は魔力を使えぬ。わらわの術で封印した。お前を庇ってくれる者はもうこの世界にはおらぬぞ」
「…………!」
万梨亜は周囲を見回した、あちこちで斬り殺されている貴族達がいる。テセウスに忠誠を誓わぬ者達を近衛兵が斬っているのだ。ふと、美しいままのマリアと目が合った。
「マリア……」
しかしマリアから返ってくるのは、この前と同じ意地の悪い微笑みだった。
「どうしてそんな風に笑うの……?」
詰る万梨亜にマリアは笑った。
「馬鹿ね、私は初めて会った時からあんたが大嫌いだったのよ」
「いつも庇ってくれたじゃない。綺麗な服をくれて、おいしいお菓子をくれて、いじめられたら助けてくれたじゃない」
「……そうね、私の言う事を聞く人形が欲しかったのよ」
「人形?」
マリアは万梨亜に近づくと、広げていた扇を閉じた。
「好きなときに傷つけて、楽しめる人形が欲しかったの。思い通りにあんたは育ってくれたわ。ふふ」
「うそ」
「ずっとだましていても良かったけど、もう面倒くさくなったから言ってあげる。あんたの父親は私の父親なのよ。私達は異母姉妹なの」
信じられない言葉がマリアの口から飛び出して、万梨亜は耳を疑った。
「パパはあんたの母親を溺愛してたわ。逃げないように屋敷の近くに住まわせて、愛人させてたのよ。使用人と言ってたけど、実情はこんなもんよ」
「うそ」
「あんたの母親が死んだ原因は、パパから逃げようとしたからよ。パパの車が逃げるあんたの母親の車を追いかけて、あんたの母親の乗った車は衝突事故を起こしたの」
「うそ……うそ」
「パパは溺愛の相手を失って、今度は実の娘のあんたに目をつけた、許せなかったわ……パパに愛されるあんたが」
「やめて、マリア」
「だから、妖しげな黒マントの男の言う事を聞いたのよ。私とあんたを異世界に飛ばすように。そして私は王太子妃に……あんたは誰からも嫌われる奴隷にとね」
マリアは自分の意思でこの異世界に来たのだと、その時初めて万梨亜は知った。マリアの横にヘレネーが立った。いつのまにか周囲は漆黒の闇に変わっている。そう、あの魔術師に最初出会った時のあの空間が広がっていた。ジュリアスを抱えて座っている万梨亜をマリアが見下ろした。
「あんたは魔族らしいわよ。よかったわね……受け入れてくれるところがあって」
万梨亜はとっさに魔力の石がある左胸付近を手で押さえた。それを見てヘレネーが笑う。おそろしい笑い方に気をとられていた万梨亜は、背後から黒マントが覆いかぶさってきた事に気が付いていなかった。
「きゃあ!」
それは万梨亜を横抱きにした。支えがなくなったジュリアスがその場に倒れ、長い銀の髪が床に広がった。目を閉じたジュリアスはぴくりとも動かない。かすかに動いている睫毛が彼がまだ生きている事を知らせてくれるが……。
「魔力の石を宿す女、ようやく時が満ちた。我の元へ来るがいい……」
青銅の鈴を転がすようなその声は、あの魔術師と同じだった。万梨亜が驚いて見上げると、男は顔を深く覆っていたマントを取った。万梨亜を抱き上げたのは悪魔だった。ヘレネーと同じ顔だが、浅黒い肌に漆黒の髪が長く、銀色の角が頭に左右二本生えていた。
「兄上、デュレイスには偽者を渡します。その女を好きなようになされませ」
ヘレネーがその男に言った。男は無表情にうなずく。その男の胸はあまりにも冷たくて万梨亜は凍りつきそうになり、床に降りようとして身を捩った。
「離して」
「離さぬ、そなたは我の妃」
「私は誰の后でも無いわ、ただの奴隷よっ……」
くすくすとヘレネーが笑った。
「その銀の指輪は、ジュリアス王子と対になっているようじゃな。婚姻しているのじゃこの二人は」
「おかしな事をいう。魔力の石を持つ女は魔の性質を持っている。神々とは一緒になれるはずがないものを」
「王子は人間です!」
言い返した万梨亜にヘレネーは赤い瞳を向けた。
「何も知らぬお気楽な女じゃな! ジュリアスの母は半分が人間である半神、父は全能神テイロンだというのに」
ではジュリアスは国王の息子ではないという事になる。ヘレネーは万梨亜の考えを読んで続けた。
「淫蕩な国王が勝手に側妃にしおっただけ。だから、その王子は国王に愛されておらなんだのじゃ」
「そんな……」
次々と明らかになっていく事柄に、万梨亜は感情がついていかない。そんな万梨亜を慰めるように男が万梨亜の髪を撫でた。マリアはそれを見てうれしそうに言った。
「愛されているわね万梨亜、魔王に」
「魔……王?」
つぶやくように言った万梨亜に、甲高いヘレネーの声が重なる。
「わらわの兄は魔界の王。万梨亜、お前はその妃になる。それが運命じゃ」
力なく万梨亜は首を振った。
「違う……絶対にそんなの……」
大それた事だと思っていても、万梨亜の脳裏に過ぎるのはジュリアスだけだった。それを見ていた魔王の漆黒の瞳が赤く光った。
「あの半端な神が、お前の気持ちを乱しておるのか。ならば……」
魔王の右手が空を切った。同時にジュリアスの身体に血柱が立ち、ジュリアスがうめいた。万梨亜はそこではっとしたが、どうした事か身体が鉛のように動かない。できるのは声を振り絞って叫ぶ事だけだった。
「やめて!」
「やめない。あの王子の存在は邪魔だ」
「やめてください! 王子が死んでしまうっ。お願い」
必死な声が通じたのか、魔王は攻撃の手を止めた。そして万梨亜を抱えなおす。ジュリアスは自分が流した血で華麗な服を深紅に染めている。睫毛でさえぴくりとも動かなくなってしまった。
「どのみちこの者は助からぬ。ヘレネー、後は任せたぞ。テセウスとマリアとやら契約は履行しようぞ、ディフィールは最強の国になる」
いつの間にか近くに居たテセウスが、膝をついて頭をたれた。
「ありがたきしあわせ……、魔王よ」
「この女はいただいていく……」
「いや……! 王子っ」
黒いマントを頭から被せられ、万梨亜は闇に包まれた。
再び視界が開けた時、場所は見慣れない豪華な部屋の中だった。魔法陣を抜けた為か、力が戻った万梨亜は魔王の腕を払いのけて床に降り、部屋の隅まで走って逃げた。魔王はそんな万梨亜を見て薄く笑う。
「どこへ逃げようと無駄な事。我に逆らうとこうなるぞ……」
魔王が右手をぎゅっと握りつぶした。途端に魔力の石から全身に痛みが走り抜け、万梨亜は甲高い悲鳴をあげて悶えた。
「きゃあああああ」
熱くて壊れそうな痛みに、万梨亜は立って居られなくなった。魔王はそんな万梨亜を再び抱き上げ、部屋の隅にある寝台に放り投げる。痛みの残滓に震えている万梨亜に覆いかぶさると、魔王は万梨亜の細い顎をとらえた。
「さからうな。我が妃……」
ヘレネーに似た冷たい美貌が万梨亜に近づく。黒い瞳は再び赤く燃えている。
「ちが……」
違うと言おうとした万梨亜の唇は魔王の唇と重なり、何も言う事ができなくなった……。