ディフィールの銀の鏡 第49話

 万梨亜が目覚めると、そこは水晶の壁で出来た冷たい感じのする部屋だった。地上では考えられないような豪奢な装飾が施された壁には、さまざまな色の宝石が埋め込まれてきらきらと輝いている。横になっていた寝台の上掛けやシーツも、絹のような綿のような不思議な触り心地だった。

 かなり大きな部屋だったが、誰も居らずしんとしている。クロエも確かあの妙な水に巻き込まれたはずだった。しかし彼女の姿はない。大きな窓から見える景色はのどかなもので、緑豊かな木々に色とりどりの花が咲き乱れていた。見たこともない金色の鳥が飛んでいくのが見え、ここはやはり天上界なのだと万梨亜は思った。

「……それにしても誰も居ないのかしら」

 万梨亜は裸足でぺたぺたとドアのある部屋の奥に歩いた。すると、もう少しというところで両開きの扉の片方が乱暴に開いた。

「きゃ……」

「もう目覚めたのか」

 入ってきたのは鎧を脱いだデキウスだった。テセウス達や貴族達が着ている、古代ローマの貴族のような格好をしている。

「食事を持ってきてやったから、食べるがいい」

 デキウスがいい匂いのするトレイのふたを取ると、一人分にしてはやや多いようなスープや煮込んだ肉、パンなどの皿が載っていた。だが万梨亜はそれを無視してデキウスに言った。

「クロエはどこです?」

「あれに用は無いゆえ、家に帰した」

「家って……」

「ディフィールの家だ。私の力を持ってすれば容易い事」

「…………」

「疑っているのか? ならば見せてやる」

 にやりと笑ったデキウスはトレイを水晶のテーブルに置き、左の手のひらから、水をほとばしらせた。水晶の床に落ちた水は意志があるように円形に広がり、やがてその中にクロエが何かを訴えている映像が浮かんだ。

「クロエ!」

 声は聞こえなかったが、クロエが何かをテーレマコスに必死に訴えている。おそらく自分の事だろう。そこは王宮のテセウスの部屋のようで、テーレマコスの後ろで椅子に腰掛けている難しい顔のテセウスが見えた。

「さまざまな術を使った為に、時差が出来てしまった。だからこの女はたった今この男達の前に、突然空間の裂け目から落ちたように見えただろうよ」

「さまざまな術……」

「そうだ。何しろリーオに居るケニオンの兵どもに加勢したからな」

「!」

 はっとした万梨亜が水鏡から顔を上げると、にやにやと腕を組んで笑っているデキウスと目が合った。

「貴方なの? リーオに裏切りをそそのかしていたのは」

「いいや。そそのかしていたのはケニオンの王よ」

「デュレイス様が……」

 水鏡がふっと消えた。

「あの王はまさしく野心に溢れた奴よの。戦嫌いなのかと思っていたが、なかなかどうして……」

 万梨亜は唇を噛み締めた。異世界へ来たての頃はデュレイスはとてもそんな男には見えなかった。変わったとすれば、万梨亜がジュリアス誘拐のためにディフィールに送られている間にヘレネーと結婚してからだ。あの魔王の妹ならば、デュレイスを変えるなど簡単だろう。

「貴方、ヘレネーと何かしているのね?」

「さあ? 私は魔王とはいろいろ手を組んではいるが、あの魔女には会った事がない。何だお前、まさかあの魔女が王を変えたとでも言いたいのか? 愚か者が。あやつは元からああいう野心があったのだ。それをヘレネーが開放しただけだろうよ」

「…………」

 くっくとデキウスが笑った。

「ではお前は、あのジュリアスがいきなり戦好きになると思えるか? 思えまい? 人が生まれ持った心はそうは変わらぬ。王はもともと世界征服の野心があった。それに引き寄せられたのがあの魔女だ」

「……デュレイス様が、もとから残虐な方であったというの?」

「そうだ。お優しい男ではとてもケニオンの王にはなれぬ。多くの王族がケニオンの王座を狙っていたのだからな」

 夢の世界での強引なデュレイスを万梨亜は思い出した。信じられないほどの傲慢さだった。あんな男ではなかった。いつも万梨亜を気遣ってくれたし、嫌がるようなまねはしない優しい性質で……。だからこそ万梨亜は最初ジュリアスのやり方に反発もしたし、なんとしてもケニオンへ帰らなければと思ったのだ。だが、実際にはジュリアスなどとても足元にも及ばない傲慢さだ。二人は似ているようだが全く違う。ジュリアスはお互いのため、デュレイスは己のためだけに万梨亜を望んでいる。

「しかし、人間というものは馬鹿げたものだ。たかが百年足らずの寿命しかないのだからおとなしく過ごしていればよいものを、何故あのように血眼になって人のものを奪い合うのだろうな」

「そんな人間ばかりではないわ」

「……ほう。虐げられ続けたくせに生意気な口を聞く。お前が一番人間の醜さを知っておろうに。他人の持っているものを自分が持っていないとわかり、それを妬んでは足を引っ張り合っているではないか、蛆虫のような者達が」

「貴方とどう違うの? ジュリアスに与えられそうな王座を奪おうとしているくせに」

 ぎらりとデキウスの目が光った。

「蛆虫の分際で私に意見をするか」

「でも事実だわ」

「……まあよい。そんな口が聞けるのも今だけだ。さあ……これからしばらく地上は戦闘ばかりが続くぞ。ディフィールが滅ぶ様をここで見ているがよい」

 ぎょっとした万梨亜の細い顎を、デキウスがゆっくりと掴んだ。

「武器の供給が出来なくなったディフィールがどう戦う? リーオはケニオン側に回ったのだ、しかも私が味方をしている、ディフィールには万が一の勝ち目も無い。ああ……、リーオに居たディフィールの兵どもは、ほうほうの体で数を半分に減らして帰ったようだな」

 自分に付き従ってくれていた兵達を万梨亜は思い出し、胸が痛んだ。皆、万梨亜を一心に護ってくれていたし、そこには誠意しかなかった。

「……裏切りを、主神がお許しになるはずが」

「馬鹿めが。テイロンは戦争には手を貸さぬ。ただリーオはこの先テイロンに憎まれた国になるであろうから、ケニオン以外は相手にせぬであろうな。お前が望むテイロンの天罰はリーオには下らぬ」

 万梨亜はデキウスの手をさっと顎から振り払い、きつく睨んだ。

「そんな事を望んでいるのではないわ。何故貴方は神なのに人々を不幸にするの? カリスト女神も」

「お前は本当に何もわかってはおらぬ。異世界の人間共が作り出した幻の神をこの世界の神に当てはめているようだが、神々にとって人間が泣こうが死のうが不幸になろうが知った事ではないと言っておこう」

「では何の為に神殿があるの!」

「さあな。人間共が勝手に我等におもねっているだけだ」

 カリスト女神といい、デキウスといい、この世界の神が皆このような存在であるのなら、ジュリアスが神になどなりたくないと言っていたのがわかる気がする。誰がこのような神々を崇めるというのだろう。人間にとって神は平和の象徴であり、善の存在であると思っていた。だがこの世界ではただの傲慢な支配者にしか見えない。

「……それで私をどうしようというのですか」

「わかっているだろうが。お前はジュリアスを殺すための贄だ」

「贄?」

 デキウスが、すっと右手の人差し指で万梨亜の胸を指した。途端に魔力の石が反応して熱く、青く、光り輝く。水晶の部屋は青い光に満たされた。

「その石の力が無ければあれは何も出来ない。無様な人間と同じように、ディフィールに攻め入ったケニオンの兵どもに殺されて死ぬのよ」

「おかしな事を言うわね。なら、何故私を殺さないの。私を殺せば手っ取り早いじゃない!」

「お前は、ディフィールが滅んだ後に、ケニオンに贈る手はずになっている……。それに、やって貰わねばならぬ事があるのだ。ふふふ」

 やってもらう事? そして恐ろしい密約に万梨亜の双眸が凍った。あのヘレネーが居る王宮に自分が贈られたくなどない。

「ジュリアスが死ねば、お前は新たな男を捜さねば死ぬる運命。知らなんだか? 魔力の石の力の根源は”想い”。それが無ければ魔力の石を持つ女は生きられぬのだ。だからこそそなたの命と石は直結しておるのだから。思い当たる節はあろう? 最初はデュレイスへの愛のためにお前は生きていた、どれだけ奴隷として蔑まれようとな。次はジュリアスへの愛のため……どうだ?」

 万梨亜は青く光っている胸に両手を重ねた。ジュリアスが言っていた話とデキウスの今の話では合わない所がある。ジュリアスは離れていても魔力の石は使えると言っていた。これは罠か何かなのだろうか。万梨亜は迂闊な事は言えないのだと口を噤んだ。

 ジュリアスは言っていた。自分を縛るものを天上界で断ち切ってきて欲しいと。

 それは一体何なのだろう……。

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