ディフィールの銀の鏡 第48話

 王宮の急使が来る前に、ジュリアスは朝の王宮の城門を潜っていた。鉢合わせした急使が慌てて内容を奏上するのを手を上げて制し、無用だと告げて馬を降り足早に歩いていく。万梨亜がリーオの神殿で姿を消したという情報を一番早く掴んだのは、他ならぬジュリアス自身だった。ジュリアスはテセウスの国王の部屋に入り、そこで元通りになっているマリアを見て、少しだけ微笑んだ。

「……呪いが解けたようだな」

「万梨亜がうまくやってくれたのでしょう」

 気まずそうにしているマリアの代わりに、テセウスが言った。国王の部屋には国務大臣のクレオンが控えていて、事務的にリーオからの詳しい情報を述べた。それはおおよそジュリアスが夢で見た事と一致していた。

「まさか神殿でこのような失態を起こすとは、リーオもとんでもないしっぺ返しをしてくれたものです。メノスも一晩中何を警護していたのやら」

 クレオンはそう締めくくった。そして随行していた隊長のメノスに処罰を下すとも。確かに一国の王子の后をあっさり拉致されるなど、職務怠慢と言われても仕方がない。万梨亜が拉致されたのを朝まで知らなかったというのは、彼の采配がまずかった証明だ。いかに巫女達がディフィールを嫌っていようとも、その辺はきっちり押さえておくべきだったのだ。

「処罰がないと面目が立たないというのが軍人というものらしいから意見はせぬが、神々が相手では人間はどうする事もできぬよ。カリストは余に言い寄っていたゆえ、何かをしでかすとは思っていたが」

 ジュリアスが言うと、テセウスが仰け反って非難がましい視線を向けた。

「それも頭に入れておくべきだったのです。共に、兄上にも責の一端はございますぞ。兄上がカリスト女神に言い寄られていたなど初耳です。そうと知っていれば、他の人選を致しましたのに」

「だから余は同行せぬと言ったではないか」

「何故同行しないかの説明が足りませんでした。女神を挑発したくないとの事でしたが、私達は同じ神々であられる兄上が行かれると女神を挑発するのだと取りました。それなのに……はあ……。あまり言いたくはございませんが、私を含め大半の者達は真実の眼など持ち合わせておりません。そのあたりをご承知いただきたく思います」

「そういうものか?」

 見ていたクレオンはテセウス同様頭が痛くなってきた。だが、政務を一部の貴族に丸投げしていた前国王に比べれば、説明不足などはるかにマシだ。

「ともかく、これはリーオ側の失態でもあります。男子禁制だと兵を拒否して后を預かりながらこの杜撰さです。これならば男子禁制でも部屋まで警護申し上げるべきでしたね」

「さてな、裏でケニオンが手を引いているのだろう? こっちが怒るのを待っているのかもしれん。兄上はどう視えますか? ……兄上?」

 ジュリアスは、自分の左手の指輪をじっと見ている。

「余には確かに真実の眼があるが、災いにしかならぬと言っておく」

「は?」

「わからぬか? 敵はそれすらも己の戦略に入れて動いておるのだ。余程の事がないかぎり余は軍に関しては意見はしない。リーオの国王は知らぬが、ケニオンのデュレイスもヘレネーもよく余を知っている。ゆえに余が動くとやつらの思うがままになってしまうと言っているのだ」

「しかし……、折角未来が視えるというものを使わない者がおりましょうや?」

 ジュリアスは首を横に振る。

「未来というものは、人の動き一つで刻々と変わっていくものだ」

「されど、兄上は万梨亜の覚醒を予知されていたからこそ、異次元で……」

「それは余が、万梨亜という人間をよく承知して愛していたからこそできた事だ。しかし国という途方も無い数の人々の欲望の前では全く当てにならぬ。真実の眼で変わらぬ過去を見るのは良いが、次々と変わりゆく未来など見てなんとする。余がもしも、ディフィールがケニオンに今年中に滅ぼされると言ったらどうするのだ?」

 ジュリアス以外の三人の顔色が変わった。

「そ、それはまことでございますか!」

 クレオンがどもりつつ詰め寄るのをジュリアスは柔らかく手で制し、テセウスに鋭い視線を投げつけた。

「国王たるもの、何を言われても動じない心が必要だ。未来予知などという不確定のあやふやなものに踊らされるようでは真実滅びようぞ」

 国王にとっては最大級の悪趣味な洒落を聞いた気分だ。テセウスは恨みがましくジュリアスをにらんだ。

「……お人の悪い」

「情報操作もケニオンの得意とするところだ。現にリーオでの暴行騒ぎは近隣諸国に言い広められているぞ」

「存じております」

「ならば、さっさとリーオと仲直りするなり手を切るなり大臣どもと相談せよ。いずれにしてもあの国王の命は短いとそなたも踏んでいるのであろうが。余に言えるのはここまでだ」

「兄上……」

 テセウスはクレオンに退出を命じ、呼び出した女官長にマリアを退出させた。体調が回復しきったとは思われないところへジュリアスが国が滅ぶなどと茶化したせいで、マリアの顔色が明らかに悪くなっていた。

 ジュリアスと二人きりになると、テセウスは苦しげに漏らした。

「一番私が恐れているのは、ディフィール内部での裏切りです」

「そうだな……」

「マリアはまだ揺れております」

「わかっている。どうしてもわが后に対してもわだかまりが解けぬようだ」

 テセウスはクレオンの前では見せなかったふかいため息をつき、どっかと豪奢な椅子に腰を下ろした。

「王妃という身分にありながら、どうしてあのように一王子の后に過ぎぬ万梨亜にこだわるのでしょう? 魔力の石がないのを気にしているのでしょうか?」

「さあて……、それもあるやもしれぬが、それ以前に万梨亜に対するいじめぶりを見ていると深い嫉妬が見え隠れしている」

「嫉妬?」

 

 ただの一奴隷だった万梨亜に? とテセウスの顔は言っている。

「人を貶める輩は、格が上の相手を自分の下へ突き落として自分は突き落とした相手よりも優れていると誇示するような、何の努力もせぬ敗北者であり無能者だ。突き落とせば突き落とすほど、自身が崩壊しているのに全く気づいておらぬ。厄介なのは相手を道連れにしようとする恥知らずだが……」

「それが今のマリアだと?」

「そうは言わぬ。だが、そう仕向けられる危険がある。ケニオンの女狐めに気をつけよ」

 窓の外はいい天気で、小鳥のさえずりが聞こえるほどの平和ぶりだ。テセウスは目にしみる緑に目を細めた。

「マリアは、万梨亜以外の人間にはとても優しいです。子はまだおりませぬが、王妃としての勤めを立派に果たしております。それなのに、何故自分を追い詰めるのでしょうか」

「皆それぞれ超えねばならぬ壁がある。大事なのはお互いを愛する心だ。そなたは一心に彼女を思ってやれ」

「……はい」

 テセウスは今、国の内外の政務で多忙を極めている、唯一のやすらぎといってもいい王妃が揺れているのはかなり辛いだろう。だが、彼が国王の責務を放置すればディフィールは本当に滅びてしまう。ジュリアスは励ますようにテセウスの肩に両手を置いた。

「軍や政には口出しはしないが、個人的な事ならいくらでも口出しするゆえ安心せよ」

「なんですかそれは」

 ちいさく吹き出すように笑い、テセウスはそれはそうとと言った。

「万梨亜が誰に拉致されたのか調べませんと」

「必要ない。万梨亜は、我が兄のデキウスに拉致されて天上界へ行った」

「なんと!」

 ふわりと青いオーラがジュリアスから沸き立ち、長い髪を揺らした。

「魔力の石の力は彼女がここにおらずとも使える。それゆえ魔法を使う事に不安はない」

「し、しかし、人間が天上界へ入るなど……」

 ジュリアスの美しさに神々しさが入り混じった。これを見る度にテセウスは兄と自分の格差を痛感するのだった。

「万梨亜はもう人間ではない。そのように余が彼女を作り変えた」

 そこに、ジュリアスの神々としての傲慢さと万梨亜に対する執着が垣間見えた。誰にも興味を持たないと言われていたジュリアスの変化に、テセウスは愛というものについて考えざるを得ない。

「愛とは一体なんなのでしょう?」

「……相手の自由と幸せを願いながらも、束縛して己の目に留め置きたいと思ってしまう。多数の女を愛する父のテイロンにはないその残酷さが余を蝕むのだが、そう思う自分に陶酔しているのを否定できぬ」

「それは私にも言えます」

「多数の女を愛するのと、一人の女を束縛するのと、どちらの男が女にとって幸せなのであろうな?」

「……女次第でありましょう。女とて男から男へ渡り歩いたり、一人に固執して嫉妬の炎を燃やしたりしております」

「つまりは相性か……」

 そこへ足音も慌しく、閉じられた扉の外からクレオンが叫んだ。

「陛下、一大事です! リーオが同盟を破棄し、リーオに滞在している我々の隊と戦闘中との知らせが今入りました!」

「何!?」

 気色ばむテセウスの後ろで、ジュリアスは疲れたように目を閉じた。テセウス達に対してああは言ったが、ジュリアスには大抵の未来が見えている。余程の奇跡が起こらないとその未来は変わらない。奇跡を起こせるのは、その場にいる人間達だけなのだ。無力すぎる自分がジュリアスは歯がゆかった。

(万梨亜。過酷な責を望んだ余を恨んでもかまわぬぞ……)

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