ディフィールの銀の鏡 第20話

 朝から万梨亜は胸が熱かった。

 魔力の石が暴れまわっているようで平静を保つのに苦労する。相変わらず黄金の枷は万梨亜の足首につけられたままで、動くたびにじゃらじゃらと音を立てた。黒に赤いレースで縁取りされた婚礼の衣装を、侍女達が手際よく万梨亜に着せていく。

 そんな自分を、万梨亜は他人事のように見ていた。

 しかし黒に金色の縁取りが華麗に施された衣装を着たルキフェルが部屋に現れて、万梨亜はこれが現実である事を知る。ルキフェルはソファにどさりと腰を掛けると、肘掛に頬杖をつきながら、着飾られていく万梨亜を楽しそうに見ていた。

 侍女達は万梨亜に輝く宝石のネックレスをつけて支度を終え、ルキフェルに頭を下げて部屋を出て行った。

「今日もお前は綺麗だな。この場で抱きたいぐらいだ」

「それは……」

 含み笑いをしながらルキフェルが近づいてきて、眼を伏せて震えている万梨亜の唇を奪った。瞬間、胸の石が熱くなり万梨亜は呻いてうずくまろうとしたが、ルキフェルの腕が彼女を抱きかかえてそれを阻止した。

「もうすぐ世界は我らのものになる」

 ルキフェルが万梨亜の左胸に手をかざすと、魔力の石が赤い光を放ち部屋が赤く染まった。同時に万梨亜の目も赤く燃えた。

 部屋の扉を外側からノックの音が響き、兵が言った。

「魔王様、万梨亜様、お時間です」

 ルキフェルは万梨亜の胸から手をはずし、ほっそりと白い右手を取った。赤い光が消え、同時にどんなに外そうと試みてもはずれなかった黄金の枷が足首から外れた。重いドレスを引きずりながら、万梨亜はルキフェルに連れられて部屋を出た。

 一定の距離に兵が立つ廊下を万梨亜はルキフェルと共に進んだ。誰に言われなくても判る……自分が破滅に向かって歩いているのだという事を。

 部屋は全て開け放たれていて、その中から着飾った魔族達が万梨亜達を見ている。大広間まで続く廊下を歩きながら、万梨亜はどんどん自分が赤く染まっていく気がした。こんなに沢山の魔族を今まで万梨亜は見た事がない。

 ついに式を挙げる大広間までたどり着いた。華麗な文様の両扉が内側から開かれ、今まで以上のざわめきが万梨亜を襲った。

 ディフィールよりも豪華な紋様が織り込まれている赤い絨毯が、長く真っ直ぐ伸びていた。その先には誰も座っていない豪華な椅子が二脚置かれている。あの椅子に魔王と一緒に座るのだ。

 大勢の視線が突き刺さり、似たような事があったのを万梨亜は思い出した。ディフィールにケニオンからの貢物として王宮の大広間に連れてこられた時も、こんな風に赤い絨毯があって沢山の視線があった……。

 胸の石がまた熱くなった。今日はおかしいと思いながら万梨亜は熱をこらえた。

 

 玉座への階段を上ると、后の冠が載せられた宝石箱を捧げ持った魔族が、ルキフェルへ近づいてきた。その魔族を見てルキフェルが僅かに眉を潜める。

「……ヘレネーが何故この役をしない。兄弟姉妹がする役目を何故お前がしているのだ」

 箱を捧げ持つ魔族は、恐れおののくように頭を下げて震える声で言った。

「おそれながらヘレネー様は、お身体の様子が優れず臥せっておいでとの事です。それで私がこの大役を仰せつかりました」

「臥せっている? 何ゆえだ」

 魔族達も異変に気づいてざわめきがひどくなった。万梨亜はその中で胸の石の熱さに耐え切れず蹲った。ルキフェルが万梨亜に振り向く。

「いかがした……万……」

 伸ばされたその手は、万梨亜に触れる事はできなかった。

 いつの間にか見えない壁が万梨亜の前にできていて、それがルキフェルの手を弾いたからだ。不思議に思った万梨亜が熱に浮かされた目で見上げると、銀の髪がそれを邪魔をした。

「汚い手で、余の后に触れるでない」

 万梨亜は懐かしいその涼やかな声にさらに顔を上に上げた。目の前に万梨亜に背を向けて立っているのは、ジュリアスだった。

 魔族達から声が上がり大騒ぎになった。当然だろう魔王の恋敵が魔界に、それも魔王の后を迎えようという中に現れたのだから。

 ルキフェルは挑戦的に笑った。

「ほう、これはこれは人間と神との間の子のジュリアス殿か。気が触れたのか? この場に単身で乗り込んでくるとは」

 ジュリアスの凛とした声がそれに応えた。

「そなたの腐った目で見れば単身に見えような。ああ、ヘレネーが来れぬ理由を言ってやろう。あれは余との戦いに敗れて身体を痛めている。それ故この場に来れないのだ」

「なんだと……」

 ルキフェルの身体中から赤い光が発せられた。風が沸き起こり、万梨亜はその風の中でますます蹲くまった。だがジュリアスはその中でも髪をゆらしながら、ルキフェルと対峙していた。

「飛んで火にいるという人間界の諺通りよな。この陰の気が最大に満ちようとしている我の魔界に来て、命を失うとは思わぬのか」

「……それがどうした」

「万梨亜の魔力の石は我が操っている。そしてその威力たるやそなたの想像を超えていよう」

「……なら、使ってみるがいい」

 愚かしい挑発と言えた。万梨亜はぎくりとしてとっさに胸を手で押さえたが、ルキフェルに操られている魔力の石が、万梨亜の言う事を聞くわけがなかった。

「う……ああああっ!」

 火の様に魔力の石が熱くなり、万梨亜は痛みと熱さで悲鳴をあげて倒れた。魔力の暴発が起こってあたり一面を破壊し始めたため、魔族達が大広間を逃げ惑う中、万梨亜はルキフェルによって空中に浮き上がらされ、その中で胸の熱さに歯を食いしばった。

 その万梨亜に、ルキフェルが甘い声で恐ろしい事を口にした。

「無理やり奪われ、結婚させられたジュリアスを屠る機会ぞ。ついでにそなたの憎しみで、そなたを苛んだ異世界をも滅ぼすがいい」

 万梨亜は襲い掛かってくるルキフェルの思念と声が耐え難く、無駄だと知りつつも懸命に耳を塞いで頭を左右に振った。今、あんなに憎らしく思った人達を思い出しても、自分を裏切ったジュリアスを目の前にしていても、消えろ滅びてしまえとは到底思えないのだ。

 あの強い怒りはただの勢いだったのだろうか。

 霞む目で下に見えるジュリアスを見て、憎む心がますます弱くなっていくのを自覚した。マリアと交わっていたジュリアスの面影はなく、今のジュリアスはまるで聖者のように落ち着き、清らかな雰囲気に包まれていた。

 それがいっそうルキフェルに植えつけられた邪心を揺さぶって、万梨亜の心に何かを訴えかけてくるのだ。

 自分は弱すぎるのだと万梨亜は思ったが、即座にそれは違うともう一人の万梨亜が言う。陰の気が満ちていくのがわかるのに、万梨亜の心は悲鳴をあげてルキフェルに逆らった。

 ルキフェルが焦れて怒鳴った。

「もっと、もっと憎まないか万梨亜! そうせねばそなたに安寧は訪れぬのだぞ」

 魔力の石の燃えるような熱さに耐えながら、万梨亜は声を振り絞った。

「……無……理」

「何?」

 万梨亜は宙吊りの状態で、顔を両手で覆った。

「憎いけれど……、戸田万梨亜は復讐できるほど立派な人間じゃないから……」

 弱虫でゴミのような存在。それが自分だ。

 瞬間、胸の石から今まで以上の激痛が走った。ルキフェルがマリアを魔界に連れて来た時にしたように、右手を握り締めている。赤い目は怒りに燃えて、息をするのも苦しそうにしている万梨亜を睨んだ。

「そうさな、お前は魔力の石が無くば何の価値も無い! ならばその価値ある石を我にすべて捧げよ」

「ああああああああっ!」

 万梨亜の胸から血がにじみ、赤い光がいくつもの線を作って放射された。胸を破って魔力の石が引きずり出されようとしている。さすがに黙って見ていたジュリアスが動いた。

「お見通しだ、半端な神よっ」

 ルキフェルがジュリアスに左手で空気を切り裂いた。魔王の赤い魔力が襲い掛かったジュリアスは自らの青い魔力で防御したが、押され気味で苦しそうに唇を噛み締めた。

「く……っ」

「ははは、どうだジュリアス。愛する女の魔力の力で死ぬのも一興だろう。この半年間ずっと溜め込んでいたのだ」

 魔王は余裕の笑みを浮かべさらにその赤い光を強めた。見る間にジュリアスの青い光の壁が小さくなっていく。それなのにジュリアスの瞳は不思議に凪いでいた。

「……残念ながら、余はまだまだ死ぬ予定はない」

「たわごとが言えるのはいつまでかな? そら、ほころびが出ているぞ!」

 ジュリアスの腕や頬に閃光が走り、赤い血が流れた。その中でもジュリアスは動かずに青い魔力で対抗している。しかし圧倒的な魔力の差に、彼が魔王ルキフェルに敗れるのは時間の問題だった。

 万梨亜は激痛で気が遠くなる中、ジュリアスが前に言っていた事を思い出した。胸の中にある魔力の石は、万梨亜の命と直結していると言っていた。取り出されたら万梨亜は死ぬのだと……。

(もう……いい。それでかまわない。マリアは私がいなくなればいいと言っていたし、ジュリアスはマリアに心を移した……。ゴミはゴミらしく消えてしまえば……、それでいい)

 そして何故か笑いが小さく沸き起こった。

(王子は馬鹿だ。わざわざ殺されに来るなんて愚かすぎる……)

 胸の石が引き剥がされていく痛みがより強くなった。胸からはより多くの血液が流れ出し、押さえている万梨亜の両手を赤く濡らし始めた。空中で横倒しになっている万梨亜の意識は半場途切れかけていた。

 そして陰の気が最も満ちる、その時が来た。

 しかし聞こえたのはルキフェルの歓喜の声ではなく、怒りを多分に含んだ疑問の声だった。まるで糸が途切れるように、大広間を吹き荒れていた爆風も、ルキフェルが操っていた恐ろしい魔力もはたと止んで静まり返った。

 崩れた柱の欠片がカラカラと音を立てた。至る所で負傷している魔族達が呻いて、また死んだ魔族の下で助けを求めていた。騒ぎが治まったと見て、待機していた外の兵達がやっと大広間に入ってきた。

「どう言う事だこれは!」

 何故か唐突に、石を引きずり出そうとする力が万梨亜から消えた。胸から赤い光が消えさり、今度は青い光に変わっていく。それはジュリアスが放っている青い光とまったく同じものだった。

「有り得ぬ」

 ルキフェルが万梨亜の魔力の石を操ろうとしたが、それに魔力の石は反応しない。ジュリアスは空間の中から万梨亜を引き寄せ、半年振りに自分の妻を自分の胸へかき抱いた。

「陰が満ちれば陽に切り替わる。それだけの事。自然の摂理には人間も魔族も神々も逆らえぬ。そなたは今、陰の気を使いすぎた。よって勝った陽の気が万梨亜を支配している……。彼女の心はそなたの呪縛から離れ余に戻ってきた、この場ではそなたの負けだ」

「万梨亜を返せっ!」

 おびたたしい赤い光がルキフェルから襲い掛かるが、ジュリアスと万梨亜を包んでいる青い光の玉がそれを跳ね返した。自分の魔力をまともに受けたルキフェルの恐ろしい叫びが聞こえる中、万梨亜はぼんやりジュリアスを見上げた。胸から流れていた血は完全に止まり、痛みもだんだんと治まっている。

 ジュリアスがやさしい声で囁いた。

「万梨亜……。遅くなったがそなたを迎えに来た」

 万梨亜はジュリアスの腕から逃れようとした。しかし魔力はあれど、痛みに耐えつづけた身体は悲鳴を上げていて、虚脱状態になっている。万梨亜は零れ落ちる涙をそのままに、ジュリアスを睨んだ。

「王子など死んでしまえばいいと思ったのに。私を苛めた人間など、不幸になってしまえばいいと思ったのに……」

 万梨亜達は魔王の城から外に出て、どんどん空高く上っていく。やがて、誰もいない青い光に満ちた空間の中で上昇は止まった。

 ジュリアスが万梨亜の頬にキスをした。

「復讐などしたところでそなたは幸せにはなれぬ。憎しみを煽られて辛かったであろう……。美しいそなたが、」

 万梨亜は首を振る。

「ルキフェルとサティロスに散々好き放題されました。王子はマリアを抱いていたけど……」

 自分がより汚くなったと言いたい万梨亜に、ジュリアスは意地悪に微笑んで首を横に傾げた。

「ヘレネーに惚れ薬を飲まされた。でもお互い浮気したという事で、差し引きゼロというところか」

「……そんな簡単な事には思えません」

「簡単な事だ。どうにもならなかったのだから。そなたの世界で言う……そうだ、犬に噛まれたという事にしておけ」

「変な言葉をご存知ですね」

 くく、とジュリアスが笑った。清涼で暖かな気が満ちていて、万梨亜もそれに釣られてつい笑ってしまった。

「やはり万梨亜は、余の隣で幸せそうに笑っているほうが良い」

「…………」

 万梨亜は幸せな夢を見ていると思った。現実ではないのだこれは。そんな万梨亜にジュリアスがため息をついた。

「余が愛していると言っても、そなたはやはり余を受け入れがたいか」

「だって、王子は身分の高い方で、それに比べて私は……」

 まだ万梨亜は自分自身にも、他人から愛されるのにも自信がないのだ。魔界でルキフェルを相手に圧倒的な力を使えたのは、万梨亜がジュリアスを愛しているからだ。しかし、万梨亜は未だにジュリアスを信用していない。ジュリアスはかねてから考えていた事を実行する決意をした。

「もうよい」

「王子」

「これからそなたの心を修復する夢に入る。夢から醒めたら万梨亜、そなたの本心を聞きたい」

「夢……?」

「眠れ、万梨亜」

 両目に手を当てられ、万梨亜はジュリアスの胸の中で、目を閉じた……。

「万梨亜、起きろ」

 うるさいな……放って置いて欲しいと万梨亜がかたくなに目を閉じても、相手はしつこく言って身体をがんがんと揺さぶった。

「会社に遅刻するだろう?」

 ……男の声? 一人暮らしのはずなのに? 

 がばっと起き上がった万梨亜は、目の前の銀髪碧眼の綺麗な男に驚いて目を瞠った。

「あ、あ、あ、あなた誰よっ!」

 

 返ってきたのは軽い拳骨だった。男はネクタイを締めながら怒ったように万梨亜を見下ろした。

「さっき寝ぼけて廊下で転んだからって、記憶喪失の真似をするな。馬鹿」

「記憶喪失って……、本当に貴方なんか知らないよ? 誰なのよ貴方」

 綺麗な男は呆れながら言った。

「僕の名前はジュリオ。イタリア人で二十九歳。同じ会社に勤めていて、万梨亜に昨日プロポーズして婚約者になった男。それでいい?」

「は……い?」

 ジュリオは万梨亜の頬にキスをして、スーツの上着を着てかばんを持った。

「今日は現場に行かないといけないから先に行くよ。万梨亜、しっかりしてよ本当。じゃ、また会社でね」

「……はい」

 ぱたんとドアがしまり、万梨亜は頭を抱えた。

 

 恋人なんかいただろうか? 純一郎に手ひどく振られて、昨日マリアと婚約したのを知って……。会社の皆に送別会だからと騙されて……ひどい事されてそれからどうなっただろうか。

 …………あれ?

 左手の薬指に指輪が填まっている。こんなのいつしたっけと万梨亜は考え込んだ。なんだか記憶があいまいだ。やっぱり頭を打って記憶喪失なのか?

 部屋の電話が鳴り、受話器を取ってもしもしと言った途端に怒鳴り声が響いてきた。

『こらあっ遅刻だぞ、戸田! 早く出社してこーい!』

「はいいいっ。今行きます」

 その時に万梨亜は思い出した。自分はぼけすぎだ。ジュリオは勤め先の建築会社の一級建築士。自分はそこの事務で、昨日なんでかわからないがプロポーズされて、承諾したのだった。

 純一郎とマリアは結婚した。

 あれからもう三年も経っている。万梨亜はあの会社を辞めてすぐに今の建築会社に就職した。ちいさな会社なので女は万梨亜一人。男性ばかりの職場で最初は緊張したが、ジュリオを中心に皆優しくしてくれたので、何とかへまをやらずに仕事は順調だ。

「急がないとホント遅刻しそう!」

 万梨亜は大慌てで会社のスーツに着替えると、アパートのドアに鍵をかけて、会社へ急いだ。填めたばかりの左手薬指の指輪は皆に冷やかされるだろう。

 

 朝日が強く輝いている人ごみの中を、万梨亜は走った。

 彼女が走った後のアーケードに白い雪が一片舞い落ち、青い光が火花散らしながら弾けた。そして遙か後方のビルの影に、呪うような無気味な声と赤黒い闇が迫っている……。

【第一章 ディフィール 完】

web拍手 by FC2