ディフィールの銀の鏡 第31話
シャワーを浴びた後、万梨亜が自分の部屋のベッドに寝転ぶと、会社用の携帯がメール着信を告げていた。取ろうとした瞬間着信メロディが鳴り、万梨亜は驚いて一瞬手を引っ込めてしまった。その着信メロディはジュリオだった。
あの女の人が居るはずなのに、自分になど電話してもいいのだろうか……。躊躇している間も鳴り続ける携帯を万梨亜は眺め続けた。そして静かに携帯を取り、万梨亜はディスプレイに表示されているフォンダートの字をじっと見つめる。
ひょっとすると文句の電話かもしれない。なんで馬鹿真面目にやって来たんだと……。万梨亜はそう思いながらやっと通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『やっぱりね、こんな事だと思ってたわ!』
聞こえてきた声は市香だった。万梨亜が息を詰めていると威嚇じみた声が響いた。
『あんた、戸田って言うんだ? 他の女は名前で登録されているのに、一人だけ苗字なんて変だと思ったのよ。そこまでして目立ちたい?』
「え?」
『勝手に登録したんでしょ? 厚かましい。ジュリオが振り向いてくれないからって、こんな事をしてもいいと思ってるわけ? 会社とプライベートくらい区別つけなさいよ』
どうも、万梨亜が勝手にジュリオの携帯に自分の電話番号を登録したと、彼女は思っているらしい。
「あの……私」
『私が消しとくから! 会社でも彼の周りうろちょろするんじゃないわよ』
「…………」
『あ、ジュリオがシャワーから出てきそう。いーい? 彼は私のものなの! わかったわね!』
万梨亜は呆然として通話が切れた携帯を見下ろすばかりで、頭の中は真っ白だった。コンコンとドアをノックする音がしたが、万梨亜はドアを開ける気にならなかった。今、健三とお話してうまく話せるかどうかわからない。
「万梨亜? 大丈夫かい?」
健三に心配をかけるわけにはいかない。万梨亜はなんとか声を絞り出した。
「大丈夫です……。もう眠いので……今日は」
「そうか? じゃあおやすみ」
「おやすみなさいませ……」
しばらく暗闇の中で万梨亜はぼんやりとしていたが、悲しくてたまらなくなり、暗く静まり返っているキッチンへ行った。確かさっき冷蔵庫を覗いた時は、健三の缶ビールが何本も入っていた……。
「あれ?」
冷蔵庫を覗いた万梨亜は首を傾げた。あんなにあったビールの缶が一つもない。
「自棄酒はおいしくないよ、万梨亜」
ぎょっとして振り向くと、冷蔵庫の明かりにぼんやりと健三が浮き上がった。万梨亜は自分の行為が恥ずかしくなり、慌てて冷蔵庫を閉めた。
「すみません、私……」
「失恋したんだね、可哀想に」
ずばり当てられて万梨亜はうろたえた。そんなに顔に出ていただろうか。健三の横を通り過ぎようとした万梨亜は、腕を掴まれて抱き込まれた。
「だ、旦那様!?」
「馬鹿な男だね、万梨亜のような綺麗な子をふるなんて」
健三にこんな事をされるのは初めてで、万梨亜は慌てた。離れようとしてぐっと抱きしめられて息が詰まる。健三の大きな手が、万梨亜の背中を確かめるように撫で初めて、ぞっとした。
「そのほうがいい。万梨亜は私のものだからね」
含み笑いをする健三が、首筋に唇をつけてべろりと舐めた。ぬるぬるとした感じが気持ち悪くて、万梨亜は離れようとしてもがいたが、健三の腕はびくともしない。
うそだ、あの父親のような優しい健三がこんな事をするなんて。同時にジュリオの面影が脳裏を掠めた。嫌だ、嫌だ、自分に触れるのはあの人だけだ。あの人以外は絶対に嫌だっ……!
「いやあっ……」
「う……っ!」
青い光が健三の目を直撃した。万梨亜の胸が青く光り輝き、熱く、万梨亜の内部から力を得たようにますます灼熱の炎のように支配していく。健三は万梨亜を離すまいとして、いったん引っ込めた手をまた伸ばした。その健三の目は血の様に赤い。
健三がこんな目の色をしているはずがない。あの恐ろしい黒い男を万梨亜は思い出した。よく分からないが、あの男が健三を支配しているのではないだろうか。
「旦那様! 正気に戻ってください!」
「万梨亜、万梨亜……、私のものだ」
青い光に苦しそうにしながらも、健三は万梨亜を壁際に追い詰めて万梨亜の服の襟を掴んだ。ばちばちと青い火花が散る中、万梨亜は懸命に言った。
「旦那様、貴方には奥様がいらっしゃるんですよ! こんな事……」
「あの女など愛しては居ない。私が愛していたのはお前の母親だけだ……」
万梨亜は信じられない思いで健三を改めて見つめた。健三は熱に潤んだ目で万梨亜を見ている。
「美津はお前と同じで美しい女だった。だから夢中で抱いたよ。私を嫌がっているのに受け入れるのが可愛くてね……」
「旦那様。うそでしょう?」
「うそじゃないよ。君へ学費を出す代償に抱いた。彼女が私から逃げようとして、事故で亡くなるまでね」
「そんな! 旦那様がそんな事を!」
青い光の妨害に遭いながらも、健三は万梨亜の服の前ボタンを外していく。万梨亜はそれを恐ろしいとか逃げなければとか、考えられないぐらい気が動転していた。健三と母が身体の関係だったとは……。信じられない事実に自分の今の危険が遠くに飛んでしまった。
万梨亜はパジャマの下は何もつけないため、あらわになった胸に健三の手が触れた瞬間、さらに強い青い雷の様な火花が散った。
健三は、さすがに痛そうに手を引っ込める。
「万梨亜、私を拒絶するのかい?」
「旦那様……、私……」
「恥ずかしがることは無いよ……。寝ている万梨亜を何度も抱いた。睡眠薬で万梨亜は目覚めなかったから知らないだろうけど」
「……うそ!」
健三は乾いた笑い声を立てた。
「それにここでだから言うけどね、マリアと私は血がつがなっていない。あれは、妻と他の男の子供なんだ」
「…………!」
次から次へ出てくる健三の言葉に、万梨亜はパニック寸前だった。今まで信じていたものが全て崩れ去っていく。万梨亜は何かに縋りつきたくなったが、それはどれも砂のようにボロボロと崩れる弱さで、支えになってはくれなかった。
「他の男の子供など愛せるはずが無いだろう? 妻に似た高慢ちきな娘など興味も無い」
「あ……あ」
「愛してるよ万梨亜。美津にそっくりで、綺麗で、儚げで……。いや、美津以上に私を虜にする。だから私を受け入れておくれ」
青い光が炎を吹き出して拒絶しているというのに、健三は再び万梨亜に手を伸ばし、胸を掴んだ。万梨亜は立っているのがやっとで、健三の手を振り払うのも困難だった。思い出すのは期待してはならないと思ったばかりの男だった。
「助けて、フォンダートさん……!」
「フォンダート? ああ、あの若い男か……あんなのより私の方がいいだろう?」
万梨亜は首を激しく横に振った。ひどかろうがなんだろうが絶対に彼の方がいい。
「嫌、嫌! フォンダートさんっ……助けてっ!」
「来ないよ彼は」
そんな事はわかっている。わかっているが呼ばずにはいられない。健三の手が胸の先をひねって痛みが体中に走り抜けた。片方の手が腰の横に滑り降りてくる。その先は……。
「万梨亜、いい子だね……」
「……ジュリ、ジュリオ……っ」
万梨亜は初めてジュリオの名を口にした。胸の一番奥の深まった場所に封印されていた何かが、万梨亜を突き動かした。嫌われようが相手にされなかろうが関係ない、自分にはジュリオが必要でとても好きなのだから!
「ジュリオさん……! ジュリオ、ジュリオ……、いっ……やーっ!!!」
健三の向こうに、あの黒い男が不気味に微笑んでいるのが見えた……。
少し時間は遡る。ジュリオは、バスルームから濡れた髪をタオルで拭きながら出てきて、リビングに市香が居るのを見て驚いた。
「……おっ前……、何しに来たんだよ? 今日は来るなと言ったろ。第一鍵しまってたのにどうやって入ったんだ!」
「変な女が居たから追っ払って置いたわよ」
「変な女はお前だろ! 帰れ! っっきしょ……」
「もうとっくに帰ったわよ」
勝手な事をすると怒りながら、ジュリオは市香を押しのけた。しかし市香の腕が妙に冷たい事に気づき、奇妙に思いながら視線を彼女の顔に当て、その目が赤く染まっているのを見て背筋が凍った。
「な……」
突然ジュリオの足は動かなくなった。市香はそれを見てにんまり笑い、動けなくなったジュリオにしなだれかかった。嫌だと思うのに、何故かジュリオの両腕は彼女を抱きしめてしまう。
「なんで……一体……」
「そのままわらわを抱くのじゃ」
「お前、市香じゃ……ない」
「市香じゃ。姿はな」
ジュリオは必死に市香に化けている女から離れようとするのに、身体は彼を裏切って市香に従い寝室へ入っていく。そして寝台へ寝転がった市香の上に跨る羽目になった。
「哀れよのう。魔力がなければ何もできぬ男じゃ」
「何言ってんだ……く……」
ジュリオの意思に反して、市香の大きな胸を勝手に両手が弄る。
「下手じゃ。こんな触り方で万梨亜は満足したのかえ?」
「何を言っているのかわからない」
「ほほ、そうじゃな。わからぬな。まあそれでよいわ。早くわらわに口付けをせぬか」
嫌だ、とジュリオは身体を緊張させるのに、操られるように顔が市香に化けた得体の知れない女に近づいていく。
嫌だ。
違う、この女は違う。
「う……っ……!」
身体から脂汗が滲む。ジュリオは懸命に身体の動きに逆らう。その時両目に激痛が走り、燃えるように熱くなった。空気がはじける音が響き、市香はベッドの上で跳ね上がった。部屋を青い光が埋め尽くしていく。
「何事じゃ! まさか……」
ベッドから落ちて床に転がり、両手で顔を押さえてジュリオが苦しんでいる。彼の目の辺りから青い光が放射状に漏れ、失われたはずの彼の魔力の気配が濃厚になっていく。わけの分からない痛覚の中で、ジュリオは脳内に響く女の悲鳴を聞いた。それは万梨亜の声だった。
「ま、り……あ」
何故かジュリオの脳裏に上の階の部屋の中が浮かんだ。キッチンで万梨亜が健三に襲われている。青い光を放ちながら、万梨亜が必死に何かを叫んでいた。なんと言っているのかとジュリオは耳をすませた。
『ジュリオ!』
(泣くな、泣かせたくない)
新たな痛みが目に走り、ジュリオはぎゅっと目を閉じた。すると万梨亜がまた自分を呼んだ。何度も何度も繰り返しジュリオを呼んで、万梨亜が助けを求めている。健三が万梨亜の服を脱がして胸に吸い付いた。ジュリオはそれを見て押さえきれない怒りを覚えた。暗闇に埋没していた意識が、今浮上する。
「ああ……」
儚げな美しい女。奴隷として貢がれてきて、一目で恋に落ちて自分のものにした。魔力の石を持つ自分だけの女。心が不安定な彼女を無理やり后にした。自分だけのものだ、自分だけの……! どうして忘れていたのだろう、こんなに愛しているのに。
銀の髪が長く伸び、さらに青い光が強くなった。両目を覆っていた手が外されて、はっきりとした意思を持った青い瞳が開かれていく……。
市香に化けていたヘレネーは、両手を胸の前で合わせて赤い光の玉を燃え上がらせた。
「させるか!」
それは見る見る大きくなり、人一人が入れそうなほどになる。それをヘレネーはジュリアスに向けて放った。だが、その赤い炎の玉の前に吹雪の壁が突然立ちはだかり、青い光を放ちながら赤い炎の玉をヘレネーへ撃ち返した。
「なんじゃと……っ! こんな真似が」
部屋の中に吹雪が吹き荒れて、その中でジュリアスが青い光を放ちながら立ち上がった。市香から元の姿に戻ったヘレネーは焦れた。
「せっかく封印したものを、目覚めさせてたまるかっ」
今度は魔界の獣を召還し、ヘレネーはそれにジュリアスを襲うように命令する。ヘレネーの今夜の目的は、彼を腑抜けにしてとどめを刺す事だった。ジュリオへの恋心を確信した万梨亜を絶望に突き落とす為に。
ヘレネーの召還に応じたのは、小型の黒いうろこのドラゴンだった。ヘレネーの命令に従って鋭く大きな爪を蹲るジュリアスに向けて、炎を吐きながら飛び掛っていく。
だがまたしても吹雪がドラゴンを吹き飛ばした。明らかにただの吹雪ではない。ただの吹雪が部屋の中で起こるわけがないし、魔界でも上位に位置するヘレネーやドラゴンの攻撃を跳ね返せるはずが無い。
「おのれえっ……」
長い黒髪をなびかせたヘレネーを、後ろから羽交い絞めにした男が居た。魔王ルキフェルだ。
「我の言った事を忘れたか。これ以上手を出すでない」
「離せ兄上。今、ジュリアスを目覚めさせてはならんっ!」
ルキフェルがヘレネーを平手打ちにした。容赦なく叩かれたヘレネーは壁にぶつかって床に転がった。血が流れる額を押さえ、痛みに顔を歪めたヘレネーにルキフェルが冷たく言った。
「お前のこざかしい横槍のせいで、出てきて欲しくない奴が出てきた。今の我らでは太刀打ちできん。ばか者が」
「……じゃが……今……、」
「この場は退く。死にたければ攻撃するのだな。それもまた一興と言う所か」
自分の死を楽しむルキフェルに、ヘレネーは悔しそうに唇を噛んだ。冗談ではない、最愛のデュレイスが世界の覇者になる所を見るまでは死ねるものか。
ルキフェルとヘレネーは、ドラゴンを伴って部屋から姿を消した。
ジュリアスは空間を突き抜けて健三から万梨亜を奪い取り、自分の部屋へ戻った。
きらきらと雪の結晶が舞う。
舞い散って消えていく雪の結晶の中で、記憶を取り戻したジュリアスは、いとおしそうに万梨亜の髪を撫でその頬に静かに口付けた。
「その女がお前のいとしい女か? いろいろと女あさりにせいを出していたようだが、遊んだ女達とはずいぶん違う」
きらめく雪と共に、金色の刺繍が煌く純白の衣装をまとった、ジュリアスより幾分か年上に見える美しい男が現れた。髪はプラチナブロンドだが、その目の色はジュリアスと同じ青だ。ぱちりと男が指を弾くと、照明が点いて部屋の中が明るくなった。
「……記憶を取り戻す為に無意識に探していただけの事。貴方が魔王に手を貸すような輩とは知らなかった」
気を失ったままの万梨亜を寝台に寝かせると、ジュリアスは男に向き直った。男は、悪戯心たっぷりに目をきらきらと輝かせて首を傾げた。すると床に届くほどの長さのプラチナブロンドが、さらさら流れた。
「馬鹿だなあ。万梨亜ちゃんを素直にさせる事に協力しただけだよ? お前がわざわざこの世界を作ったのはその為だろ?」
「彼奴等に余の魔力を奪わせてまで、ご苦労な事だ。おかげでデュレイスまで出てきた」
「ここいらで、彼と万梨亜ちゃんをきっちり分けないとね。彼はともかく、万梨亜ちゃんはまだデュレイスに惹かれている部分があるんだから」
ジュリアスの目に青い炎が一瞬燃え、男はくすくす笑った。
「魔力の石の力を得るには、石の保持者の愛情が不可欠だったよね」
「黙れ」
「彼女の愛情を確かなものにしたかったら、あの健三と、マリア、デュレイスをなんとかしないとね。ヘレネーとルキフェルはこのまま泳がせておくよ、悪いけど。私が表立って助けてあげるのはここまで、後は自分達でなんとかするんだね」
「引っ掻き回して勝手なことを言う」
睨むジュリアスをものともせずに、男は勝手にベッド脇に置いてあった酒をグラスについで飲んだ。
「八ヶ岳の山荘もいいんだけど、あきちゃってね。かわいい嫁の相手もしたいから。当分は会社に居るよ」
「バルダッサーレの社長らしく、ずっと篭っていて欲しいものだ」
「万梨亜ちゃんのフォローは陰ながらしてあげたいんでね。お前のはまっぴらだけど」
ジュリアスは深くため息をつくと、男の手からグラスを奪って全て飲み干した。男はしばらくあっけにとられていたが、やがてにやりと笑った。その目にも一瞬青い炎が宿って消える。ジュリアスは面倒くさそうに言った。
「天界で遊んでいればよいものを……」
「ひどい事を言うなあ。可愛い息子の手助けをしに来ただけなのに。ちょっとスパイスが効きすぎたけどね」
「余に父など存在せぬ」
「神が父だと嫌がるのはお前ぐらいだ。しかも父親に向かってなんて偉そうなんだお前は。罰が当たるぞ」
ジュリアスはもう男を見ず、万梨亜の横に座って再びジュリオの姿に戻った。
そんなジュリアスを、男はいつくしむような目で見下ろす。長い髪は一瞬で消え、服もラフな冬服になる。
この世界での男の名は、バルダッサーレ・フォンダート。身分は株式会社バルダッサーレの社長。
そしてディフィールやケニオンの世界では、天界に住む神々の頂点に立つ、全能神テイロンだった―――。