ディフィールの銀の鏡 第42話
朝早く王宮へ行ったジュリアスが昼前にとても機嫌が悪い顔で帰ってきたため、万梨亜はどうしたものかと思っていた。理由を聞こうとしても聞ける雰囲気ではなく、ジュリアスは昼食も食べないまま部屋にこもりきりである。大体、あまり人と交わるのが好きではないジュリアスが、何故突然呼ばれもしないのに王宮へ行ったのかがわからない。起き抜けに館を出て行った後姿は、まるで見えない何かに呼ばれたかのようであった。
昼食を片付けているところへ馬のひづめの音が聞こえ、万梨亜はドアを開けた。館の前でテーレマコスが青い顔をして馬から下りたところだった。
「王子は?」
「王宮より戻られてから何故かご機嫌斜めです」
はあっとテーレマコスが重いため息をついた。万梨亜はとりあえずテーレマコスを館の中に誘い、台所で木のコップに注いだ水を手渡した。テーレマコスは恐縮しながらそれを受け取り、ためらいがちに口を開いた。
「……とんでもない事態です。王妃マリアが神々から呪いをかけられました」
「呪いって……」
「神々以外には治せない難儀なものです」
「どういう呪いなんですか?」
「老婆のように醜くなり、数ヶ月で死に至るという恐ろしいものです……」
万梨亜は息を呑んだ。それは酷過ぎる。テーレマコスが状況を話し始めた。
朝、マリアは、目覚めるとゆっくりと起き上がった。そしていつものように隣で寝ているテセウスにキスをして、ベッドから降りる。冬に入ろうとしているディフィールは微かに肌寒いが、南に位置する気候なので暖房が必要なほどではない。最近のテセウスは、国王としての威厳が違和感なく身に付き神々しく妻としてうれしい。
「王妃様お目覚めですか?」
寝台のカーテンの向こう側から女官長の声がかかった。マリアは返事をせずそのままさらりとカーテンを払った。
「湯殿に行きたいわ。用意は出来ていて?」
「はい、いつもどお……っ」
頭を下げていた女官長の顔が、マリアを見た瞬間に驚きに歪んだ。後ろに控えていた二人の女官達も同様だ。
「どうしたの?」
「何者じゃそなたは!」
「何を言っているの? マリアよ。そなた達こそ……」
触ってみて、マリアは初めて異変を感じた。そのまま湯殿の隣に置いてある大鏡に走った。全身を映したマリアは自分の変化に驚愕し、恐ろしい叫び声をあげた。
「何っ……これは!」
震える手で自分の顔を触る。
「うそ! うそだわこんなのっ」
マリアは夜着を捲って気絶しそうなほどの恐怖に駆られた。昨日までは美しい身体だった。それなのに今の自分は若さを失い、しみやいぼだらけの見るもおぞましい醜い老婆だった。叫び声を聞きつけたテセウスが寝台から降りてきて、マリアを見るなり女官達に劣らぬ驚きの声を上げた。普通なら別人にしか見えないが、マリアを愛しているテセウスはすぐにマリアだとわかった。
「誰かデメテルを呼べ!」
「ですがその者は」
「馬鹿者、マリアがなんらかの病気にかかったのだ! 早くデメテルを呼ばぬか」
あわただしく部屋を出て行く女官達の足音が響き、早朝の静けさが一気に騒々しいものに変わった。マリアはしゃがみこみそうになったところを、テセウスに抱きかかえられた。震えが止まらないマリアにテセウスが言った。
「大丈夫だマリア。きっと直ぐ治る」
「でも、でも陛下……いきなり…………どうして?」
「デメテルに診てもらわぬとわからん」
マリアはしわだらけの手に顔を伏せて泣いた。
すぐに駆けつけたデメテルは、狂乱するマリアを宥めながら医師達と一緒にマリアを診察した。しかし魔法の気配も病気の気配もないという、絶望に満ちた判断が下されただけだった。
「それではマリアはこのままだというのか!」
怒るテセウスに、デメテルは相変わらず静かにうなずいた。
「考えられるのは、神々の誰かの怒りを買ったのではないかと……」
「馬鹿な。神殿への貢物は切らしてはおらぬ」
「しかし魔法の気配もございませんし、病気でもございません。となるともう神々のしわざとしか……」
「ええい! もうよい。兄上に診ていただくっ」
「お止めなされませ。神々のしわざとあらばジュリアス王子は……」
揉めているところへ、当の本人のジュリアスが現れた。テセウスは頼りになる兄が来たと、大股でジュリアスの元まで歩いていった。
「兄上、朝早くからありがとうございます」
「嫌な夢を見て来たのだが……」
ジュリアスの視線にマリアはおびえてますます縮こまった。美しさを誇っていた自分が老婆のようになったとあっては、当然だろう。ジュリアスは青い炎を目に燃やしてマリアの頭に触れた。固唾を呑んで皆が見守る中、廊下からそうぞうしい叫び声が聞こえてきた。近衛兵がなにやら怒鳴りつけており、刃傷沙汰でも起きそうな雰囲気である。ジュリアスはふっと炎を消した。
「そこの廊下で暴れている者を入れてやれ。その者が真実を語るだろう」
テセウスが顎で侍従長を促した。マリアは女官長に連れられて王妃の部屋へ出て行き、テセウスは女官達が用意した椅子に腰をかけ、ジュリアスはその隣に立った。侍従長は扉を近衛兵に開けさせ、廊下で暴れていた者を入れるようにと言った。しばらく経って、明らかに地方から来たと思われる質素な身なりの神官が、近衛兵数人に引っ立てられて部屋に入ってきた。
神官はずいぶん若く興奮しているように見える。テセウスが直接声をかけた。
「直答を許す。名は?」
「お目通り叶い光栄でございます。私はファレの神官でエウと申します」
「ファレとは……。馬でも十日の距離がかかるところをどのようにして参った?」
妙に小奇麗なエウにテセウスは不審を覚えた。エウの格好はどう見ても普段着でとても旅装には見えす、また、旅塵の汚れひとつないのがあやしい。
「わ、わからないのでございます。ただ、私めの枕元に神が現れ神託を下されたのです。気が付いたらここの王宮の廊下に」
控えていた者達全員がざわめいた。デメテルの言った神々のしわざではと皆思ったのだ。テセウスの眉間に深いしわが刻まれる。
「神託の内容は?」
「隣国のリーオの守護神である美の女神カリスト様の巫女を、ディフィールの将兵達が辱めたのをお怒りだとの事です。王妃マリアの美しさを代わりにいただくと……」
「なんと!」
テセウスははじめて聞く内容だった。周りの者達も同様だ。ジュリアスがまだ何かを言い足りない神官に問いただした。
「それだけではあるまい……。さらに神託に立った神はなんと言った?」
神官は明らかに空気が違うジュリアスに震え上がりながら、床に伏せてうずくまった。無理もない、ジュリアスは半神な為、真実の美しい姿のままでは威厳が神々しすぎて、とてもまともに見られないのだ。
「……怒りを解いて欲しければ、最強の魔力の石を持つ女をリーオのカリスト神殿に捧げよと。捧げねばディフィール中の女の顔を老婆に変え、寿命を縮めて皆殺しにするとの恐ろしい言葉が……、私は恐ろしくて恐ろしくてっ」
テセウスはジュリアスを見上げた。その凍りついた表情は明らかに「否」と言っていた……。
話し終えたテーレマコスに、万梨亜は無言だった。ふと物音がしたので振り向くとジュリアスが部屋から出てきて、いつの間にか台所の入り口に立っていた。
「行く必要はない。明らかに罠だ」
「ですが王子。このままではマリアが可哀想です。それに他の女性達も……」
「そなたをあれほどいたぶった女だ。多少は罰を受けるべきだ」
「どちらにしても、私が行かねば解決しないのではないですか? 王子は私が醜い老婆になったとしたらどんなお気持ちです?」
ふんとジュリアスは鼻で笑った。
「もしもそなたが神々の呪いを受けたとしてマリアを差し出せと言って来たら、テセウスは出さぬであろうし、あの女も平気な顔で居るだろうよ」
「私は平気ではありません」
喧嘩になりそうな気配にテーレマコスが口を挟んだ。
「今、テセウス様が他の方法がないかお探しです。デメテルをはじめ神官達も……」
「馬鹿者。罠にかけた神をなんとかせねば呪いは解けぬわ」
吐き捨てるように言ったジュリアスに、万梨亜は言った。
「では王子は事の成り行きが見えておいでですのね。知っていて黙っているのは、陛下がお気の毒ではありませんか? あの傲慢だった方が未だに私をひっ捕らえに来ないのは、明らかにジュリアス王子にご遠慮しておいでだとおわかりのはず」
「万梨亜……」
ジュリアスに抱き寄せられた万梨亜は、黙って口づけを受けて背中に両腕を回した。しばらくジュリアスは黙って万梨亜を抱きしめているだけだったが、テーレマコスが台所を出て行くのを確認してから、重そうに口を開いた。
「……何ゆえ我等は人から嫉まねばならぬのであろうか。余もそなたもひっそりと生きていたいだけなのに」
「何が見えたのですか?」
「少し先までしか見ていない。未来は普段から見ないようにしている。見れば見るほど絶望した母の例があるゆえな」
そのまま膝に座らされ、万梨亜はジュリアスを見上げた。ジュリアスがじっとその万梨亜を見下ろして、再びキスをする。
「行くのであろうな……そなたは」
「……マリアを助けねばなりません。また、国の事情が絡んでいるのならば仕方ないでしょう」
「国民の一人を護れないで何が国だ」
「言うのもおこまがしいのですが、私はもう第一王子ジュリアスの后です。その后が私情を優先にしたら良くないでしょう」
万梨亜はケニオンで、王妃ヘレネーに醜い女に変えられた時を思いだしていた。あの時は本当に辛かった。あんな思いをする女達を見捨てるなどとても出来たものではない。しかもその筆頭がマリアなのだ。行かないわけにはいかない。
「わかってはいる。わかってはいるのだが、なんとこの身の役に立たぬ事よ」
「ジュリアス様の魔力を頼りにしております」
「万梨亜」
ジュリアスは、事の重大さをわかって居ない万梨亜にいらいらした。そしてこの計略の影に居るであろう神々の一人に嫌悪と怒りを強く感じ、手を貸した魔王ルキフェルとヘレネーに憤りを覚えていた。