ディフィールの銀の鏡 第35話

(助けてジュリオっ……)

「あっ……つ」

 ジュリオを思った途端に左胸が熱くなり、万梨亜は自分の胸を押さえた。青い光は胸からほとばしってますます輝いていく。健三がそれを見てますます目を赤く光らせた。あきらかにこれは健三ではない。

「お願いします旦那様、以前のような旦那様に戻って……っ」

「……何を言っているんだい? 私はずっと万梨亜を愛しているのに……」

「違いますっ!」

 万梨亜の感情に比例したのか、風が吹き荒れた。健三はその風とさらに強くなった青い輝きに、両目を両手で押さえ万梨亜を離した。

「うう……私は……」

 健三が苦しそうに言った時、赤い稲妻が健三を貫き、健三は部屋中を転がり苦しみ始めた。万梨亜はなんとかしなければと思うが、青い光は治まらないままで、禍々しい赤い光に包まれていく健三を捕まえる事もできなかった。赤い光は万梨亜の青い光を弾いてしまうのだ。

 赤と青。

 万梨亜は、あの黒い男を思い出した。あの男がひょっとして健三を操っているのではないだろうか。あの男が関ると、万梨亜の胸の青い光は反応するのかもしれない。だとすると……。万梨亜は宙に視線を集中する。何故そんな事を思ったのかわからないが、やがて万梨亜は部屋の右端の隅がとても気になって、そこへ目を凝らした。

 そこはなんの変哲も無いただの隅だったが、強く目を凝らすに従って赤黒い闇が大きく広がり、その中に見知らぬ美しい黒髪の女が立っているのが見えた。男ではなかったが顔つきは男そっくりだった。

(あの女が元凶に違いないわ)

 そう思った万梨亜は右人差し指をすいと上に上げた。指先に青い光が集まり、より一層強く光り輝く。万梨亜はまるで青い光の使い方を知っているかのようにそれを見つめ、黒髪の女に指先を向けた。女ははっとしたように万梨亜に気付く。万梨亜が指差すまで、見えていると分からなかったようだ。

『放て!』

 誰かの声と混ざり、万梨亜は気づいたらその言葉を口にしていた。女は自分の赤い光で壁を作ろうとしたが、万梨亜の青い光の攻撃の方が強かったらしく、赤い光の壁は砕け散り、青い光はまっすぐな雷になって女を貫いた。

「ぎゃあああああっ……!」

 身体中の毛が逆立つような甲高い女の悲鳴が聞こえると同時に、転げまわっていた健三の動きが止まった。同時に女の姿が消え、万梨亜の青い光も治まっていく。

「はあっ……はあっ……はあっ…………」

 よほど気力を詰めていたらしい。万梨亜は荒い息をつきながら、普通の照明が点いているだけの部屋の床に、しばらく座り込んで呆然としていた。一体今自分は何をしたのだろうか……。普段なら考えられないような事をしてしまった。木谷には何もできなかった自分なのに……。

 呼吸が平常に戻ると、万梨亜はよろよろと部屋の隅に転がったままの健三に跪いた。健三は気を失っているだった。

 頬にかかっていた健三のほつれ毛をなでつけると、健三が目覚め、さっきの健三を思い出した万梨亜は思わず座ったまま後ずさってしまった。健三は目を何回か瞬きすると、むっくりと起き上がって万梨亜をぼんやりと見た。

「……万梨亜? なんでここにいるんだ?」

「あの、マリアのパーティーに呼ばれて……」

「ああ! そういえば呼んだと言っていたな。久しぶりだね。突然にカワサキハウスを辞めたからびっくりしたよ。どうして辞めてしまったんだ?」

「旦那様?」

 つい最近まで同居していましたと言おうとして、万梨亜は口を噤んだ。

 これでいいのだ、きっと健三は大島の屋敷から万梨亜を連れ出した時から、ずっとあの赤い光に操れらていたのだろう。何も無かった事にするのが一番いい。こんな忌まわしい記憶は健三には必要ない。

 万梨亜は微笑んだ。

「すみません、やりたい事ができたものですから。わざわざ入社させていただいたのに、ご迷惑をお掛けしました」

「そうか……やりたい事が。でも、時々は戻ってきて欲しいね」

「申し訳ありません」

「怒っているのではないよ。元気ならいいんだ」

 健三は以前の父親のような温かさにつつまれていて、万梨亜は心から安堵した。

「おや? なんでこんな所に救急箱があるんだろう?」

 健三の声に、万梨亜はハッとして左の頬に手をやった。驚いた事に傷は跡形も無く消えていて、するりとした普通の肌に戻っていた。

「あ、私、ちょっと頭痛がしたので頭痛薬をもらおうかと思って」

「そうか、でも薬ばかりに頼ってはいけないよ。なにか病気が隠れているかもしれないから、続くようなら病院へ行きなさい」

「はい」

 万梨亜は頭痛薬をもらいながら、これはどういった事だろうと頭を傾げた。でも、健三は正気に戻ったようだし、気味の悪い女も一応は撃退できたみたいなので、良しと言うべきなのかも知れない。

 健三が部屋を出て行った後、万梨亜はマリアと純一郎のもとへ行かなければと再び思った。純一郎が言うようにマリアが悪意を持っているのか、それともマリアを信じるべきなのか。

 部屋を出てマリアの部屋をノックしたが、返事は無い。少し開いていたので覗いてみたがやはり誰もいなかった。マリアを信じるのなら……、マリアは万梨亜を待って、純一郎を引き止めているはずだ。うろうろと屋敷の中を探して歩いていると、どこからかマリアの声が聞こえてきた。見ると端の部屋から、トレイを持ったメイドがドアを開けて出てくるところだった。万梨亜はメイドが立ち去るとドアに近寄り耳をすませた。

(あれ?)

 聞こえてくる声は純一郎ではなくて、木谷だった。

「で……、どうだった?」

「あの不細工な顔に傷をつけてやったわ。ついでにシャンパンもかけてあげたけど」

「そう……よくやったわ。でも純一郎だけじゃなくって、他の男をけしかけても良かったかもしれないわね……」

 先ほどまでの態度とはうってかわって意地の悪いマリアの声に、万梨亜は、ああやっぱり……と心が沈んだ。ふっと一瞬気が遠くなってドアにもたれた。

「あの流行おくれのドレス、ありがたそうに着てたのおかしかったわ」

「あの子はいつだってそうなのよ。私からもらったら、どれだけおばさんくさいのでもありがたそうに着るの、おかしいったらないわ。ふふ。でもお似合いよ」

 小声で二人は話していたが、万梨亜の耳にははっきり聞こえている。あの黒い男や女に操られてもいないようで、胸も青く光らない。これがマリアの本性なんだと認めるしかなかった。

 マリアへの思いが崩れると同時に、万梨亜の中で崩れない何かが生まれ、いつもならその場を逃げるように立ち去る万梨亜が、ドアを開けた。

 先に木谷が歩いてきた万梨亜に気付き、驚いたように口を大きく開けて手を添えた。マリアは強張らせて不快そうに顔を歪ませた。

 万梨亜はそのまま二人の前まで進み、身構えているマリアについと向き合う。

「……純一郎さんと、幸せになってね……」

「……は? 何言ってるの。聞いたでしょう今、私は万梨亜を傷つけるような事を人に命令していたのよ。それに対して何か言う事はないの?」

 不機嫌に言うマリアに、万梨亜は目が熱くなった。好きだった人に嫌われていたのだと、苛められていたのだと知るのは、とても悲しい。

「ごめんねマリア。私、迷惑に思われていたなんてちっとも知らなかった」

 マリアはそっぽを向いている。木谷は逃げるように部屋を出て行った。万梨亜の顔に傷が無い事で、マリアに怒られるとでも思っているのか、万梨亜を気持ち悪いとでも思ったのかもしれない。

「でも、どうして? ……」

「馬鹿ね。嫌いになるのに理由なんて無いわよ。あんたの存在自体が嫌なのよ。ぼーっとしてるし馬鹿だし、内気でうじうじしてるし、のろまでドジでしょ。そのくせパパの気を引くのだけは上手で。いらいらするわ」

「…………」

 マリアはくすくす笑った。

「あんたって本当馬鹿。今までなんで気付かないのよ? 純一郎をけしかけたのだって疑ってたくせに、なんで今日来るわけ? わざわざ騙されにきて、ばっかみたい。本当にゴミみたいよあんた。もうその陰気な顔を見るのも嫌。さっさと出てってくれる? できればもう二度と会いたくないわ。あの会社も辞めてよね。つながりがあるからうっとうしいのよ」

「……うん……、わかった」

 万梨亜はどうしてもマリアを嫌いにはなれなかった。マリアは表面上であったとしても、いつも万梨亜を庇ってやさしくしてくれたのだから……。

「わかればいいのよ。ああ、そうそう、パパのマンションをうろつくのも止めてよ? うちの品位が下がるわ」

「ええ……、わかった」

 すべて承諾していく万梨亜に、マリアは戸惑った様子だった。万梨亜にとって馬鹿なのはマリアだった。自分はこんなにマリアが好きなのにどうしてわからないのだろう。

「今までありがとう、マリア……」

「……っ」

 マリアはさらに不機嫌そうに顔をしかめると、カツカツと足音を立てて部屋を出て行った。万梨亜は持っていた鞄をあさって財布の中身を確認する。現金は少ないがキャッシュカードがあるから、このまま東京駅へ行ってどこか遠くへ行こう。

 ジュリオの事は好きだ。でも好きだからこそ一緒に居てはいけない。万梨亜が居たら、みんな人間としての価値がさがって、軽く見られるだろう。好きならその人の幸せを考えなくてはいけない。

「お前は本当に馬鹿だな」

 いつの間にか、部屋の戸口に純一郎が立っていた。でも万梨亜は逃げない。この男が襲ってくる事はもうないのだから。

「そうよ、馬鹿なの」

「違う、なんだってあんな女のいう事を聞くんだ。僕と違って世間体なんて気にしなくていいだろう?」

「貴方にはわからないわ」

「……待て」

 純一郎が万梨亜の肩に手を置いた。

「あいつはああ言ってたけど、僕はお前ほど綺麗な女を見たこと無い。お前ほど責任感がある女も見たこと無い。お前ほど優しい女は……そうそういない」

 苦しそうに言う純一郎が以外だった。何故この男はそんな事を言うのだろう。どうかしている。万梨亜の事を玩具みたいに弄んで傷つけて笑っていただろうに。

「責任感なんてないわ。会社を電話一つで辞めるのだもの」

「無責任な奴はそれすらない」

 万梨亜は静かに純一郎の手を払った。しかし純一郎は背後から万梨亜を抱きしめた。その抱き方は優しいくせにとてもきつく、まるで切羽詰ったジュリオに抱かれているかのようだった。

「困ったら僕に電話しろよ。携帯番号覚えてるだろ?」

 純一郎が吐息に近い声で囁いた。この男は心の奥底から言ってくれていると万梨亜は思ったが、次の瞬間マリアの声が頭の中に蘇った。

(あんたって本当に馬鹿。騙されている事に気付かないなんて……!)

 本当だ。マリアの言うとおり、自分は本当に馬鹿だ。この男に何をされたかもう忘れている。カワサキハウスで万梨亜を傷つけて、退職に追いやる元凶をつくったのはこの男だ。そして職場での婚約パーティーへ向かう最中になんと言った? おまけにさっき乱暴に犯されたではないか。ちょっと優しい言葉をかけられただけで、簡単に心を許す自分は、なんと頼りなくて安い人間なのだろう。

 万梨亜は乱暴に純一郎を振り払った。純一郎は目を瞠って驚いている。ここで万梨亜が落ちると思って疑わなかったのだろう。万梨亜は小さく笑った。

「……私は純一郎さんなんて大嫌いなの」

「万梨亜!」

 万梨亜はそのまま走って屋敷を出た。

 

 夜の新幹線の窓は暗く、鏡のように自分が見つめ返してきた。その目は自信があるように見えて、どこか怯えている。マリアへの思いは変わらないし、この先も彼女が好きだろう。苛めの根源だったとしても、いろいろと助けてくれたのは彼女で、これまで横道にそれたりせずにいられたのは彼女のお陰なのだから。

 脳裏によぎったマリアがジュリオに変わり、万梨亜ははっとした。

 あの青い目は、万梨亜の心の奥底に隠されているものを暴いてしまう。押さえ込もうとしても、隠そうとしても、あの輝きの前では全て無駄なのだ。

 万梨亜は怖かった。思いのたけを込めて自分を見つめるジュリオの青い目が。

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