ディフィールの銀の鏡 第57話

「今、なんと申されました?」

 テセウスの聞き返しにソロンは涼しげに微笑む。

「王妃マリアをケニオンに遣るべきと言った」

「馬鹿なっ! 貴方は一体何を考えておいでか」

「女神の言伝だと言ってもか?」

 ソロンが背後のカリスト女神に化けているヘレネーを指すと、テセウスは舌打ちせんばかりに苦々しい顔になった。テセウスが信仰しているのは主神テイロンで、愛と美の女神のカリストはどうでもいいとまでは言わないが、国政に介入してくるような存在ではない。はっきりいって邪魔だ。それなのに、つい最近の呪い騒ぎのせいで女神に対する恐れがディフィールで生まれ、カリストの神殿を作らなければと言う声まで上がっている。

 将官や大臣達を集め王宮会議を開いていたテセウスは、乱入してきたソロンとカリストに突然このような事を言われて不愉快極まりない。この世界では神々は畏怖すべき存在であるがゆえに、このような事をされたら自分はともかく他の者達は震え上がってしまう。無理やり連れてこられた万梨亜は、テセウスの気持ちが手にとるようにわかる。異世界の日本では神々が政治に介入するなどありえない。宗教と政治は分離していて当たり前だ。ところがこの異世界でそれを唱えるのは、異端者となってしまうらしい。

 一方で、書記として控えていたテーレマコスも訝し気にソロンとカリストを見ていた。テーレマコスは神々を畏怖する分類に入るが、なんとも言えない違和感を感じたのだ、おまけに胸に収められているジュリアスの石がなんだか熱い。これはよからぬ事が起きる前兆ではないか。

「私が言えば、ケニオンの王も諸国もディフィールを攻め入るような真似はさせません。でも、ただではといかないのは当たり前でしょう? 永遠に返さないと言っているのではないし、身の安全は私が確保してあげるわ。たったの一月ぐらい外遊のようなもの。いたずらに血を流す戦争を起こすより、こちらの方がはるかに良くてよ」

 カリストが妖艶に微笑みながら言い、テセウスとテーレマコスそして万梨亜を除いた全員がその魅力に魅了されていく。ずっと戦争に反対しているクレオンが言った。

「良い話ではありませんか。陛下、戦争をせずにすむのですよ」

「そなたは何を言っているのだ!」

 テセウスは怒ったが、場の雰囲気がクレオンと同調しているのを感じ取り戦慄した。まるで集団催眠だ。先ほどまで戦争するべしと話が流れていたのに、女神が現れた途端にがらりと王妃マリアを差し出そうという意見に変わってしまった。もしもこの場に宮廷魔道師長デメテルや副神官アリスタイオスが居たなら、カリストに化けているヘレネーの正体に気づけたかもしれない。二人とも血筋は遠くとも祖先のどこかに神がいるので、その血が正体をおぼろげにでも見破れたであろうから。

 しかし、デメテルは国の結界強化のために魔力を使いすぎて先日倒れ、アリスタイオスも大神官に代わる激務に追われてこの場に居ない。それですらもヘレネーが影で糸を引いているとは誰も知らない。ヘレネーは女神の仮面の下でほくそ笑んだ。つい先程テセウスに、神々は人間のように姿を現す事は無い、女神の証をと言われて、瞬く間に嫌い合っていた王宮付きの侍女と一人の騎士を恋に堕ちさせたり、醜女を美女に変えたのが効果あったようだ。ヘレネーにしてみれば簡単な事なのだが。

 テセウスにしてみれば、ますます重くなる女神の存在が面白いはずが無い。皆がテセウスの決断を待って沈黙した。テセウスはしなくてもすむ人質の差し出しがやるせない。マリアには子供が居るし、手放したくない。テセウスには子供が居ない。せっかく宿ったものをケニオンに見破られでもしたら……!!

(兄上ならどうおっしゃるだろう……)

 自分に頼るなと言ったジュリアスの笑顔が、テセウスの脳裏をよぎった。

「……陛下」

 テセウスは弾かれたように顔をあげた。いつの間にか王妃マリアが部屋の戸口に立っている。マリアは一時的に両脇を侍女に支えてもらわなければならないほど体調が悪かったが、今日は一人で立っていて、侍女達も後ろ二名付き従っているだけだ。それでも相変わらず顔色が悪く、透き通るような美しさだった。テセウスは厳しく言った。

「王妃、ここは貴女が来る様な場ではない」

「私の処遇について意見がかわされていると聞きました。ならば、私も居る必要があるでしょう」

「王妃」

 マリアは侍女を従えたまま万梨亜の前を通り過ぎ、椅子に座っているテセウスの隣に立った。

「私の身ひとつでディフィールが救えるのなら、私はケニオンへ参りましょう」

 その言葉にテセウスは驚き、将官や大臣達からは賞賛にも似たため息がもれた。万梨亜もテセウスと同じように驚き、前に出ようとしてソロンに止められた。

「邪魔しないで!」

「一国の王妃が決めた事を覆そうというのか? おまけにあれはお前の親友であろうが」

 ソロンのたしなめるような物言いに、万梨亜はきっと睨み付けた。

「貴方はデュレイスを、妃のヘレネーを知らないからそんなふうに言えるんだわ! あの場所がどれだけ辛い場所だと思うのっ」

「カリスト女神が護ってくれると言うではないか」

「それでもよ。嫌な予感しかしないわ」

「科学とやらが発達している世界から来た割には、予感などというあやふやなものを信用しているのだな」

 一瞬ソロンの目が赤く光ったように見え、万梨亜は口を噤んだ。カリストに化けているヘレネーがそのソロンをさっと自分の背後に回し、目を見開いている万梨亜に優美に微笑む。

「人間とは本当に可哀相なものね。未来が見えないから予感なんてものに頼らないといけないのだから」

「人間の世界の争いに、何故女神の貴女が介入するのです」

「ふふ、デュレイスが好きだからよ。お前とて知っているでしょう? あの男の身体がいかに素晴らしいか……」

 閨の事を示唆された万梨亜は顔を熱くさせてしまい、デュレイスの手を払うように首を横に振った。目の前ではマリアがケニオンへ行く日程の話になりつつある。こんなところで喧嘩をしている場合ではない。万梨亜は再びマリアへ向かおうとして、今度は背後に回っていたソロンに羽交い絞めにされた。

「自分をいじめた女などどうでもよかろうが? それ相応の報いを受けたほうがお前もせいせいするだろう?」

「ジュリアス王子の半身の言葉とは思えない」

「それはジュリアスが甘すぎるのだ。それゆえ主神になど向いておらぬ」

「甘くて結構よ。離して、止めなきゃ……」

 しかし、ソロンの腕はさらにつよく万梨亜に巻きついた。

「王子妃にしか過ぎぬお前に何ができる」

 万梨亜は何故か身体全体がだるくなってきた。おかしい。さっきまでは元気だったはずなのに。気力がすうすうと穴が開いた風船のように抜けていくような感覚に見舞われ、倒れそうになったところをソロンに横抱きにされる。それに気づいたテセウスが椅子から腰を浮かせた。

「万梨亜はどうした?」

「気分が悪いそうだ。部屋まで送っていく」

「……そうか」

 深いため息をついてテセウスは椅子に座り、意見が覆せないまま会議の進行を見るしかなくなった。何かがおかしいのはハッキリとわかるのに、多人数の雰囲気に完全に飲まれてしまい口が挟めない。王妃マリアの言葉のせいで何もかもが台無しになってしまった。テセウスは誰にも聞こえないように小声でマリアに言った。

「とんでもない事を言ってくれたな」

「……陛下のお悩みを消すのが王妃の務め。それに国の対面を保つ方法はいくつでもありましょう」

「何?」

 テセウスは、王妃然としているマリアに顔をあげた。

「王妃」

「大丈夫です。貴方の誇りを汚させませんから……」

 マリアは寂しそうに呟き、日程が決まったら教えて欲しいと言い残して部屋を出て行った。二人の侍女もマリアの背後に付き従っていく……。

「万梨亜はどうしたの?」

 背後から声をかけられたソロンは、王妃マリアに振り向いた。おおよそ好意的ではない眼差しに射抜かれてもマリアはひるまずに立っている。仕方なくソロンは言った。

「具合が悪いのだ」

「そう……。万梨亜は昔から頑張り屋だから無理をしたのかしら」

 淡々としているマリアに、ソロンは言葉の刃を向けた。

「そうだな。お前が無理させるように昔から仕組んでいたからな」

「……貴方は本当に形だけしかジュリアスに似ていないのね。嘆かわしい事」

「何だと」

 小さく笑い、マリアは気を失っているのにしんどそうな万梨亜の頬に軽く触れた。

「私のした事を許して欲しいなんて思わないわ。嫌な女で結構。だから謝らない」

「どこまで性根が腐っているんだ」

「さあ? どちらにしても、私はこんなところに居たくは無いわ。私はケニオンに行けるからせいせいしているの。ふふふ。皆馬鹿よね、どのみちここは戦場になるのよ、私が行っても行かなくってもね」

「…………」

 怒りを目にたたえているソロンの横を通り過ぎながら、マリアが言った。

「貴方達が来てくれて好都合だったわ。人質と言う名目があるおかげでおおっぴらに安全な場所へ避難できるもの。戦争で疲弊して死んでいくなんて絶対に嫌」

 ふわりとマリアがつけている花の香水の匂いがした。ソロンはその匂いを鼻にして、はっとする。精神部分だけヘレネーの呪縛が解けたのだ。しかし肉体の動きはまだ封じられているため、今すぐ会議を止める事はできない。口さえも、ヘレネーの言葉に反する事を言えない様に呪縛されているのだ。マリアがそんなソロンをあざ笑った。

「貴方も私も同類よ。貴方に私を非難する権利など無いわ」

 ソロンは去っていくマリアをただ見送るだけだった。

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