ディフィールの銀の鏡 第23話

 スッキリとして明るい株式会社バルダッサーレの応接室は、観葉植物や照明器具が適度な位置に配置されていて、とても感じが良い部屋だった。万梨亜はひどく場違いな所に居る感じがして、居心地がいいのに早く帰りたいとしか考えられなかった。

 バルダッサーレ・フォンダート社長は、万梨亜をちらと見ただけで、採用を決定し、さっさと別室へ行ってしまったのだった。履歴書もない万梨亜を即採用する会社とは一体どういう会社なのだろうという疑心だけが、万梨亜を埋め尽くしているのだった。

「良かったよ、即決で。君には分からないだろうけど、あれで父は人にうるさくてね。君が父のお眼鏡にかかってよかった。まあ、採用されて同然だと思うけど」

 ジュリオは笑顔で言って、書類を並べた。確かにこの人は良かっただろうが、踊らされている気分になるのはいいものではない。ひょっとして風俗の店に採用されたのではないのかとまで、万梨亜は思い始めた。

「明日は十時に来てね。さっそくいろいろ教えるから」

「はい……」

「そうそ、いちおう履歴書も書いてきて。いきなりヘッドハンティングで、いきなり採用だったから怪しい会社だと思ってるだろ? うちは建設会社だから。他の職種はやってないよ。女なら誰でもあっさり採用なんてありえないから。」

 内心を当てられて万梨亜はぎくりとした。ジュリオは長めの銀色の前髪をかきあげて、くすくす笑った。

「大丈夫、うちは小さいけどちゃんとした会社だからね。アダルトビデオなんて作ってないよ」

「私は……そこまでは……っ」

「図星だ?」

 万梨亜が顔を真っ赤にしていると、ジュリオは困ったように頭を傾げた。

「ま、明日仕事を始めたら嫌でも分かるよ。じゃあいろいろ説明するから聞いて」

「はい」

 まともな会社だとして、それはそれで万梨亜は不安になるのだった。ジュリオから福利厚生や社員規則の話を聞きながら、明日からの仕事を自分はきちんとできるのだろうかとか、カワサキハウスではろくな仕事についていなかったので、また足手まといになるのではと思ってしまう。

 だいたい住宅模型などやった事もない。

「……あまり多くは出せないけど、いいかな?」

 その言葉にはっとして、万梨亜はあらためて契約書の内容に目をやった。勤めていたカワサキハウスより多少は劣るが、高待遇だった。良過ぎるのではないかと思うぐらいだ。

「あの……、本当にいいんですか?」

「もちろん。もう採用だから。模型の手も欲しいけど事務の手も欲しいんだ。最近まで勤めていた人が結婚退職したから困ってたんだ。父はさっきも言ったけど、どれだけ実績があっても気に入らなかったら採用しなくてね。何人有望な人材を面接で落としたか……」

 どうやら猫の手も借りたいぐらい忙しいらしい。ともかくやれるだけやってみる気に万梨亜はなった。変な会社だったら辞めればいいだけの話だ。

「わかりました。私でよろしければ、よろしくお願いします」

 万梨亜が頭を下げると、ジュリオも同じように頭を下げた。

 

「とりあえずこれらに記入してくれる?」

「はい」

 万梨亜が出された契約書に住所を書き始めると、ジュリオが覗き込みながらへえと言った。

「僕の住んでいるマンションの近くだな。奇遇だ」

「……もしかして、あの茶色いレンガみたいな?」

「当たり、父さんの設計なんだよ。部屋は別だけど同じマンションに住んでるんだ」

「はあ……」

 それは万梨亜の小さなアパートの近くに立っている、なんだかいかにも高級そうなマンションの事だった。万梨亜はそこを通り過ぎるたびに、どんな人間が住んでいるのだろう、おそらく別世界の人間だろうと思っていたが、なるほど、これほどの美形で父親が有名な建築家なら別世界の人間だ。

「君さえよければ会社で借り上げて、住む事もできるよ」

「?」

「マンションに。そのほうが僕もうれしいけど」

 何がうれしいのか分からなかったが、万梨亜はすぐ辞退した。今のアパートは人のいい大家のおばさんとの交流が心地いいので、離れたいとは思わない。

 帰りは近くだからと言って、ジュリオが強引に自分の車へ万梨亜を乗せた。万梨亜は乗り物酔いをするので自動車に乗るのは好きではない。だが上司になった人間に逆らえず(一応係長だ)、やむなく乗ったのだが、車が走り出してからは乗ってよかったと思い直した。ジュリオの運転が丁寧で上手なせいもあったが、人気車のクラウンアスリートの乗り心地が最高に良い。がたがた道が続くアパートまでの道のりを、すいすいと走っていくのが気持ち良い位だった。

「もうすぐ着くよ」

「はい」

 ちらりと見る横顔のジュリオは、やっぱりとても綺麗だった。ジュリオが視線に気づいてちらりと見たので、万梨亜が慌てて目を前方に逸らした時、何かが一瞬彼に重なった気がした。

 青い光の中で誰かが立って、何かを自分に言っている。

 その人物はジュリオと同じものを持っていて、自分にとってひどく重要な位置に居たような気がする。そこまで考えて万梨亜は目を瞑った。

(馬鹿ね、初対面の人に何があるっていうの……)

「!」

 

 車が唐突に止まった。そこはまだアパートから少し離れた場所で、万梨亜はジュリオがアパートの住人のうわさにならないように気を使ってくれたのだろうかと思い、車を降りようとした。しかし、ジュリオの手が万梨亜の右腕を抑えた。

「……君のアパートの前にパトカーが停まっているけど、事件かなんかじゃないかな?」

 見ると、大家の中年の女と警察官二人が、万梨亜の部屋の前で話をしていた。大家は万梨亜に気づき、慌てたように手招きした。警察官が万梨亜をじろりと一瞥した。

「あなたがこちらの部屋に住んでいらっしゃる方ですか? 戸田万梨亜さんご本人でよろしいでしょうか?」

「はい……」

 硬質な感じのする警察官の声が、万梨亜を緊張させた。警察官は手帳を見せると万梨亜に職務質問した。もう一人の警察官が、小さなノートパソコンのキーを打ちはじめた。

「この部屋を最後に出たのはいつですか?」

「えっと……夕方の十八時三十分過ぎです」

「どちらに行かれていたんですか?」

「駅前と、えっと……」

 万梨亜が言いよどんでいると、ジュリオが代わりに答えた。

「私の会社へ面接に来ていました」

「貴方は?」

「バルダッサーレ株式会社に勤めている、ジュリオ・フォンダートです」

 ジュリオが差し出した名刺を見て、警察官は、ああと言った。

「あの美術館の……。面接という事は、ずっと彼女と一緒だったんですか?」

「十九時以降はそうです」

 警察官は私とジュリオを交互に見ながら、頷いた。

「この部屋に空き巣が入りました。通報があったのは午後二十時八分です。この大家の女性が集金に訪れた際に、誰もいないのに鍵が開いているのを不審に思って入った所、部屋の中が荒らされている事に気づいたのだそうです。あなたが出た十八時三十分から二十時過ぎの間の犯行だと思われますが……」

「修繕費の集金に来たら、こんな有様だったのよ」

 大家が気の毒そうに言った。彼女は万梨亜が天涯孤独の身の上だと知っている。そういう目で見ているから、万梨亜が気の毒でならないのだろう。

「あの、部屋に入ってもいいですか?」

「もちろんです。何かなくなっているものがあればお知らせください」

 警察官が万梨亜の部屋のドアを開けた。照明を点けて部屋に入った万梨亜は絶句した。頭が真っ白になるとはこの事だろう。

「……これはひどい」

 万梨亜の後から部屋に入ってジュリオが、背後で呻いた。

 部屋の中の引き出しという引き出しがすべて引き出され、中身が床一面にぶちまけられている。押入れの中に整頓されて入っていたものも、めちゃくちゃになっていた。服も本も日用品もゴミも一緒くただ。台所も荒らされていて、食器が割れて散らばっている。冷蔵庫は開けっ放しになっていて、ケチャップや食べ物がその辺に飛び散っていた。

 万梨亜はたんすの中に入れておいた、今月分の生活費の現金と通帳がなくなっている事に気づいた。そして母親の形見の宝飾品もなくなっている。

「窃盗目的だったようですね。他に無くなっている物は?」

 警察官がノートパソコンに入力していく中、他には何も取られていない事を万梨亜は確認した。万梨亜はもともと物をおかない主義なので、全て確認するのにそう時間は要さなかった。

「今日は両隣の部屋の住人もまだ外出中で、空き巣が入って物音を立てても気づかれる事はなかったようです。そういう事を見越して入ったんでしょうね」

「そうですか……」

「よくあるんですよ。思ったようなものが盗れないと、こんなふうに部屋をむちゃくちゃにするんです」

 あまりのひどさに万梨亜は落ち込んだ。こんな状態ではしばらくとても住めそうもない。そんな万梨亜を大家が気遣った。

「もっと早くに集金に来ていたら、空き巣に気づけたかもしれないのに、ごめんね万梨亜ちゃん」

「いえ、鉢合わせになったりしたら……大変だったと思うので」

「そうだけどね、でも鍵が壊されているから今日はここに居るのは無理だよ。誰か泊めてくれそうな知り合いはいるかい?」

 いきなりは無理だ。万梨亜は困ってしまった。

「うちの社員ですから、僕がなんとかしましょう。幸い建設会社ですからつてもありますし」

 突然そんな事を言い出したジュリオに万梨亜はぎょっとした。だが警察官も大家もなんの疑問も顔にせずにうなずいた。

「でも、あの……」

「大丈夫、君はなんの心配もしないで」

「は……あ?」

 なんだかよくわからないまま、万梨亜は警察署に連れて行かれ、事情徴収を受けた。最悪な事に通帳の預金はすべて引き出されてしまっているらしい。暗証番号は分かり難いものにしていたのに、どうやって調べたのだろうと万梨亜は気味が悪かった。銀行のATMの防犯カメラに犯人と思われる男が映っていたらしいが、サングラスに深く被った帽子、手には黒い手袋をしている、という、これと言った特徴がない男という情報しか得られなかったらしい。

 たっぷり疲れる頃には夜の二十三時になっていた。警察官は犯人が見つかり次第会社のほうへ電話をすると言って、やっと万梨亜を解放してくれた。

 とんでもない一日だった。踏んだり蹴ったりとはこの事かもしれない。苛めつくされたうえ、マリアを失い、住んでいる部屋も少ない財産も失うとは。職がなければもっと万梨亜は落ち込んでいただろう。。

「とても疲れたね」

 万梨亜はハッとして顔をあげた。

「いえ、あの、フォンダートさんもお疲れ様でした。つきあわせてしまって申し訳ありません」

「大丈夫、気にしないで。部屋に入ったらゆっくりしてね」

「部屋って……」

 ジュリオの車の行く先は、やっぱり彼のマンションだった。地下駐車場に車を止めたジュリオが降りようとしない万梨亜をからかった。

「馬鹿だな、僕が君に何かしようとしてると思ってるの?」

「それは思ってませんけど、貴方の恋人さんに悪いし」

「そんなものはいないから安心してくれていいよ」

「いえ、とにかく……その」

 あの会社の片隅にでもいいので、寝起きさせてもらえないだろうか。万梨亜がそう言うと、ジュリオは女の子が会社に寝泊りなんてとんでもないと言った。

「人の好意は受けるべきだよ。さ、降りて。夕食もまだなんだから」

 万梨亜はしぶしぶ車から降りて、ジュリオの後ろに続いてエレベーターに乗った。今日出会ったばかりの男の部屋に行くのはどうも気がめいる。だが、お金も家も無い今は、ジュリオの好意に甘えるしかなかった。

 三階の角部屋がジュリオの部屋だった。中は広い4LDKで、白い壁が目に少し眩しい。会社内と同じように観葉植物が置かれた室内はきちんと片付いていた。

「君はここにしばらく住んだらいいよ」

 ジュリオが微笑みながら、ひとつの部屋のドアを開けた。簡素な室内はシングルベッドと、小さなローテーブルが置いてあるだけだった。

「……ありがとうございます」

「僕は夕食を作るから、君はシャワーでも、あ、着替えがないか……。ちょっと待ってて、洋服のリサイクルショップの友達がここに住んでるからもらってくる」

「でも」

「着替えが無いと困るだろ? 気になるんなら給料から天引きするから。君は疲れてるだろうから来なくていいよ」

 ジュリオはあわただしく玄関からまた出て行った。

 万梨亜はバッグから携帯を取り出して開いた。やっぱり男性と同じ部屋に住むのはいかがなものかと思うのだ。高校時代からの友人の一人、三輪奈緒の電話番号を表示すると、偶然にも本人から電話がかかってきた。

「もしもし」

『万梨亜! あなた空き巣に入られたんですって? さっき寄ったら大家さんにそう言われてびっくりよ。今どこにいるの』

 奈緒は深夜までのバイトをしているので、こんな夜遅い時間にアパートに訪れたのだろう。大家にまた迷惑をかけたなと万梨亜は気が重くなった。

「……会社の上司のアパート」

『ええ? まさか例の専務じゃ』

 万梨亜はまだ誰にも純一郎の事をまだ話していなかった。会社を辞めた事も。理由を聞いたら正義感の強い彼女の事だから、専務やマリアや元同僚に何をするかわからない。だから彼女には、いつも会社は普通に勤めていると言っていた。

「違うわ、第一彼は上司じゃないし」

『男じゃないでしょうね?』

「……男」

 電話の向こうで盛大にため息をついている奈緒に、万梨亜は事の成り行きを説明したが、やっぱりよくないのだと思った。

『止めときなって。そういう事情なら私の部屋に泊めたげるから直ぐ来なさいよ』

「いいの?」

『もう、万梨亜ってば。水臭さすぎよ。それに隙がありすぎ。絶対にその上司は下心があるって。あなた美人なんだから気をつけないと』

 おかしな事を奈緒は言う。自分のどこが美人だと言うのだろうか。マリアならともかく。 

「私なんか襲う人いないよ。……いじめならともかく」

『またそんな事を言う! マリアを基準にするの止めなって! あなたの方が綺麗だと私は今でも思ってるわよ。あんな性悪女、今にそれ相応の報いを受けるんだから』

 苛めの主犯はマリアだといつも奈緒は言っていた。だがどうしても信じられない。マリアはいつも自分に親切にしてくれていた。今でも信じたくは無い。

 苛められていた時いつも助けてくれたマリア。

 隠されて物が無い時、あげるよと微笑んで自分の物をくれたマリア。

 母親が亡くなった時はずっと一緒にいてくれた。

 あの優しさが嘘なわけがない。

 ……そうだ、きっと何かの間違いだ、そうに決まってる。

 マリアはいい人で自分の親友だ。純一郎との婚約は何か家の事情があったんだ。今度会って事情を聞こうと万梨亜は思いなおした。

「……マリアは……」

『とにかく今から来なさいよ、ね?』

「うん……、あ」

 するりと携帯電話が手のひらから抜けた。目で追うと、にっこりと微笑んでいるジュリオが万梨亜の背後に立っていた。

「すみませんが、万梨亜は僕の所に住む事に決定しておりますので、では」

『は? あなた誰? 万梨』

 奈緒が話している最中だと言うのに、ジュリオは電話を切ってしまった。ばつが悪い万梨亜は後ずさりして壁に背中を預けた。

 さっきまで無かった段ボール箱をジュリオは指差した。

「着替え、適当に見繕ってきたからシャワーを浴びたらそれを着て。ついでに夕食までもらってきたよ。グラタンだってさ、お腹空いたでしょう?」

「なんで……」

「ん?」

 ジュリオはそのままローテーブルに、もらってきたグラタンふた皿と万梨亜の携帯電話を置いた。

「何で私を助けてくれるの?」

「そんな事今更聞く? にぶいね」

「……?」

 くすりと微笑むジュリオの青い目には、なにか熱いものがたゆっていた。万梨亜はその色が怖くなって、部屋の外に出ようとして右手を掴まれた。

「さっき、ホストとどうなっても構わないって態度だったくせに、やっぱり男が怖いんだ?」

「だってあっちは商売だし……」

「甘いね、どう見たってあいつらは万梨亜をモノにしそうな雰囲気だったよ。さしずめ酒でも飲ませて、ホテルに連れ込もうって魂胆だったんじゃないかな」

「……別にそれでも良かったわ。もう二度と会わないんだから。一夜限りの遊びでしょ」

 身体が震えるのに万梨亜は強がった。本当は好きでもない男に触られるなんて冗談じゃない。でも今日のあの時は投げやりになっていた。本当に自分を破壊してしまいたいと思っていた。皆に疎まれれる自分など、ぼろぼろになってしまえばいいと。

 自分は馬鹿だ。マリアがいじめるわけがないのに……。

 熱い塊が喉元までせり上がり、万梨亜はそれを懸命に飲み込んだ。

「……そんな目を見たら、放っておけない」

 右腕を引っ張られた万梨亜は、そのままジュリオに抱きしめられた。抱き込まれた万梨亜は、その腕を覚えているとやっぱり思った。初対面なのだから絶対そんなはずがないと思うのだが、やっぱり知っている……。

 一体どうなっているのだろうか。

「違う会社だったけど、ずっと気になってた」

 耳元で甘く囁かれた声に、万梨亜の身体の芯が熱く疼いた。背中に回された手がゆっくりと滑って腰に回されていく。さすがにこの雰囲気は困ると思いながら、万梨亜は身体を捩らせた。

「フォンダートさ……」

「好きだから、強引にここまで連れてきた、万梨亜……」

 ジュリオの青い目に万梨亜は吸い寄せられた。この青い輝きを絶対自分は知っている。でもそれが、いつどこでだったかがどうしても思い出せない。ゆっくりと瞬きをしたその目が万梨亜に近づいてきた。

「ん」

 重なる唇を万梨亜は懐かしいと思った。そしてずっとそうしていたいとさえ思った。ジュリオは唇を離し、腰まで長い万梨亜の髪を羽根を撫でるように触った。

「さあ早くシャワーを浴びて着替えてきて。それから夜遅い食事にしよう」

 万梨亜は言われるままにバスルームに入った。シャワーの湯が白いタイルの床を流れていくのを眺めながら、何故ジュリオの言う事に逆らえないんだろうと、不思議に思いながら……。

 ジュリオが本当の姿でソファに横たわりながら、くすくす笑っているのを万梨亜は知らない。

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