ディフィールの銀の鏡 第15話

 万梨亜は小学生の頃の夢を見ていた。忘れようとしてもなかなか消えてくれない嫌なこの記憶は、昨日の事の様に鮮明に胸の痛みと共に甦る。

 小学校四年の頃だ。担任の教師が産休で二学期休んでいたのだが、三学期に復帰した。お嬢様だったという教師の東野智子は、質素で流行遅れの服を着ている万梨亜をひどく嫌った。私立のお金持ちの子供が行く学校だったため、万梨亜の様な児童がいるのが許せなかったのだろう。

 クラスメイト達は教師の感情を敏感に感じ取り、三年でクラス替えした時に止んでいたいじめが復活した。とはいえ、物を隠されたりしたわけでも、水をかけられたわけでもない。

 無視だった。存在を否定される一番辛い行為だ。

 仲が良かった二人のクラスメイトは万梨亜を避けるようになり、二人で秘密を作って、それを万梨亜の耳に入るように見せ付けるようになった。

『今度のお誕生日会来てくれる?』

『もちろん行くわ』

『万梨亜ちゃんはどうする?』

『可哀想だからやめときましょ、あの子、綺麗な服持ってないじゃない。うちのパーティーは豪華だし、そういう人達しか来ないもん』

『ゆうちゃんはやさしいわね~』

『これぐらい思いやってあげないとね』

 万梨亜の席から近い場所に座っている彼女達は、わざと聞かせて万梨亜の顔色を伺っている。

 泣いてしまえ。

 辛そうにしろ。

 ……だから万梨亜は顔から表情を消す。自分は平気、何を言われても何も感じない。

 それを見て二人はこそこそと万梨亜を批難する。

『この間のリレーでビリだったの、あの子のせいなのよね』

『その時も平気な顔して笑ってたのよ、最低。どういう性格してるんだろ』

 気にしてはならない。表情を変えたら負けてしまう。

『なんであんな子がこの学校に通えるのかしらね』

『見てよあのださい髪形。あの子やあの子の机に触ったら汚いわね。菌がつくから触らないようにしようっと』

 くすくすと笑う声に耐えられなくて、万梨亜は教室を飛び出す。そして人がいない二棟の三階に移動する。そこには午前中誰もいないので、悪口や冷たい視線を浴びずに済む安全な場所だった。

 でもそれを知った万梨亜をいじめる男子児童のグループが、幼稚な罠を張った。

 ある休み時間、万梨亜は東野に職員室に呼ばれた。東野は手に小さな漢字辞典を持っていた。東野の机の傍に、万梨亜をいじめる主犯格の大滝という男子児童が居て万梨亜を睨んでいる。大滝の父親は県会議員、祖父は国会議員という政治家の家系だった。背後には彼の取り巻きが数人居た。

 東野は罪人を裁く裁判官の様に、万梨亜に鋭い声を投げつけた。

『……大滝君の辞書を、二棟の三階から先生に落としたのは貴女ね?』

『知りません』

 何の事だか万梨亜にはわからなかった。

『こいつ、俺がいつも注意するのが気に入らなくてやったんだ』

 注意? ばい菌がうつるから寄るなとか、貧乏人は何も言うなと言う事が? 万梨亜は呆れた。

『……してない』

『でも今日の二時間目の休み時間、お前どこに居たんだよ? その時に先生に向かって落ちてきたんだぜその辞典が』

『駐車場に置いてある忘れ物を取りに行く最中だったわ。まるで狙ったように落ちて来たのよ。いつも貴女は二棟の三階で悪い事をしているそうね』

『…………!』

 

 万梨亜は黙り込む。それを見て東野は万梨亜が肯定したと思ったのだろう、追求する言葉を強めた。

『なんでうそをつくの。しかも人のものを盗んで先生にこんなものを落とすなんてどういうつもり? 怪我をするところだったのよ!』

 東野の後ろに居る大滝達はにやにや笑っている。それで万梨亜は彼らが仕組んだ事だと分かった。だが友達が一人もいない万梨亜は誰の弁護も受ける事ができない。

『この辞典は高価なものなのよ? 貴女にはわからないでしょうけど』

 ああ、やっぱりこの教師は味方ではない。万梨亜は絶望してもう何も言わない事に決めた。言ったところでこの種の人間は考えを改める事などない。無表情な万梨亜の顔がふてぶてしい態度に見えたのか、東野が厳しく言った。

『あやまりなさい。悪い事をしたのだから!』

 何故謝らないといけないのだろう。お金持ちが正義で選民意識がバリバリの態度。嘘も見抜けないこの教師に命令など何故されるのだろう。眼を上げた万梨亜に東野は怒った。

『悪い事をしたら謝るものです!』

 大滝達がそうだそうだと囃し立てる。気づくと職員室は静まりかえり、皆万梨亜を見ている。誰も何も言わない。日ごろのストレスを、痛ぶられる万梨亜を見る事で発散し楽しんでいるのだ。万梨亜は失望した。世の中にはこんな人間しかいない。皆自分を傷つける。そしていつも万梨亜は全てを諦めて投げやりになるのだった。

『…………でした』

『聞こえないわ』

『すみませんでした』

 それは敗北宣言以外の何者でもない。大滝達の顔に喜色が浮かぶ。してやったりと思っているのだ。

『もう二度としてはいけないわよ。わかった? 戸田さん』

『……はい』

 胸に鉛の重さを抱え込み万梨亜は職員室を出る。後から出てきた大滝が万梨亜を背後から突き飛ばした。

『ばーか』

『泥棒! ドブス!』

『お前なんか警察に捕まっちまえばいいんだよー。ギャハハハ』

 げらげら笑いながら、廊下にしりもちをついた万梨亜にいやな言葉を吐いて、大滝達は走り去っていった。

 泣くものか。悲しそうにするものか。万梨亜は再び表情を凍りつかせる。周囲の児童は万梨亜を面白そうに見ている。あんな輩を喜ばせてたまるものか。自分はあんな人間にはならないし、なりたくもない。

『あの子、またマリアちゃんに告げ口するのかしら?』

『さいってー!』

 それ以来、消えた備品があると皆万梨亜のせいにされた。一度そういう事があると、皆そういう目で万梨亜を見る。

『万梨亜はそんな事しないわ!』

 マリアはそんな万梨亜をかばった。だがそれがさらに苛めに拍車を掛け、万梨亜はますますひどい境遇に陥っていく。

 万梨亜の母はそれを聞き、ものさしで容赦なく全身を叩いて万梨亜を折檻した。叩かれて血が流れ、青あざが出来て腫れあがっても誰も何も言わない。近所はマリアの父親を恐れ、学校は有名な私立の学校で面子を保つ事に必死で、傷ついた万梨亜を見て見ぬふりをする。

 仕方がない、自分は彼らと違って劣っている人間なのだから……。大人の万梨亜は暗闇の中で何もかも諦めて目を閉じた。このまま空気になって消えてしまえたら、誰も自分を傷つける事はできないのにと思う。お願いだからそっとしておいて欲しい、触らないで欲しい。

 

 傷つけられるくらいなら、自分はひとりぼっちでいい。  

 

 暗闇の中で座り込んでいる万梨亜の目の前に、銀色の光が差してジュリアスが現われた。

『本当に味方はいなかったのか? 居たはずのものをそなたが突き放してしまったのではないか?』

 するとジュリアスの横にルキフェルが現れる。

『居るはずがないものを居ると言う。残酷なものだ』

 ルキフェルは万梨亜の頭を優しく撫でる。

『可哀想に可哀想に……』

 見上げると、ジュリアスは冷ややかな青い瞳で万梨亜を見下ろしていた。万梨亜は軽蔑されたのだと思い、顔を伏せる。そんな万梨亜をルキフェルは抱き寄せてくれた。

『万梨亜、我の元へ居ればいい。そなたを傷つけるもの全てから護ってやろう。』

 そう……闇に沈んでいれば誰も傷つけない。万梨亜は温かなルキフェルの黒い服に包まれて安心する。眼を閉じよう。眠ってしまえばいい。これは夢。夢の中なのだから自分の好きにさせて欲しい。

『万梨亜』

 ジュリアスの声がルキフェルの衣に包まった外から聞こえる。その声はとても厳しい声だった。

『傷つかない心があると思うのか』

『正論を述べても万梨亜は助けられぬ。傷ついた心に酷な事を言うな』

 ルキフェルの声をジュリアスの声が押しのけた。

『余とて傷ついている。いまだに治らぬ。だが余は戦う。万梨亜……、そなたは余の為に生まれてきた女、そなたを手に入れる為ならどんな茨の中の宝石でも掴み取ろうぞ』

『さらに血を流せとは、愚かな事を言う』

『その傷を癒せるのは誰でもない、ましてや魔王でもない、他ならぬ自分自身だけだ』

 いきなり眼もくらむような青い光がジュリアスの身体からほとばしった。万梨亜を抱いていたルキフェルがかき消え、遠くで絶叫するルキフェルの声が響く。それも細くなってやがて消えた。

 ルキフェルは眠っている万梨亜の横で、両目に手を当てて呻いて苦しんでいた。

「くそ、忌々しい……あの半神め! ヘレネーめ、中途半端な魔力の奪い方をしているのではないのか!」

 万梨亜の昔の記憶を探り出し、ルキフェルは万梨亜の心をより強く自分に向けさせようとしたのだが、ジュリアスが夢の中へ入り込んできて跳ね飛ばされてしまった。

 眼がようやく調子を取り戻すと、ルキフェルは万梨亜の左手薬指の指輪をとろうとした。だが肉体の一部と化している指輪は、呪文でも魔法でも絶対にとれない。今まで何度試みても取れなかった。いっそ切り落としてやろうかと思うが、それでは完全な魔力の石とならない。魔力の石は完全体の女の身体のみ力を発揮する。

「……もしくは神々の誰かが、やっているのかもしれぬ! 邪魔な輩よな」

 きりきりとルキフェルは歯をかみ締めた。万梨亜の顔は安らぎに満ちていて、不愉快極まりない

『万梨亜……、眼を開けよ』

 万梨亜は周囲がまぶしすぎて、とても目を開けていられない。

『万梨亜、大丈夫だ』

 温かな指先が万梨亜の両頬を捉えた。先ほどとは打って変わった優しい声に、万梨亜がおそるおそる眼を開くと、目の前に微笑むジュリアスがいた。

『ここは?』

『そなたの封印されていた心だ』

 太陽の光が優しい緑溢れる森の中に、いつのまにか万梨亜はジュリアスと立っていた。

『よくやった。万梨亜、眼を閉じていたらこのような美しさは見れなかったのだぞ。光も緑も余も、眼を開かねば見れなかった。拒絶されても拒絶するな、そなたが自分の中に逃げ込んだから、幼いそなたは一人ぼっちになったのだ。あきらめずに訴えれば必ず誰かが友として現われてくれたであろうに』

『……王子』

『逃げなければ、この美しい世界はそなたの前に開かれる。そなたはこの世を掴む事ができるのだ……』

 胸に飛び込んだ万梨亜を、ジュリアスは優しく抱きしめた……。

「…………万梨亜」

 ジュリアスは静かに寝台で目覚めた。穏やかな昼下がり、外でニケが庭で鶏と遊びながらジュリアスを警護している。テーレマコスは畑に行ったらしい。

 あれから一月経ち、起き上がって歩けるまでに復活した。普通の人間ではまだ起き上がるのが精一杯なところだが、神の血を引いているジュリアスは人間よりも回復が早い。

「万梨亜、そなたはなんと過酷なところにいるのだ」

 自分の左手薬指の指輪を眺めてジュリアスはひとりごちた。そして静かに微笑み、そっとその指輪に口付け頬ずりする。

「でもそなたは余を愛してくれているのだな。この指輪が外れぬ限り余はそなたに愛されていると自覚できる……。愛が潰えぬ限り決して外れないのだから」

 庭に出るとニケが走り寄ってきて破顔した。ジュリアスはニケを労ってから太陽を仰いだ。今日はとても良い天気で、青空に雲が少しあるくらいだった。大きな石に腰掛けたジュリアスに、ニケが中庭にある井戸から汲んできた水をうやうやしく差し出した。ジュリアスは礼を言って木のコップから水を静かに飲み干していく。

「……この太陽は魔界にも陽を投げかけているのであろうな」

「はい、次元は違いますけどね」

「そうか……、ならば万梨亜も大丈夫であろうな」

「そうですかねえ、淫魔のサティロスの屋敷に行かされてましたよ」

 ジュリアスは、ふっと笑った。

「魔王も必死な事よ……。いくら肉欲に沈めようとしても、それに堕ちる万梨亜ではないわ」

「でも魔王様に、毎夜抱かれては声をあげてるって女官が言っておりました」

「何事も過ぎれば嫌になる。そういうものだ」

「ジュリアス様は嫌じゃないんですか? 妃が他の男に……」

「嫌に決まっている」

 木で出来たコップを握りつぶしそうになり、ジュリアスは止めた。これを作ったテーレマコスが悲しむのを見たくない。

「心が動かねばそれでよいと、今は思う事にしよう」

「変わってますねえ王子は。なんかイマイチ愛を感じないんですよねえ」

 ジュリアスはニケの眉間を小突いた。結構痛かったニケは両手で眉間をさすりながら文句を言った。

「もー、痛いですよ」

「ぎゃあぎゃあ叫んだ方が深く愛しているというのか? 浅い川ほど水しぶきがあがり深い川ほど流れは静かだなのだぞ。余は今はそのように万梨亜を愛している」

「そんなもんですかねえ」

「そのようなものだ。お前には当てはまるまいが」

 くっと笑ったジュリアスは、肩に降りかかる髪を後ろに流した。そして人差し指で太陽を指す。

「今、万梨亜の太陽に海王星がかかっている。太陽は己自身、海王星は幻と病と夢。そしてその海王星の宮は十二番目の隠された部屋、双魚宮(そうぎょきゅう)。今の万梨亜の試練は運命がさだめしものだ。逃げなければ勝利できよう」

「はあ……」

 ニケは占いにも星の運行にもとんと興味がないので、うなずくのみだ。

「俺はどうですかねえ」

「そなたは生まれがよくわからんので占えぬ」

「そんなあ! ジュリアス様の意地悪!」

 ははと笑い、ジュリアスは言った。

「そなたの生は軽やかさに満ちたものだ。思うが侭に生きる事だな」

「お気楽人生ですか?」

「簡単に言うな。できぬ者のほうが多いのだぞ」

 ニケはご機嫌になり黒馬に変身した。そして見回りと称して駆け出していく。それをまぶしそうに見やりながらジュリアスはつぶやいた。

「うらやましい事だ……。幸運の星の下へ生まれた者は、迷いにも苦しみにも振り回されぬ」

 ジュリアスは丘を越えたはるか向こうにある、ディフィールの王宮へ鋭い視線を送った。

「どちらにせよ、戦うほかはない」

 鳥が一羽、近くの木から羽ばたいていった。

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