ディフィールの銀の鏡 第51話

 晴れの日が多い天上界に珍しく雨が降っていた。水の神のデキウスが生まれるまではずっと晴れの日が続いていたのだが、彼が生まれてから、彼の気まぐれで曇ったり雨が降るようになり天気にめりはりがついたのだという。ただ人間界ではたまったものではない。なぜなら天上界での普通の雨は、人間界での豪雨を意味するのだから。

「雨がきつく降っているようだね」

「はい」

「ヒュエリアが居ないね? どこへ行ったのだろう」

 自分の神殿で、窓から外を眺めていた主神テイロンがにっこりと笑いながら振り返った。パラシドスはそ知らぬ顔で顔を右に傾けて、主神の問いをはぐらかした。

「さて? あの鳥が気まぐれなのは主神もご存知のはずでしたが」

「そうだったかな? 最近の天上界は神ならぬものが侵入するようになったから、追い払いに行ったのかと思っているんだが」

 何もかもわかっているくせに相変わらずな方だと、パラシドスは胸内で毒づきながらも万梨亜に授けたとは言わない。彼女にはヒュエリアが必要なのだ。少しでも愛する女を救ってやりたいと禁を破ってしまったが、ヒュエリアの方も彼女を気に入ったのだから良いのではないかとパラシドスは思っている。ヒュエリアは気難しい鳥で、主神テイロンと自分以外に懐かない。それが自ら万梨亜の許へ飛んでいったのだ。

 パラシドスの脳内の回想を読んだかのように、テイロンが言った。

「皆美しい女に弱いねえ。やれやれ」

「当たり前でしょう」

「そうかな? 外面が美しくとも内面が醜い恋人なんて嫌だなあ。ほら居るだろう? 自分の美しさを鼻にかけて威張ってる奴」

「黙っていればわからないと言いたい所ですが、黙っていてもにじみ出ますからね」

「そーそー」

 うなずきながら、テイロンが意味ありげな笑いを浮かべた。

「ねえ? どうして自分に振り返らないとわかっていて好きになれるの?」

 雨が降る中を、万梨亜はデキウスに腕を引っ張られて歩かされていた。奇妙にも二人は雨に濡れない。水の神のデキウスは雨を自由に操れるのだろう。雨に濡れるのが嫌なのか、一本道だというのに鳥はおろかや神々や他の生き物にも出会わない。

 あれから万梨亜は一人きりにされ、そのまま閉じ込められてしまうのかと不安を抱いていた。そんな中で空が陰り雨が降ってきたので余計に陰うつな気分になっているところへ、再びデキウスが現れて水晶の神殿の外に引きずり出されたのだ。

 ばしゃんとサンダルが水溜りを踏み泥水がスカートに跳ね返ったが、やはりそれも泥のしみをつける事無く滴り落ちて消えた。後姿のデキウスは何も言わない。掴まれている右手はかなり痛み、そこはかとなく緊張感が伺える。一体どこへ向かっているのだろう。天界といえど、外の雰囲気は人間界とはほとんど変わらない。しばらく歩いた二人はやがて森の中へ入った。うっそうと茂る森は木々が空高く枝葉を広げて競い合っており、昼間だというのにかなり薄暗く不気味だった。見知らぬヤドリギや、奇妙な香りがする粘液を滴らせている花が、より一層その不気味さを際立てた。

「……一体ここに何があるのですか?」

「この奥に用がある。お前にしか入れない場所ゆえな」

「神々の貴方でも入れないのですか?」

「そうだ。主神以外はお前しか入れない。とある者からの情報によるとな」

「人間の私が入れて、神々である貴方が入れない? そんなおかしな話が……」

 万梨亜が苦笑しかけた時、突如二人の目の前の木々がざあ……と左右に退き、開かれた土の道の奥に、蔦のような植物が柱に絡まっている古ぼけた神殿が現れた。

「これが証拠だ。普段この森は神々といえど誰も入れない。だがお前を連れていると可能だった。それはあの神殿に入る事が出来る者だという証だ」

「私にあそこで何をしろと?」

「あの中に主神の証である宝石が安置されている。それを持って来い」

「見た事もないのにわかるはずないじゃない」

「胸の石が教えてくれる。それに従えばいい」

 馬鹿げた話だ。断ろうとした万梨亜はデキウスに右肩を掴まれ、その痛みに顔を顰めた。

「持ってこなければ、ケニオンに命じてディフィールへ侵攻させる。周囲の国々は皆ケニオンに服従し、ディフィールだけが今だ戦っている状態だ。ふふふ、援軍は来ずに武器の供給もない……ひとたまりもなかろうな?」

 目を見開く万梨亜に、デキウスがにやりと口角をあげた。

「お前が抗えばディフィールの民は皆殺しにされる。当然愛しいジュリアスもだ」

「そんな事できるはずがないわ。だってジュリアスが……」

「あの男の結界など我の力の前にはひとたまりもない。試してやろうか今?」

 恐ろしい話に万梨亜は震え上がった。嘘かまことかわからない脅しだが、もし真実ならどうなる? せっかくカリスト女神の呪いを解いたというのにこれでは意味がない。

「……私に主神しか触れなさそうな石が持てると思うの?」

「さてな? 触れた瞬間死ぬかも知れんが、そうなったらまた他の人間を探すまでだ。今までにも数人試したが、そやつらは皆ここにたどり着く前に魔物や植物達に殺されて食われたようだ。あの神殿の中にも何か潜んでいるのだろう」

 万梨亜は古い灰色の神殿を見上げた。人の気配など全く感じられない廃墟のような建物だ。森の植物達が神殿の内部に繁殖していて森と一体化している。こんな神殿に入りたくない。だが自分が行かなければディフィールは滅ぼされてしまう……。

「……その石で貴方は何をしたいの?」

「お前は、まだ自分の立場がわかっておらぬようだな!」

 怒りに顔を歪めたデキウスが右腕を大きく掲げた。天から目がくらむ光がその右腕に集まる。

「何をするの!」

「黙っておれ」

 地面に突如真っ黒な空洞が出来た。力任せにデキウスの右腕が振り下ろされ、凄まじい雷の咆哮がそこから落ちていった。地響きがして人間界のどこかに大規模な落雷が起こったのがわかる。時空を乗り越えて天上界と人間界が繋がっているのが、何故か万梨亜は体感できた。デキウスが哄笑した。

「ああ……しまった。ついディフィールの王宮近くに雷を落とした。あの近くの森は今頃大火事だろうな……」

 わざとだ。万梨亜はジュリアスの身を案じた。肉眼で見るのは不可能だが間違いはない。悔しいがデキウスの命令通りに神殿に入るしかないらしい。睨む万梨亜をデキウスは鼻で笑った。

「ごまかしたり逃亡したらすぐにディフィールは滅びる。お前の魔力の石などなんの役にも立たない、覚えておくがいい」

「本当にディフィールに攻め入らないのでしょうね?」

「全てお前次第だ」

「…………」

 万梨亜は、ぎゅっと両手を握り締めた。

 不気味な神殿内部に入った万梨亜は、デキウスの卑怯さに腹が煮えくり返る思いだった。それにこれは主神テイロンに対する裏切り行為で、ばれたら主神の怒りがディフィールに行くのではないだろうか。だが今はデキウスの命令を聞くしかない。万梨亜は真っ暗な神殿の奥を目指してゆっくりと歩いた。やはり植物達は、万梨亜の歩みにしたがって道を開けていく。ふと、ぼんやりと光る草があたり一面を照らし、真っ暗な廊下を明るくした。廊下を右に曲がると一番目のドアが現れ、万梨亜は開けようとしたが鍵がかかっていて開かなかった。植物も絡まったままだ。おそらくここではないのだろう。諦めてそのまま進み次々と現れるドアに片っ端から手をかけたが、いずれも固く閉ざされて開けられなかった。

(入れただけで、宝石に触れたりするなんて不可能なんじゃないかしら?)

 足許の草がまた光った。まるで万梨亜を奥へ奥へと誘う様に草は光り、万梨亜が通り過ぎると消えていく。もう外の雨の音も聞こえない。聞こえるのは万梨亜の呼吸と、履いているサンダルが石の床を踏みしめる音だけだ。生き物の気配は全くない。上手に己の気配が消せるのかもしれないが、それにしては静か過ぎる。植物達がずりずりとまた道を開け、ぼんやりと光る草が万梨亜の足許を照らした。空気はどこと無く湿っていて、かび臭いような気がする。

「…………!」

 いきなり胸が熱くなり、万梨亜は左胸をそっと押さえた。見下ろすと魔力の石が光り輝き始めている。

「何? これ……」

 ずくんと心臓が飛び跳ねるような衝撃が走った。主神の宝石が隠されている神殿になど入ったから、この身に災いが起こるのかもしれない。それでも万梨亜はどくどくと高鳴る胸を押さえながら、ひたすら光る草を目当てに奥へ進んだ。いつの間にかあんなに生い茂っていた植物はつる草の様に床を這って光る草のみになっていて、石の床は鏡のように磨かれた大理石に変わっている。

 廊下の一番奥まで歩いた万梨亜の前に、豪華に装飾された両開きの扉が現れた。

「……ここ、かしら」

 万梨亜は手を伸ばし、扉の片方に触れた。すると胸の石が我慢しきれないほど熱くなり、同時に重々しいきしむ音を立てながら扉が左右に開いた。一瞬、目のくらむような光が目に飛び込んできて、万梨亜は腕で目を庇った。

「…………」

 暗闇に目が慣れすぎていたらしい。部屋の明かりは、部屋の至る所に置かれている燭台の灯りだった。デキウスの神殿でも部屋の装飾に目を瞠った万梨亜だったが、この部屋の方がはるかに優れている。ここまで華美に飾る必要があるのかと思うくらいのまばゆさで、まるでおとぎの国に来たようだ。胸の石は青く光ったままで、万梨亜はおそらくこの部屋のどこかに石があるのだろうと思い、足を踏み入れた。

 部屋はそう広くなかった。異世界の万梨亜の感覚で学校の教室二部屋分くらいの広さだ。高さは二倍ぐらいだろうか。ディフィールの王であるテセウスの部屋は、確かこの三倍の広さがあった気がする。シャンデリアがキラキラと光り輝いてまぶしい。紺色の絨毯には金糸で花の刺繍が一面に散っていて、花畑のように美しかった。

「さて……宝石は」

 見回すと部屋の奥に豪華な棚があり、沢山の宝箱が並べられているのが見えた。あの箱のいずれかにあるのだろう。

「あら…………?」

 棚の横に寝台が置かれていた。紗のカーテン越しに内部が青い光で輝いている。胸の石と同じ明るさと青さだ。万梨亜は気になってその寝台に近寄り、紗のカーテンをそっと開いた。

「え?」

 横たわって眠っていたのは、万梨亜がとてもよく知っている人物だった。しかも左手が勝手に、その人物の青く光り輝く胸の部分に引き寄せられていく。

「ちょ、なんで、勝手に……!」

 手を引こうとしても誰かに操られているように引けない。意思に反して、万梨亜はその人物の胸に手を置いてしまった。

「くっ!」

 びりびりと痺れる衝撃が左手を通じて身体全体に走った。何故か力が抜けて、万梨亜はがくがくと震えながら床にうずくまり、胎内を走り回る衝撃が収まるのを待った。胎内の衝撃は収まっていくにつれ、動揺だけが大きく広がっていく。有り得ないのだ。どうして? 何故、彼がここに居るのだ? 彼がここに居るはずがない、居るはずがないのに。

「……大丈夫か?」

 聞き覚えのある声が寝台から響き、万梨亜は差し出された見覚えのある左手を見て、その持ち主に視線をあげた。

「どういう……事なの?」

 見上げる万梨亜の視線の先に、豪華な衣装を纏ったジュリアスが寝台の上で柔らかく微笑んでいた。

web拍手 by FC2