ディフィールの銀の鏡 第53話

 テーレマコスはジュリアスから前もって説明を受け予期していたとはいえ、主人であるジュリアスが突然倒れて目の前で青い石になってしまいかなり動揺していた。報告を受けるテセウスも、テーレマコスの横で固唾を飲んでいるクレオンも、テーレマコスの大きな手のひらにある楕円形の青い宝石を見つめるばかりだ。

「……つまり兄上は、そのもう一人の分身が眠らぬ限りその状態であるというのか?」

「はい」

 それぞれの席についている将官達も、じっとテーレマコスの手の宝石を見つめている。全員に見せ終わったテーレマコスは、その青い宝石を絹のような光沢のある白い布に包み、自分の首に下げている小さな袋に入れた。

「ジュリアス様は結界が消えないようには出来ると申されておりましたが、その強度はどうしても低くなる。それゆえ苦しい立場がますます苦しくなるが、諦めずに対処するようにと話しておいででした」

「デメテルに再度かけ直させてはいるが。なんという事だ、仲直りしたばかりだというのに。それに……」

 テセウスが額に手を当てた。この機をケニオンが逃すはずが無い。近いうちにディフィールは戦場になるだろう。ジュリアスが居ない今、魔法の戦闘ではるかに不利になる。武力の戦闘も相手が百戦錬磨のデュレイスと周辺諸国が相手では、勝敗は目に見えて明らかだ。だが諦めるわけにはいかない。ディフィールは堅固な山に囲まれた国であるおかげで、他国からは攻め入りにくい。そして今年は豊作だった。武器は足りないが物資が豊かであれば周辺諸国から封鎖されてもやっていける。これ強力な軍があればケニオンなど恐るるにたらずと言えるが、残念ながらまだ兵の訓練が発展途上だ。テセウスが国王になってからまだ一年足らずである現在、全てにおいてケニオンに劣っている。

「軍の編成を新たにやり直さねばなるまい」

 テセウスが将官達に案を求め会議が進んでいく中、ドタバタと侍従長が走ってきて部屋の入り口で跪き、テセウスに向かって叫んだ。

「陛下に申し上げます。たった今、リーオよりエウレシス殿、メノス殿が、リーオ前国王を連れて帰還なさいました」

 その場が喜びと驚きにどよめいた。テセウスは信じられないという顔をした。

「二人とも生きていたのか?」

「は。かなり負傷されておいでですがしっかりされています。ただしリーオ前国王殿は瀕死の重傷を負っておいでのようです」

「……リーオでクーデターが起きたと聞いていたが」

 考え込むテセウスに、クレオンが怒り気味に口を開いた。

「同盟を裏切るような人間を王宮に入れるなどまかりならぬ。エウレシスとメノスはかまわぬが……」

「まあ待てクレオン。これは唯一の好機やも知れぬ」

「陛下は何を考えておいでか。かの国王はわが国を裏切ったのですぞ」

「確かにそうだが、今では最高の獲物でもある。どのみち瀕死の重傷を負っている人間に何が出来よう」

「いいえ、油断がなりませぬ。どうしてもと申されますのなら我が屋敷にて監視させていただきたい。私は公爵でありますれば、かの国王のプライドにも触りますまい。侍従長、そのように手配を。そしてエウレシスとメノスをこれへ」

「は!」

 侍従長の姿が消えると、テセウスはゆっくりと息を吐いて背もたれに凭れた。将官達も小声でひそひそと会話を始めた。この一週間ばかり、リーオに派遣されていた者達の消息はぱったりと途絶えていたのだ。何者かによる伝達魔術の妨害により、ディフィールは手をこまねいていただけだと言っても過言ではない。もうすでに戦死したのではという噂まで流れ始めていた。

 やがて鎧がかなり破損し身体中至る場所を負傷している、エウレシスとメノスが現れた。エウレシスは右足を骨折して杖を突いている。二人はよろよろとテセウスの前まで来て跪いた。

「陛下、務めを果たせなかった我らにお目通りのお許しを頂き、恐悦至極に存じます」

 エウレシスが深く頭を下げた。メノスは下げられない箇所を負傷しているようでエウレシスほど前に屈めない様だ。テセウスは二人の極度の疲労を察し、手短に質問した。

「それぞれの部隊の兵は?」

「私めの部隊は45名、メノスの部隊は23名でございます。いずれも負傷の度合いが深く、魔力も体力も尽き、今まで報告が叶いませんでした。また、魔術師が狙われ全て殺されたせいでもあります」

「魔術師が狙われたか。ふうむ。して、何ゆえリーオの前国王が一緒なのだ?」

「逃走中に何故か彼と彼の側近の一行と鉢合わせしたのです。助ける必要もないかと存じましたが、自分は同盟を破っていないと言い張る国王を見捨てるわけにも行かず……」

「他に何か言っていたか?」

「オプシアーなる者に謀られたと」

「今の国王だな。成程。よい、そなたらはご苦労であった。挽回の機会は生きていればまた訪れるゆえ、早く家に帰って養生するがよい。他の者も同様だ。魔術師、医師も派遣しよう」

 敗走し、兵士の数を激減させた者にたいしての寛大過ぎるテセウスの処置に、将官の一人が声を上げた。

「責は問われないのでございますか? 特にメノスは万梨亜様をお護りできなかったのですぞ。しかも両名とも兵の七割以上を失う失態。示しがつきません」

 賛同する声がばらばらと出た。エウレシスもメノスも己の失態を骨の髄まで身に沁みて恥じているので、頭を垂れたまま身動きしなかった。テーレマコスはエウレシスの膝と腕が震えているのに気づいた。よく見ると顔色が土気色になっている。おそらく常人であればとっくに失神して倒れている身体を引きずって、職務を全うしようとしてここまで帰ってきたのだろう。

 テセウスが声を上げた将官に目を向けた。

「……そなたがエウレシスやメノスであったとして、今以上の状態を維持できたと思うのか?」

「それは……」

「ケニオンにはおそらく神々の誰かの加護がある。精鋭の兵を援軍に持ったリーオの手勢に魔術師を殺され、生きて帰れたと思うか? 帰ってきたとしておめおめ屈辱を浴びにここへ来れたのか?」

 その将官はテセウスの言わんとした事がわかったようで、恥じ入るように頭を下げた。しかし、またここで大神官のネペレがテセウスの怒りを注ぐような事を言った。

「ここは神々に対して許しを乞うべきでしょう。怒りを解いてくださるように盛大な祭りを……」

「たわけ者が! 何故何もしていない我らが許しを乞う必要があるのだっ!」

 いきなり怒りを爆発させたテセウスに、ネペレは動じる事無く続けた。

「ジュリアス様が石になられたのは、主神テイロンのお怒りをお受けになったからでしょう。そういう前例がございます。さらに万梨亜様もカリスト女神のお怒りに触れて失踪されました。その上将兵のこれほどの消失は……」

「いい加減にせぬか! 神々の怒りは確かに恐ろしい。だが何かが起こるたびに祭りをして金銀財宝やいけにえを捧げれば、何でも勝手に解決するとお前は思っているのか!」

「はははは。そのように神を蔑ろにされるので神々がお怒りなのでしょう。次回の主神祭にはぜひとも……」

「前の国王とそなたら神殿側が食い潰した資産が、いかほどになるか言ってやろうか。その浪費さえなければ我らはこれほど疲弊はしておらぬ。その豊かな物資で近隣諸国ともうまくやっていく方法も取れたのだ。ぺらぺらぺらぺら、そなたの口から出るのは神の名を騙った物乞いばかり。もう我慢がならぬ。今ここで大神官の職を解く!」

 叱責だけならまだしも職をとりあげるテセウスに、居並ぶ将官達もクレオンもテーレマコスもびっくりした。ネペレは顔を怒りと恐れで青くしている。神殿側の勢力は王宮内でもかなり幅をきかせているため、軽視できないのが今のディフィールだった。

「陛下。お怒りはごもっともでございますが、性急に過ぎると存じます。せめて更迭で済ませられては……」

 クレオンがいつものように宥めた。テセウスは視線で射殺せそうな程の殺気をネペレに向けていたが、ようやく怒りを己の中に封じ込めた。

「クレオンの言う通りだな。事が治まるまでネペレを更迭する。代理は副神官のアリスタイオスがせよ」

「なんと! あのようなどこの田舎者かわからぬ輩に……っ」

 ネペレが巨体を震わせて怒りをあらわにした。アリスタイオスとはテセウスと懇意にしている神官で、貴族出身のネペレと対立している民間出身者だ。魔術師の資格を持っている有能な若者であり、魔術師長デメテルの薫陶も篤い。

「神官の資格に身分も出身も関係ない。能力があればこそ彼は副神官になったのだ。早くこいつを連れて行け!」

 ぎゃあぎゃあわめくネペレを二人の近衛兵が引きずり出していった。テセウスは表情を和らげてエウレシスとメノスに視線を落とした。

「二人ともよく生きて帰ってきた。帰らぬ者達の家族へもそれなりの事をするつもりだ。戦死者の慰霊祭も行おう。だが今はいつ侵攻されるかわからぬゆえ、すぐとはいかないのをわかってくれ」

「陛下の……お言葉に、亡き者達も……慰められましょう……」

 張り詰めていた糸が切れたように、エウレシスがばたりと横に倒れた。それこそが彼が聞きたい言葉だったのだろう。医術と魔術の心得があるテーレマコスはさっと近寄り、応急処置を施して担架を呼んだ。メノスも同じように担架に乗せられて運ばれて行く。テセウスが言った。

「リーオ前国王の比較的元気な側近を呼び出せ。叔母君のアンテュクレイア様の消息が気になる。それにおそらく前国王派はリーオ国内に潜んで、オプシアーとやらの打倒を謀っているはずだ。彼らと手を結び内部から揺さぶりをかけて、リーオとの同盟を復活させる」

「はっ!」

「本日はこれで終了する。おのおのの職務に戻れ。異変があれば早急に連絡せよ」

 居並ぶ将官達が頭を下げた。テーレマコスはテセウスに石をもっとよく見せて欲しいと言われ、会議の間に残った。テセウスはテーレマコスが差し出した、青く透き通った石を左手でぎゅっと握りしめてつぶやいた。

「……この石は温かいな」

「まことに。生きておいでなのがわかって安心できます」

「テーレマコス」

「はい」

「兄上は戻ってきてくれると思うか?」

 テーレマコスはにこりと笑った。

「ジュリアス様は、負ける戦はなさらない方です。必ずお戻りになるでしょう。考えてもみてください、自分の身が第一の薄情な方が逃げもせずに、王宮にずっとつめている私の傍に居たいと申されたのですよ」

「それも、そうか……」

 くっとテセウスは笑い、二人は哄笑した。

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