ディフィールの銀の鏡 第26話

 ジュリオに化けていたジュリアスは本当の姿に戻って、一人、広いマンションのリビングのソファに腰掛けて洋酒を飲んでいた。

 彼はもともと酒を嗜むほうではない。飲める事は飲めるがそれほどおいしいと思わないのだ。それなのに今夜は酒を手放せそうもない。ジュリアスは自分の目に右手を当てて、苦く笑う。

「やはり見えぬ……」

 幼い頃から彼を助けてきた”真実の眼”。何故か今日の昼を過ぎあたりからいきなり使えなくなった。同時に魔力が急速な低下を見せ、今ではまったく普通の人間だ。魔力に満ちていない自分は、恐らくディフィールでは一番役に立たない。

 嫌な予感に囚われ、銀行から戻らない万梨亜を探し当てた時、その予感が的中した。この世界に居るはずのないデュレイス……、大島玲が居たのだ。

「このような事になるのなら、ディフィールにそのまま帰ればよかったかも知れぬ」

 弱気な事を思わず口にしたジュリアスは、自嘲した。それでは駄目なのだ、万梨亜が本来の万梨亜に戻らないと、すべては先に進まない。この世界へ誘う事は必要不可欠だった。だが誰かの悪意により災いが起こると判っていたのなら、何らかの対策は打ったのだ。

 万梨亜が魔王に攫われた時も、ヘレネーに魔力を奪われた時も、全てが見えていたから落ち着いていられた。だが今は先が全く見えない暗闇の中だ。

「余は一時的に魔王を倒して慢心したのか、それが災いと転じたのかも知れぬ」

 時間軸を万梨亜がディフィールに来る前に戻し、そこから自分を交えて、万梨亜にこの世界での心の傷を乗り越えさせようと思っていた。彼女はこちらの世界から、異世界のディフィールに逃げてきたのだ。逃げているままでは彼女は変われない。

 ニケやテーレマコスにも精神の奥深い意識を借りて、ここに住まわせている。彼らの協力も必要だ。一部を借りた所で彼らに大きなダメージも変化も無いだろうが、何らかの影響は受けるはずだ。

 不可思議なのはこの世界の創造主であるジュリアスの魔力が尽きたのに、世界が壊れる気配がまったく無い事だ。

「……この世界を誰にとって代わられたのか探る事もできぬ。魔力が尽きた今となってはディフィールに帰る手だても無い」

 災いがこの世界を覆うのは分かるのだが、それを跳ね除ける力を持たない自分をジュリアスは不安視している。自分一人なら良いのだが、その災いはおそらくジュリアスの愛している万梨亜に向かうからだ。それなのに万梨亜は、このマンションを出て行ってしまった。そしていくら愛を囁いても信じようとしない、なぜなら彼女が自分の価値を屑同然に思っているからだ。

 ディフィールでの記憶は邪魔だった。それがあっては彼女は再生できない。元の世界で、ただの人間であるジュリオ・フォンダートと愛し合って、初めて彼女は愛というものを実感する事ができるのだ。

 ジュリアスは長い銀髪を肩に流し、シャツのボタンをはずして前を寛げた。

「ただそこにいてくれるだけで、そなたの存在は余をやすらぎに満ちさせてくれるものを……だが…………」

 ───だが、今なら万梨亜の気持ちがとてもよく分かる。何も持たなくなったジュリアスは、自分の存在価値がわからなくなった。

 気だるげに酒を飲み続ける彼の前に赤い炎が空中に灯った。同時に部屋の照明が消え、月明かりになる。

「誰だ……」

 正体がわかりながらもジュリアスは聞いた。この邪な気配は並の人間が持てるものではない。

 赤い炎は部屋中に燃え広がり、その中から魔王ルキフェルと魔女ヘレネーが現れた。魔力を持たないジュリアスと違い、彼らは赤い魔力に満ちてジュリアスを圧倒した。

「おかしいのう、本当にあのジュリアスかえ? まったく普通の人間にしか思えぬ」

「今我らの手で葬ってやっても良いのだが」

 魔王ルキフェルが、扇を広げて微笑むヘレネーを斜め背後に従えて、立ち上がったジュリアスと対峙する。

「いかにしてこんなに早く魔力を取り戻した? いくらそなたたちでも半年はかかろうものを」

 くっとルキフェルが笑う。

「純粋な魔族は神に並ぶ。半端な神のお前とは違うのだ。どうだ? 造り上げた世界を奪われた気持ちは?」

「そなた達がやったのか?」

 魔力のかけらもないジュリアスが、涼しい顔をしているのが気に入らないルキフェルは、いきなりジュリアスの首を右手で掴んで引きずりあげ、そのまま壁へ乱暴に押し付けた。衝撃が後頭部に走り、ジュリアスは歯を噛み締めて痛みに耐える。ルキフェルの右手から負の波動が流れ、ジュリアスは宙にぶら下がった状態でかすかに苦悶の表情を浮かべた。

「そうだ、我がやった。万梨亜に愛される自信を与えるのはお前でなくてもよい、他の男でも十分出来る、そうではないか? 何に生まれ変わろうが万梨亜は自分を選ぶ、そう思ったのがお前の失敗よ!」

「ぐ……っは……」

「お前が万梨亜に自信を取り戻させようとしたこの世界を、我が手に入れた。筋書きはこう変わる……、万梨亜は自信も愛も何もかもなくして、絶望の淵に至る……ふふふ」

「…………っ!」

 ぎりぎりと首を締め上げられたジュリアスは、睫を震わせながら目を閉じた。

「ここへは総仕上げに来ただけだ。万梨亜に関するお前の記憶を奪う」

「わらわ達は優しいであろ? なまじ余計な記憶があると、万梨亜が他の男に奪われていくのが辛くて堪らなくなるであろうから、今消してやるのじゃ」

 ヘレネーが妖艶に笑いながら扇を煽った。そしてふわりと宙に浮き、吊るし上げられているジュリアスの顔を覗きこむ。風が沸き起こり部屋が赤い炎で熱く焼けていった。

 汗に濡れ始めているジュリアスの額に、尖った爪が伸びているヘレネーの手が添えられた。赤い光が注ぎ込まれ、その邪な赤い気にジュリアスは呻いた。

「忘れてしまうがよい。そなたは今から誰も愛さぬ氷のような男じゃ。仕事はできるし信頼もあるが女なら誰とでも寝る男で、万梨亜のような大人しい女には何の魅力も感じぬ……」

「…………く……あっ」

 だらりとジュリアスの手が下がり、長い銀の髪が消えた。そしてルキフェルとヘレネーの姿が消えると同時に、ジュリオの姿に戻ったジュリアスは床に倒れ伏し、赤く燃えていた部屋は何もなかったかのように普通の部屋に戻った。

 横を向いて気を失っているジュリオの頬に、青く光る一片の雪が舞い落ちた。きらきらと輝くその雪は、すぐに溶けて消えていった……。

 翌日、万梨亜はいささか重い気分で会社へ向かった。ジュリオを拒否した昨日の出来事が頭から離れない。でもどうしても信じられないのだ、自分の何が彼を惹きつけるのか分からない。仮に今の自分が普通だとしても、惨めな過去がある人間とつながりを持ったりしたら、彼を貶めるのではないだろうか……。

「あ、戸田さん!」

 万梨亜の姿を見るなり、瑛が挨拶もなしに、何故か慌てて万梨亜を応接室に連れ込んだ。

「ど、どうしたんですか? 何か重大な事でも?」

「重大も重大。とんでもないよ」

 万梨亜は何かとんでもないミスをしたのだろうかと不安になった。だが瑛はそんなものではないと言い、心して聞くようにと暗い声を出した。

「……ジュリオさん、昨日どうも階段から落ちて頭を打ったらしいんだ……」

「ええっ? それで……」

 まさか打ち所が悪くて入院とか、頭の骨を折ったのだろうか。

「……怪我はたんこぶ位なんだけど」

「それなら大丈夫じゃないですか」

「ぜんぜん大丈夫じゃないんだよ! ジュリオさんは……」

 真剣な顔をして、何かを話そうとしている瑛の背後のドアが開いた。立っていたのはジュリオで、なんだやはり普通だと万梨亜は安心して、それでもいささか緊張気味に挨拶をした。

「ジュリオさん、おはようございます」

「……本当に居たんだ」

「は?」

 ぽかんとした万梨亜に何故かジュリオが舌打ちをした。そのジュリオの背後から慌てたような悠馬が現れ、ジュリオに言った。

「ぼけてる場合じゃないですってば! ジュリオさんがその万梨亜ちゃんをヘッドハンティングしてきたんですよ? ほら! 契約書にも貴方の印鑑あるし。履歴書にも押印したでしょ?」

「うそだろ……」

 ジュリオは書類を奪い取るとそれに眼を通しだした。そしてその契約書と履歴書を悠馬にポイと投げ返す。

「多分酒に酔ってる時にでも面接したんだな。父さんが仕組んだことだろ、迷惑極まりないよ。こんなろくに使えそうにない女、僕が採用するわけないだろ」

「ジュリオさん! 貴方はそんな事を言う人ではないでしょう!」

「自分のしでかした失敗は嫌いだね。馬鹿馬鹿しい」

 万梨亜は一体何が起こっているのか分からなかったが、ジュリオが万梨亜の事をすっかり忘れている事だけは分かった。それにしても恐ろしく性格が違うような気がする。悠馬がジュリオの袖を引っ張った。

「とにかく、今日は俺と一緒に現場行かないと。こんな事してたら時間が間に合いませんよ」

「そうだな、こんな茶番に付き合ってるわけにはいかない。瑛、お前にこの女任せるから。僕の仕事は触れさせるなよ」

「……ジュリオさん」

 

 瑛は、そのまま足早に出て行ったジュリオを見ていたが、やがてはっとしたように万梨亜に振り返った。

「ごめんね、あとで医者に行かせるから」

「……本当に重大な事件ですね……」

「今日は私の仕事を手伝ってもらうから、そのつもりで。それにしても……ジュリオさん、今日から住宅模型を万梨亜さんにやらせるとか言ってたのにな」

「ええ……」

 昨夜アパートを出る時、わざわざ念に押していたのを万梨亜は思い出しながら頷いた。よほどおかしな所を打ってしまったに違いない。しかし、万梨亜だけを忘れているはどういうわけなのだろうか。

 こんな事ならジュリオと一緒にマンションへ帰れば良かったのかも知れない。そうしたら階段から落ちるジュリオを助けられたかもしれないのだ……。

 それから数週間経った。

 ジュリオは何軒か脳神経外科を受診したが、結局どこも異常が見られず、そのまま万梨亜を忘れた状態が続いている。出会った時と印象が変わりすぎて、万梨亜を始め、悠馬も瑛も面食らっているようだ。だが仕事ぶりは変わらないので会社の仕事は順調だ。

「どこもおかしいところなんてないんだよ。いい加減に人をからかうのは止めろ」

 ジュリオは不機嫌そうに言いながら、万梨亜が作った書類に眼を通し、ため息をついて机に投げ出した。これは万梨亜を忘れてからのジュリオのくせだ。前の彼はこんなふうに書類を扱わなかった。

「二箇所もタイプミスがあるよ。本当に僕がヘッドハンティングしたんなら、もうちょっと優秀なはずなんだけどね」

 万梨亜はさっとその書類を手に取り眼を通す。ジュリオの言うとおり二箇所間違っている。

「すみません」

「本当にカワサキハウスに勤めてたの? あそこがこんなミスする人材を雇うとは思えないけど。案外、君クビになったんじゃない? 使えないってさ」

「すぐにやり直します」

 細く震える声で万梨亜が言うと、ジュリオはやれやれと首をすくめた。

「いちいちびくびくしないで欲しいね。僕が苛めているみたいだろ? ったく良い大人がめそめそしてみっともない」

「いくらなんでも言い過ぎですよジュリオさん。万梨亜ちゃん、まだここに来て間もないのに! 第一ジュリオさんはフェミニストじゃなかったですか?」

 めずらしく昼間に会社に居た悠馬が、ジュリオの言葉を聞きとがめて注意した。

「眼もくらむ様な美女ならなるけどね。この程度じゃ……」

「ジュリオさん!」

 聞いていられなくなった万梨亜は事務室を飛び出した。そしてそのまま階段を駆け上りビルの屋上まで行ってうずくまった。今日は雪が降ると天気予報が言っていたが、その予報どおり雪がコンクリートの床にうっすら積もっている。

 自分が美人じゃない事も、カワサキハウスに勤められるような才媛じゃない事も分かっている。悲しいのは、同じ人間が与えてくれた自信を潰していくのがやりきれなくて辛いからだ。ひょっとして笑顔の裏で今のように思っていたのかとさえ、勘ぐってしまう。

「ふ……うう……う……」

 泣いている万梨亜の背後に赤黒い影が近づいた。そしてそれはやがて万梨亜の全身を覆い始めた……。

 

 さすがに立ち直るには時間がかかり、万梨亜は事務室に帰りづらかった。だが帰らないわけにもいかず、重い足取りで歩いていた万梨亜はジュリオが誰かに話しているのを聞いた。

「わかってるよ、僕には利奈だけだって、うん、うん、今夜行くから」

「…………」

 携帯を切ったジュリオと万梨亜はもろに目が合った。

「何ぼーっとしてんの? 伝票も書類も溜まってるんだけど? あ、そうそ、カワサキハウスに書類持ってくの、君が代わりにやってくれるんだって?」

「はい……」

「頼りない返事だな。大丈夫なの?」

「勤めていた会社ですから」

「ふうん、それならいいけど」

 ジュリオはさっさと廊下を歩いて部屋に入っていく。

 本当にジュリオは変わってしまった。彼はもう、万梨亜がカワサキハウスでどんな目に遭っていても気にする事もないし、どんなに傷ついたとしても平気なのだろう。

 大きな鏡になんとも頼りない自分が映って、万梨亜ははっとした。

 こんな事ではいけない。いくらジュリオが自分を忘れてしまっても、仕事をないがしろにしてはいけない。どんなに嫌な思い出がある会社でも、仕事である以上は行かなければいけないのだ。

 部屋に入ると瑛が心配そうに様子を伺ってきたので、万梨亜は慌てて微笑んだ。ジュリオが机の上に置いてくれた、カワサキハウスへ渡す書類を封筒に入れてケースに入れると、行ってきますと言った。瑛は行ってらっしゃいと言ってくれたが、設計図を描いているジュリオは目も上げず、万梨亜を見もしなかった。

 カワサキハウスに着いた万梨亜は、受付で佐原に書類を渡したい旨を告げた。見知らぬ顔のその受付嬢はつい最近入社した人らしく、万梨亜を見ても笑顔で応対してくれた。そして佐原は今外出中だから待つようにと言い、近くの空いている部屋に案内した。今日この時間に行く事は連絡が行っていた筈なのに、この仕打ちだ。先が思いやられて万梨亜はため息をつくしかなかった。

 一時間程待たされた頃、佐原の代理で西ほのかという社員が書類を受け取りに来た。胸のネームプレートには佐原と同じく企画部とある。

「申し訳ありません、私のほうにも来客がありまして、お待たせする事になりました」

「いえ、中身をご確認いただけますか?」

 万梨亜が書類を差し出すと、西は中身を確認して確かにと言って受け取った。

 やはり廊下やロビーで出会う社員達は、ひそひそと万梨亜を見ては噂話をしている。自意識過剰だと言われても、これは事実だ。人はそんなに自分に注目していないと言うが、万梨亜には当てはまらない。悪意のまなざしに万梨亜はとても鋭敏で、違えた事等ほとんどない。

 佐原の仕打ちは堪えたが、彼に会わなくて済んだ事で喜んでもいる。ともかくまたしばらくは、ここには来なくてもいいのだ。しかし、もう少しで出口というところで、万梨亜は見覚えのある人間に声をかけられてギクリと立ち止まった。彼は意地悪ではないが別の意味で会いたくない……。

「戸田さん」

「……こ、こんにちは」

 イオバンクの大島だ。そう言えばここを出入りしていると言っていた。

「奇遇だね」

「……はい」

「そんなに緊張しなくても良いのに。あれから大丈夫だった?」

「……はい」

 まったく大丈夫ではなく最悪な事態だが、他社の人間にあれこれ伝える義務は無い。万梨亜は軽く頭を下げて大島の隣を通り過ぎた。大島が追いかけてくる気配はなく、万梨亜はホッとした。男の気まぐれに振り回されるのは沢山だ。

 腕時計を見ると、帰社予定の時刻を大幅に過ぎている。早く帰らないと未処理の仕事が溜まっているだろうと思い、万梨亜は足を速めた。

 ところが急いで帰った万梨亜を待っていたのは、妙に張り詰めた重苦しい空気だった。瑛が疑わしい視線を向けてくるので、なんだろうと万梨亜が思っていると、応接室から客を送り出して、事務室に戻ってきたジュリオに睨まれた。

「戸田さん、貴女、どこへ行ってた?」

 ジュリオは自分の椅子に座り、長い足を組んだ。万梨亜は言われている意味がわからず、棒のように彼の前に突っ立った。

「……カワサキハウスへ行っておりましたけども」

「佐原さんから苦情が来た。一時間以上待っているけど来ないって。書類は? 何も持っていないようだけど?」

「何をおっしゃっているのかわかりかねます。書類は佐原さんの代理だと言う、企画部の西さんとおっしゃる方にお渡ししました」

「佐原さんはずっとお待ちだったのに、なんで西なんて人が出てくるの?」

「私は一時間ほど待たされたんです。そこへ西さんという方が代理で……」

「いい加減にしろ!」

 ジュリオが声を荒げて怒鳴った。万梨亜は聞いた事もないジュリオの罵声に、胸にナイフが刺さったような衝撃を受けた。

「佐原さんがそんな事をするはずないだろう。彼は優秀な社員だ。これまでずっとそうだった」

「それでも私は確かに、西さんに……」

 泣きそうになるのを堪えて弁明する万梨亜を見かね、瑛が口を挟んだ。

「カワサキハウスの西さんという方に確認されては? 先ほどは佐原さんもその社員についてはおっしゃってませんでしたし、何か行き違いがあったのかもしれませんよ」

「……そうだね」

 ジュリオはぶっきらぼうに言い、受話器を手に取った。万梨亜は嫌な予感ばかりが頭をよぎり、その様子をじっと見守った。

「私、株式会社バルダッサーレのジュリオ・フォンダートと申しますが……」

 万梨亜は祈るような気持ちで、ジュリオがカワサキハウスの社員と会話するのを聞いていた。いくら苛めでも、どうかそこまでの事はしないでほしいと……。

 だが彼らは、徹底的に万梨亜を苛めるつもりだった。

「……では佐原さんはずっとそちらで? 西さんと言う方は書類を受け取ってはいないと? そうですか……」

 ぱきりと音がして、ジュリオが握っていたシャープペンがへし折られた。恐ろしい目で万梨亜を睨んでいる。万梨亜は目の前が真っ暗になり指先が冷えていくのを感じた。

「申し訳ありません、私が直接今から伺います。失礼します」

 受話器を置いたジュリオは、深い息をついて、椅子をくるりと回転させて万梨亜に向き合った。

「君、本当に一体どこへ行っていたの? 嘘ついてまで」

「嘘なんかじゃ……」

「もういい、聞きたくない。そんな事をする社員だとは思わなかった。始末書どころじゃない、解雇だ!」

「聞いてください……」

 ジュリオは立ち上がると、万梨亜に見向きもせずに瑛に言った。

「カワサキハウスに行ってくる。君から彼女に仕事与えておいて。誰にでもできる簡単なの。まあ今日一日だけだがな」

「……はい」

 スーツの上着を取ると、ジュリオは予備のほうの書類を手にとって、足音も高く部屋を出て行った。

 万梨亜は震えながら自分の椅子に座った。完全に頭の中身がパニックになっていて思考が全くまとまらない。震える両手を膝の上で握り締めようとしたが、それすらも上手くできなかった。

 信じられない苛めだ。社会的信用を失わせて、仲間の信用も壊そうとするとは。

 瑛が慰めるように言った。

「ジュリオさん、あの封筒の中の図面に書いてある工法に夢を持っててね。だからあんなに怒ったんだよ。私は万梨亜さんを信用してるよ、君は確かにカワサキハウスに行ったと思う。向こうで何かあって君はその被害者になっただけだろう」

「……書類、捜してきます」

 万梨亜は震えながらもなんとか立ち上がった。瑛は止めようとしたが万梨亜は振り払った。

「とにかくおかしすぎます。私、ジュリオさんの信用を失いたくないので」

「うん、でもジュリオさん……変でしょう?」

「それはわかっています。でも仕事と私情は別ですので」

「強いですね万梨亜さんは。普通なら辞めちゃいますよ。新人なら特に」

 そんなものではない。自分の事など万梨亜は正直どうでも良かった。

 ただジュリオの夢をこんなつまらない苛めで壊したくないだけだ。自分はどうなってもいいが、ジュリオに累が及ぶのは嫌だ。辞めるのなら彼らに罪を認めさせてからだ。とにかく万梨亜への苛めの為に、人の夢を潰そうとする佐原達が許せない。

 万梨亜がカワサキハウスに着いた時、ちょうどジュリオが佐原と西に向かい合ってロビーの奥まった所で話し合っている所だった。万梨亜はそこへ真っ直ぐ歩いていった。

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