ディフィールの銀の鏡 第50話
「リーオはどうなっている?」
「わかっておいでのくせに。オプシアーがうまくやっておりますわ」
杯を手に椅子にもたれているデュレイスに、ヘレネーが酒壷を傾けた。真紅の酒がとろとろと注がれ芳醇な匂いが漂う。デュレイスはリーオで起きたディフィールとの戦いには参加していない。兵を派遣するのみで王宮で報告を待っていただけだった。出番が無くて暇なデュレイスは、昼間から自分の部屋でヘレネーを相手に酒を飲んでいる。
「リーオ国王に対するクーデターはすぐに起きます。そして後釜には貴族達を上手く騙したオプシアーが就きます」
「そう上手くいくものかな」
「疑っておいでですのね。相変わらず疑い深いお方」
ヘレネーの唇が重なり、デュレイスは黙ってそのヘレネーを抱き寄せたが、すぐに離して杯の酒を口に含んだ。
「父があらゆる女に手をつけているとは思っていたが、奴隷女にまで手を出していたとは知らなかった」
「ほっほほ。英雄色を好むとは異世界では申します」
「どちらにしろ、あれがリーオにいたのは好都合だったな。もっとも今のようなリーオを作り上げるのが父の目的だったのかも知れぬ」
しかし、本当に言いたい事はそれではないようで、わずかに目を逡巡させた後にデュレイスは言った。
「……万梨亜は本当にここへ来るのか?」
「魔王からはそのように伺っております」
ヘレネーすまして応えた。
「どうかな。そなたが殺してしまうのではあるまいな」
どこから聞かされたのか、デュレイスはヘレネーが万梨亜を追い出して、彼女に化けていたのを知っている。おそらく魔王が言ったのだろう。ヘレネーは妖艶な笑みを浮かべ、デュレイスにしなだれかかった。
「もう悋気は燃やしません。いかなる事もデュレイス様の御心のままに」
「嘘は申さぬであろうな?」
「我が命に誓って」
「ふ……」
小さく笑ったデュレイスが酒を飲み干して、再びヘレネーをかき抱いた。ヘレネーはそのデュレイスをしっかりと抱きしめたが、双眸は赤く光り見えない女を睨んだ。デュレイスは、どれだけ尽くしてもヘレネー一人を愛してくれないひどい男だ。手をつけている女はケニオンの中にも沢山居る。最近のデュレイスはヘレネーが何かしでかすかもしれないと警戒し、魔族を雇って彼女達を護らせている。それが王宮の片隅に確かに存在しているのだから、彼女は内心で憤懣やるかたない。だがそれでもヘレネーはデュレイスを愛している。戦っている時の冷酷で無慈悲な剣の煌きと、瞬く間に緑豊かな大地を荒野に変えてしまう魔法の威力がたまらない。世界を征服した暁には誰もがこの男の足許に跪く、その時デュレイスの隣に立つのは自分だ。
(でも……)
もしその晴れがましい舞台に、正妃であるヘレネーを差し置いて側妃の万梨亜をデュレイスが引き出したら? ヘレネーは目を閉じて考えるのを止めた。
「いかがしたヘレネー?」
「……何も。私を抱いてくださいませぬか?」
デュレイスは黙ってヘレネーを抱き上げ、自分の寝台へ向かって歩き出した。ヘレネーは心地よい揺らぎを感じながら、デュレイスに唇を重ねた。
ディフィールは今のところ国内で大規模な戦火はあがっていない。ジュリアスの魔法で作られた結界が強力なおかげである。しかし、今の状態では国から一歩も出られない。一歩でも踏み出すと結界の効力の恩恵にあずかれず、そのまま敵兵の餌食になってしまうのだから。リーオの裏切りによって武器の供給が絶たれた今では、不必要な戦闘は避けなければならない。周囲はケニオンの支配下の国々になってしまっていて、ディフィールは孤立状態に陥っていた。リーオに派遣されていたディフィールの部隊がどうなっているかはいまだにわからない。誰もまだ戻って来ないからだ。ジュリアスはそういった事柄にはいつも口を噤んで何も言わない。
「……まずいな」
「お口に合いませんか?」
ジュリアスは、マリアとテセウスと三人で昼食を摂っていた。万梨亜が居なくなってからたびたびとこういう機会はあり、この三人の姿を見るたびに、女官や侍従達は本当に憎み合いは止めたのだなとホッとするのだった。今日は生憎の雨で室内に食卓はあったが、天気のいい日はテセウスの部屋の前の美しい庭で摂るのが通例となりつつある。
「料理ではない……」
ジュリアスはフォークを置き、黄金のコップの水を一口飲んだ。
「マリア」
「……はい」
声をかけられてマリアはびくついた。彼女はジュリアスの真実の眼が恐ろしい。
「そなたは懐妊している」
一瞬マリアは時が止まったようだった。ぴくりとも動かなくなった彼女のかわりに、テセウスが椅子を立ち、座っているマリアを大喜びで抱きしめた。
「まことですか?」
「確かだ。まだ日が浅いゆえ気づいていないのだろうが……」
「とても喜ばしいではありませんか! マリア、やっとだぞ」
「は……い」
マリアは当惑している。欲しい欲しいと思っていたが、いきなりその現実が目の前に迫るとどうしたらいいのかわからない。そしてジュリアスの冷え切った青い眼が喜ばせてはくれないのだ。
「……確かに喜ばしい。だが、これでますます危険が身に迫る」
「兄上、それは」
「すまぬ。そなた達は何も悪くない。だが、これからますます戦争への色が濃くなるゆえ、ついこのように言ってしまった。何も出来ぬ自分がひたすら無念だ」
わずかに俯いたジュリアスにテセウスが言った。
「兄上の結界はわれらを護っているではありませぬか」
「外敵からは護られようが、内側に生ずるものには何も出来ぬ。……マリア」
「……はい」
マリアは硬い表情を崩さないまま、ジュリアスにおそるおそる頷いた。
「万梨亜はそなたを苦しめる為に存在しているのではない。それゆえ自分を責めるのは……」
「私はあの子が嫌い! 嫌いなんです骨の髄から! どうやったって好きになれない!」
ジュリアスが全てを言う前に、マリアが反射的に叫んだ。テセウスが止めようとしたが、マリアにとって万梨亜の存在は起爆剤そのものらしい。先ほどまでのしおらしい彼女はもう居らず、長い髪を振り乱して目を怒らせている悪鬼のような女がそこにいた。
「何で皆あの子をかばうのよっ。あの子もあの子よ。なんで私がいじめていたと知って怒らないの? 偽善者ぶって、一体何様のつもりなの!」
「マリア」
テセウスが抱きしめようとするのをマリアは振り払った。
「陛下もなんですか! ジュリアスを馬鹿にしていたくせにいきなり兄上様ですって? どうしていきなりそんなに優遇されるの? この者達は王宮に入れるはずもない忌まれる者だとおっしゃっていたのに。……きっとあの万梨亜にほだされたのでしょう? そんなにあの子がいいの? 何がいいの! あの子は皆奪っていくのよ、馬鹿でのろまで人に迷惑しかかけないドジな女が……っ! どうやったって嫌いだわ!!」
叫びつかれて息を乱し、肩を揺らしているマリアに、ジュリアスは静かに言った。
「……余には、そなたが自分で自分を縛り付けているようにしか見えない。何故そんなに自分を傷つける」
「何言ってるの! 傷つけたのは私、傷つけられたのは貴方達よ!」
「それがそなたの哀れなところだ。余も万梨亜も少しも傷などおびてはおらぬ。わからぬのか、そなたは一人で踊っているだけだという事に……」
はっとしたように糾弾を止めたマリアに、ジュリアスは深い哀れみが滲ませた。
「余も最初は何故万梨亜がそなたを悪く言わないのか謎だったが、今ならよくわかる。万梨亜は本気でそなたが好きで、ずっと親友だと思い続けている……もちろん今もだ。そなたがどれだけ表面的に万梨亜を傷つけても、万梨亜はそれを許してしまう。それは卑屈な態度で迎合する野卑な計算に基づくものではない、真実にそなたが好きだからこそなのだ」
悔しそうにゆがむマリアの唇が今にも泣き出しそうだ。外は雨がきつくなってきたようで、雨音が騒がしくなってきた。
「そなたは自分にわびなければならない。万梨亜が本当は好きでたまらぬのだろう? そなたの万梨亜への憎しみは彼女への憧れと劣等感からだ。そなたは万梨亜のように純粋に人を思えない、一途に物事に向かえない、そう思い込んでいたのだろう? そなたとてテセウスを愛して、ここでは人に慕われて王妃らしくしているではないか。その自分の美徳を自分で壊しているのだぞ」
「自分……に」
ふらついたマリアをテセウスが再び腕を伸ばして抱きしめた。テセウスは黙ってマリアの頭をゆっくりと撫で、自分を見つめるマリアに笑いかけた。
「もう母になるのだ。自分をいい加減に万梨亜への劣等感から開放してやれ。許してやれ。万梨亜は万梨亜でそなたはそなただ。醜い心で自分を貶めるものではない。人を貶めずともそなたは自分らしくあればそれでよいのだ。このままでは真実そなたはそれで滅びようぞ。それを傍目に見て悲しんでいる人間の存在を、わからぬそなたではあるまい」
マリアの頬に涙が伝った。ジュリアスは侍従や女官達に退出の目配せをし、自分も静かに席を立った。
「兄上」
「あとは頼む」
テセウスとマリアにジュリアスが微笑んだ時に、雷鳴が轟いた。
部屋を出た途端にジュリアスの顔から微笑みが消え、別人のように冷たい顔になった。そのまま庭に続いている廊下を歩き、そこから黒い雲が垂れ込めている空を見上げる。昼だというのに夕暮れのように暗く、雨は滝のように木々や美しい石畳を叩きつけている。ジュリアスは青い炎を双眸に一瞬宿せた後、ゆっくりと雨に向かって手を伸ばした。瞬く間に手の平に水が溢れて腕を伝っていく。
「そう急かすものではないデキウス。気の毒な方よな、主神に近い地位にありながら、貴方はもっとも知るべき事を主神に教えてもらっていない」
稲妻が呼応するように雲を引き裂き、先ほどより大きな雷鳴が轟いた。まるでデキウスが怒っているようだ。マリアはまだ時間がかかるだろうが、なんとか自分を取り戻そうとするだろう。そうであってもらわなくてはならない、これからのディフィールのためには。そうでなければ……。ジュリアスはずぶ濡れになった腕を下ろした。
「万梨亜……、もうすぐそなたに逢える」
愛する妻に逢えるというのに、ジュリアスの表情はすぐれない。