ディフィールの銀の鏡 第47話

 万梨亜はクロエに向かって顔を横に振った。クロエも同意見でいてくれるようで、しっかりとうなずく。この男子禁制の神殿に、それも夜に男が入れるわけがないのだ。鍵はしっかりとかかっているし、放置しておけばよいが万梨亜は不安だった。一応身を護る武器として短剣を持たされてはいるが、百戦錬磨と聞いているオプシアーに敵うかどうかわからない。部屋の戸は木でできていて心もとなかった。

「万梨亜様、大事なお話があるのです」

 オプシアーの静かな声に、クロエが何かを言おうとしたのを万梨亜は手で制して止めた。ここで返事をしているところをもしも巫女達が聞いていたら、どんな問題に発展するかわからない。ただでさえ暴行騒ぎのせいで、ディフィールの評判はリーオで地に堕ちているのだ。今度は后である万梨亜が、聖なる神殿で男と密会しているなどと言われかねない。

 万梨亜もクロエも沈黙を保った。お願いだからこのまま帰って欲しいと万梨亜は必死に願った。その思いのせいか、胸の魔力の石が熱くなり青い光が衣服を通してほとばしってきた。

「どうしても開けないのね」

 今度は若い女の声に変わった。巫女達の策略だったのかと万梨亜が身構えた時、開かないドアを通り抜けて一人の美しい女が入ってきた。あきらかに人間ではない。万梨亜もクロエも目を見張り硬直した。魔物ではない神々しさがその女から感じられ、神々のうちの一人だとわかった。豊満な裸体を隠そうともしない女は、豊かな金髪をさらりと背中に流した。

「淫乱な女だと聞いていたのに違うのね。つまらないわ」

「……失礼ですがどなたですか?」

 万梨亜が問うと、女は金色の眉をわずかに吊り上げた。

「人間の分際で自分から名乗りもしないの?」

「……招かれもしないのに勝手に入ってきた方に、礼儀など必要でしょうか?」

「万梨亜様っ」

 明らかに神々であるのに理を諭そうとする万梨亜に、クロエがすがり付いてきたが万梨亜は無視した。並々ならぬ敵意を感じる相手に敬意など必要ない。先ほどのリーオの国王もずいぶんな態度だったが、この女は嫌に万梨亜の感情を刺激した。

「ほほほ……まあ許してあげましょうか。そんな強気な態度も私の名を聞けばできなくなるから。私はカリスト。お前たちが明日会おうとしている女神よ」

「……私は万梨亜です。生憎まだ穢れを祓っておりませんので、ここへお越しいただくのには気が引けます」

「幾多の男に抱かれた女奴隷が、どれだけこの神殿の聖水で身を清めようと無駄よ。まあ、私もたくさんの男を知ってはいるけど。勘違いしないで? お前と違って私は崇められているわ」

 黄金のオーラを纏いながら、カリストが敵意をみなぎらせて微笑む。万梨亜は自分の立場を思い出した。

「カリスト様ならご存知ですね。暴行事件の真相を」

「ええもちろん。私が仕組んだ事だもの。あのケニオンの魔女がうまく立ち回ってくれて助かっているわ」

「では私が来たのですから、ディフィールの女達にかけた呪いを解いてください」

 跪きもしない万梨亜に、カリストの目が怒りを含んだ。しかし万梨亜はひるまない。敏感な女の部分がそうさせないのだ。ジュリアスは言っていた、このカリストに言い寄られて困っているのだと。愛する男を奪おうとしている女に好意的な女が居るわけがない。

「跪くのは簡単です。ですがカリスト様がご所望なのはそれではないはず。本当は一体何を私に望んでいるのですか?」

「さすがはあのジュリアスの后ね。聡い事。ジュリアスの力で本来の姿を取り戻したお前は怖気つく事も気弱になる事もない。主神の妨害がなければさっさと葬っていたというのに……」

「…………!」

 侍女のクロエは女神の存在感に負けない万梨亜に驚いていた。気づけば万梨亜の胸の魔力の石がさらに光を放ち、女神の黄金のオーラに勝る勢いで光り始めている。万梨亜も神々の一人なのかと思わせるような、そんな美しさが彼女を取り巻いているのだ。カリストがそれに気づいて不快に眉を顰めた。他の人間なら恐れおののいて地面にひれ伏すところだが、万梨亜は臆さない。

「女神カリストの本当の望みはなんですか?」

 ジュリアスと同じように万梨亜の双眸に青い炎が燃えて、カリストは一瞬たじろいだ。何故人間ごときに、女神である自分が気後れを感じなければならないのかわからない。自分は神々の中でも一番美しいと言われているのに、何故この女のほうが美しいのだ。憎しみが女神の中で嫌というくらい燃え、それを感じ取ったヒューが、ピイピイと威嚇した。

「ならば言ってあげるわ。お前がジュリアスと別れたら、ディフィールの女共の呪いを解いてあげる」

「私がここへ来れば解くという話だったはず。貴女は女神なのに神託を違えるのですか?」

「おだまり! 私に逆らう気?」

「逆らってなどおりません。私はジュリアス王子のものであり、ジュリアス王子も私のものです。他の誰にも渡せません!」

 青い光がますます強くなってきた。万梨亜の感情の高ぶりに比例して強く輝く光は、もう女神を圧倒している。カリストが唇を屈辱に震わせた時、小鳥のヒューが突然美しく大きな白い鳥に変わった。

「ヒュエリアっ! なんでここに……」

「やはりお前では話にならんな」

 カリストの叫びと同時に、武装した男が現れてカリストの肩をつかみ、後ろへ乱暴に追いやった。クロエが驚いて万梨亜の前に立ったが、万梨亜はそのクロエを押しのけた。本当は胸が痛いくらいに緊張している。でもここで負けるわけにはいかない。ディフィールのこれからとジュリアスとのこれからが、今の一挙一動で決まってしまうのだから。

「ほう……これはこれは……。わが弟はなかなか美しい女を后にしたようだ」

「貴方が今回の黒幕ですね。どなたです」

「気が強い女は好きだ。わが名はデキウス。お前の夫のジュリアスの兄に当たる」

 男が頭にかぶっていた鎧を取った。デキウスの顔にあのテイロンの面影があるが、テイロンのような柔らかな穏やかさはなく、不満が常に常駐している嫌な気配がした。

「ジュリアスは何も望んでなどおりません。誤解をお解きください」

「奴が何も望んでおらずとも、父や他の神々が望んでおる。ゆえに邪魔なのだ」

 デキウスが持ち上げた右の手を床にだらりとさせると、手のひらから水が流れ出てきて、意思を持ったそれが万梨亜の身体に迫ってきた。クロエが水を万梨亜から離そうとしたが、一緒になってどんどん水の中に万梨亜とともに巻き込まれていく。ヒュエリアと呼ばれたヒューは再び小鳥に戻ってしまい、万梨亜の服の中に潜り込んでしまった。万梨亜はジュリアスの言葉を思い出して、水に包まれる恐怖に耐えた。

『そなたは人の身でありながら、天上界へ行く事になろう。そこで余を縛るものを断ち切ってきて欲しい……』

 しかし、これだけは言わなければと、水が首元にまで及んだ時に万梨亜はカリストに言った。

「ディフィールの女達にかけた呪いを今すぐ解いてください! 約束を守らぬ神なのですか貴女は!」

 カリストはそれまで呆然としていたが、万梨亜の叫びにはっとした。どうも万梨亜が思っている神とは違い、こちらの神はどこまでも人間臭い。

「う、うるさい。今すぐ解くわ。でもお前は二度とジュリアスには逢わせない。覚悟なさいっ」

「呪いを解くのですね? 今すぐ」

 マリアやディフィールの女を救いたい。万梨亜は今その事しか考えられなかった。水は顔に及んだが、不思議な事に呼吸ができた。呼吸ができる事で水に対する恐怖が薄れていく。どちらにしろ得体の知れない水であるのに、万梨亜の心は何故か凪いでいく。まるでいつも未来を知っているジュリアスの心が万梨亜の心に摩り替わったようだ。

「解くわよ! でももうジュリアスは私のものよ。わかったわね!」

 そのカリストの声を聞いたのを最後に、万梨亜は水に完全に包まれ深い眠りに誘われた。

 同じ頃、眠っていたジュリアスは、突然目覚めて寝台から起き上がった。窓の外は雲に覆われて月も見えない。遠くで衛兵の焚く篝火だけがうっすらと室内を照らしている。

「万梨亜、天上界へ行くか……」

 静かにジュリアスは左手で胸を押さえた。指輪は外れる事無くその指に輝いていた。

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