ディフィールの銀の鏡 第33話

 万梨亜は、会社から徒歩でジュリオのマンションの前まで帰ってきた時、見覚えのある車が停まっているのを見つけた。白のシーマ、マリアの愛車だ。もっとも運転しているのはマリアではなく、彼女の家お抱えの運転手だが……。

「……マリア?」

 運転手がうやうやしく開けたドアから降りてきたマリアは、金髪にフリルの付いた花柄のワンピースを着ていて、相変わらずお嬢様にしか見えない美しさだった。

「ひさしぶりね万梨亜。相変わらずそんな紺色の地味なスーツを着ているの? 私があげたものは何一つ着てくれていないようね……、寂しいわ」

 聖母のような慈悲深い優しさを湛えたマリアは、今までどおりのマリアにしか見えない。しかし万梨亜は、あの送別会の時に見た意地悪なマリアが頭によぎって何も言えないでいた。マリアはそんな万梨亜に近寄ってきて両手を取り、にっこり笑った。

「今夜、私と純一郎さんの婚約お披露目パーティーがあるのよ。親友の貴女にももちろん来て欲しいの。職場のパーティーには来てくれなかったから、寂しくてたまらなかったわ。今日はもちろん来てくれるわよね?」

「あの、私……」

 万梨亜はこのマリアの優しい口調に弱く逆らえない。逆らうと自分が悪人になってしまう気がするのだ。

 だが……。

「ごめんなさい、私は行けないわ」

「どうして? 親友の私の婚約パーティーに来ないなんて、万梨亜がそんな事するなんて……私が嫌いなの?」

 涙を両目に溜めたマリアを見て、万梨亜は心が痛んだ。そんな彼女を傷つけるのは嫌だが、どうしてもこれだけは言っておかなくてはと思い、万梨亜はマリアの両手を握り返した。

「マリア、純一郎さんと結婚するのは止めたほうがいいわ」

「なんでそんな事……」

「だってあの人は私に乱暴しようとしたし、マリアと付き合いながら私にも手を出していたのよ……。そんな人、マリアを幸せにできるなんて私は思えないわ」

 マリアは目を見開いて首を横に振った。

「万梨亜うそでしょう? あの純一郎さんがそんな事」

「……貴女の婚約者を悪く言いたくないけど、でも本当なの」

「うそ! ひどいわ万梨亜がそんな事を言うなんてっ」

 万梨亜は、詰るマリアに懸命に諭した。

「今なら間に合うわ。マリア、婚約を取り消して。私を親友と思うのなら私の言う事を信じて欲しいの。お願い」

 数分、マリアは顔を上げなかった。万梨亜はマリアがどうか信じてくれますようにと祈る。

 やがてマリアは顔をあげた。

「……わかった」

「マリア」

 信じてくれたのだとホッとした万梨亜の両手を、マリアが強く引いた。

「マリア……?」

「それならなおさら屋敷に来て」

「怒ったの? ごめんなさい、だけど本当に……」

「ええ、万梨亜がうそつくなんて思ってないわ。だから、二人で純一郎さんから本当の事が聞きたいの。一人じゃ怖いわ。もしも万梨亜の言うとおりひどい人だったら、乱暴されるかもしれないもの。ね、お願い……」

 悲しそうに言うマリアに胸が罪悪感で痛んだ、おそらくマリアは純一郎を心底愛しているのだろう、恋人の不貞を親友の口から聞くなんて辛いはずだ。

「……わかった。荷物を置いてくるから待っててくれる?」

「もちろんよ……」

 若干ひっかかりを感じながら、万梨亜は荷物を置くためにジュリオの部屋に入った。彼には一言書いておいたほうがいいと思い、リビングのテーブルに置いてあるメモにマリアの家に行く旨を書いた。ジュリオは今日とあるビルの施工式で忙しく、帰ってくるのは深夜になる。携帯も今は電源を切っているだろうから、電話をしても意味は無い。

 万梨亜の気持ちは揺らいでいた。

 優しかったマリア。

 意地悪な顔をしたマリア。

 どちらが正しいマリアなのか万梨亜は知りたい。どちらにしても、純一郎がひどい男だという事だけは証明したい。あんな男とマリアが結婚してしまうと思うだけで吐き気がする。意地悪なマリアだったとしても、それだけは判断してくれるだろうし、誇り高いマリアなら婚約破棄するはずだ。

 メモを書き終わった時、左手の薬指の付け根付近が絞り上げられたように痛んだ。

「何? 何もはめていないのに」

 痛みは一瞬で消えた。何も無い所が紐か金具で絞られるように痛むなんて変だなと思いつつ、万梨亜は私服に着替えマリアの待つ車へ向かった。

 川崎のお屋敷は相変わらずしゃれた洋館だった。今夜はカワサキハウス社長の一人娘、マリアの婚約披露パーティーが開かれるので、使用人達が用意に忙しそうに動き回り、それでいて浮き立つような、楽しいような喧騒に包まれていた。

「万梨亜、貴女のドレスを用意した部屋はこっちよ」

 マリアに腕を引っ張られて、万梨亜は廊下のじゅうたんの上を転びそうになりながら言った。

「マリア……、その前に純一郎さんは?」

「ああ、もう直ぐ来るわよ」

「準備に沢山の人手がかかっているわ。その中ではちょっと……」

 マリアは三階の部屋へ万梨亜を引き入れると、シルクのロングドレスを持ってきた。スカート部分はベージュで緩やかに裾が広がっていて、上の部分は黒のノースリープで胸元にリボンが付いている。大人な感じで素敵なドレスだ。

「こんな高価なドレス……」

「あら、私の親友の万梨亜が着るのよ? これくらいで無いと。私も着替えなければいけないからもういくわね。十九時から下の大広間よ」

「マリア、あの、いつ純一郎さんに」

 マリアはドアの前で振り返った。

「パーティーの後……よ。万梨亜が言ったとおり、沢山の人が来てくれるでしょう? 今取りやめたりしたら、大迷惑をパパにかけちゃう。パパの会社のお付き合い相手が沢山招待されているの。私のせいで今取りやめになんてできないわ」

「そう……ね、ごめんなさい」

 万梨亜が謝るとマリアは声を立てて笑い、万梨亜にぎゅっと抱きついてきた。

「何を謝っているの? 私、あの破廉恥な男をどうやってこらしめてやろうかって思ってるのよ。もうあんな男好きでもないから気にしないで。二人でとっちめてやりましょうよ!」

「マリア……」

「じゃあね」

 閉められたドアをしばらく見つめ、万梨亜はこれでいいのかなと思った。もっと早く言っておけば、穏やかに事は進んだかもしれない。マリアは万梨亜を信じてくれているみたいだ。やっぱりあの意地悪なマリアは気のせいだったのだろう。

 ドレスはとても着心地が良く、ふわりと身体を包み込むような感じが気持ちいい。マリアがドレッサーのものは何を使っても良いと言ってくれたので、薄く化粧をして、後ろに一まとめにしていた髪を解いてスプレーをかけ、綺麗にカールさせた。最後に小さな真珠のピアスをつけて、セットになっているネックレスを首にかけ、改めて鏡の中の自分を見つめた。

 ふとジュリオの顔を思い出して万梨亜は一人赤面した。ジュリオの部屋に再び住むようになって、万梨亜は彼の体温や唇の感触、手の柔らかさなどがすぐに思い出されるくらい抱かれている。ただ、やはり、自分は彼にふさわしくないという思いが根底に流れていて、手放しでジュリオにしがみ付いてはいなかった。

 大島はジュリオを悪い王子だと言ったが、それでも万梨亜はジュリオが好きだ。戸田万梨亜という名前が彼を求めてやまない。気持ちの制御がなければ、万梨亜は親友のマリアとっくに打ち明けていただろう。

「もう会社に帰った頃かな」

 時計を見ると、もう十八時四十五分だった。そろそろ降りたほうがいいと思った万梨亜がドアを開けようとした時、勝手にノブが回った。

「失礼」

 万梨亜は入ってきた人間を見て、驚いて窓際まで後ずさった。何故純一郎がここに来るのだ! 黒のパーティースーツを着た純一郎は後ろ手にドアを閉めた。

「久しぶりだな」

 純一郎は、警戒する万梨亜に向かって歩いてくる。万梨亜は捕まるまいと部屋中を逃げ回った。でもいくら広い部屋といっても屋内では限界があって、足の遅い万梨亜はあっけなく捕まってしまった。

「……お前、マリア嬢に僕の事を話しただろう」

 純一郎は万梨亜の首を片手で撫でた。万梨亜はマリアが話してしまったのだと思った。

「当然です! 私は貴方の正体を知ってるんだから! そんな人がマリアと結婚するなんて絶対嫌よ」

「ふうーん……。そこまでマリアが大事?」

「当たり前だわ……くっ……」

 純一郎の右手に首を圧迫されて息が詰まった。万梨亜は懸命にその手を引っかいたがやっぱり外せない。もがいていると、純一郎が身体を震わせて笑い出した。

「馬鹿だなあお前……。僕はなあ……、マリアに頼まれてお前を襲ったんぜ?」

 うそだ、という言葉は口から出す事はできなかった。首を絞められて意識が朦朧とする。もう駄目だと思った時に手が離れ、咳き込んで力が弱った万梨亜は大きな二人がけのソファに運ばれた。苦しくて涙が溢れて吐きそうになったが、お昼から何も食べていなかったおかげで何も出てこなかった。

 万梨亜は自分の身体の悲鳴を押さえるのに気をとられて、純一郎の事を一瞬忘れた。そして気がついた時には妙に寒い事に気づく。

 仰向けの万梨亜に覆いかぶさっている純一郎が、何故か万梨亜が着ていたドレスを持っていた。

 

「え? どうしてっ……」

 万梨亜は下着だけになっていた。純一郎は脱がせたドレスをそっとソファの背もたれにかけると、万梨亜の裸の両肩をソファに押し付けた。

「マリアはお前が思ってるような女じゃない。あいつは言ったんだ。戸田万梨亜をもう立ち上がる気力もわかないぐらいにめちゃくちゃにしてくれたら、婚約しても良いとな」

「いい加減にしてよ! この恥知らず!」

「ああ、僕は恥知らずさ。会社同士の政略結婚の為にあんな女の言う事を聞くんだからな」

 

 純一郎は皮肉そうに顔をゆがめ、万梨亜のショーツをはぎとった。逃げたいのに、さっき首をしめられて激しい咳を繰り返した万梨亜は、身体中弱りきっていて動けない。

「まあ構わない。もともと目えつけてたお前なら、あの女狐に言われなくたって、いくらでも抱いてやるさ。頼まれなくても大歓迎。なあ? 知ってるかお前。お前はあのカワサキハウスに勤めてた時、沢山の野郎どもが、お前の裸想像して、いやらしい話してたんだぜ?」

「じゅん……やめ…………あ!」

 純一郎の唇が胸の先を含んで吸った。万梨亜は来ない助けを求めて両手を伸ばそうするが、痺れている手先はやっぱり動いてくれなかった。そして濡れてもいない局部に指を突き入れられて、その鋭利な痛みにかすれた悲鳴をあげる。

 やっぱりマリアは意地悪なマリアなのか、それともこの男が嘘を言っているのだろうか?

 乱暴な愛撫で苦しむ万梨亜の声に混じって、どこかで聞いた、地獄の底から聞こえてくるような女の高笑いが聞こえたような気がした……。

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