ディフィールの銀の鏡 第58話
覚えのある野原と木陰に、万梨亜はジュリアスに逢える夢の中に居るのだと気付き、あたりをきょろきょろと見回した。相変わらず春のようにけぶった陽射しに美しい野の花が咲き乱れている。
『ジュリアス、どこに……』
小鳥がさえずりながら枝から枝へ飛んでいく。そういえばヒューが現れないがどうしてなのだろう。そよ風が長い黒髪を揺らし、万梨亜は青空を仰いだ。すると、その青空からジュリアスが溶け出でるように現れて、万梨亜の前へ静かに降りてきた。
『ジュリアス』
笑顔になる万梨亜に、ジュリアスも優しい笑みを浮かべた。
『久しぶりだ』
頬をわずかに染めた万梨亜はジュリアスの男を煽り、すぐに口付けが降ってきた。そのまま芝生のような草の絨毯に押し倒され、まさかここで抱く気なのかと万梨亜は胸を弄るジュリアスの手を止めた。
『外では……嫌です』
『そなたの夢だ。誰も居らぬ』
『それでも嫌です』
恥ずかしがる万梨亜を見下ろしてジュリアスが苦笑した。そしてぱちりとしなやかな指を弾き、すぐそばにソロンの神殿のような建物を出現させ、万梨亜を驚かせた。
『こ、れは』
『ソロンの神殿だ。ソロンがそなたを抱いたあの寝台で、あの者の姿を消し去ってやる』
『…………』
すぐにあのソロンの寝室に移動し、万梨亜は再びそこでジュリアスに服を脱がされて横たえられた。
夢の中なのに夜になっていた。薄暗い中で気だるい身体を起こした万梨亜は、すぐにジュリアスに抱き寄せられた。
『久しぶりにそなたを抱けた』
『……だめ、ちょっと休みたいです』
股間に割り込むジュリアスの手が、夢の中なのにいちいち生々しい。ジュリアスは弄ぶのを止めた。
『王妃マリアがケニオンへ行くと言ったそうだな』
『私は止めようとしたんです。でもカリスト女神とソロンに邪魔されて』
『そうか……』
『何かおかしな雰囲気でした。なんと言ったらいいのでしょう。二人に従わねばならないというような重圧感があったんです』
『二人は神であるが故、人間では到底敵うまいよ』
『でも、主神テイロンやパラシドスはあのような重圧感はありませんでした』
『主神やパラシドスは神々の中でも高位の存在。威厳がありこそすれ重圧などない、カリストやソロンなど足元にも及ぶまい』
おかしいと万梨亜は思った。ソロンは次の主神を約束されているジュリアスの分身ではないか。つまり高位の存在のはずだ。しかしジュリアスは涼しい顔で枕もとの酒のグラスを口にし、酒を含んだまま万梨亜に口付けて酒を流し込んでくる。その酒の味も何だかおかしい。何か禍々しい毒素があるような気がする。夢なのに現実的なこの夢に現れるのは、夫であるジュリアスだけのはずだ。ジュリアスがこんな気持ちにさせるはずが無いのに……。
『万梨亜、そなたは王妃についてケニオンへ行け』
万梨亜は驚いた。
『なん……で? ……ああ!』
押し倒されて腰が密着し、ジュリアスが濡れそぼっているところへ押し入ってきた。たまらない熱量に万梨亜は震え、ジュリアスの熱い身体に腕を回した。喘いでいる万梨亜の耳元でジュリアスが囁いた。
『そしてデュレイスを篭絡したらよい。この美しい淫らな身体であの男を操れ……』
『そんな……ああっ。ジュリアスはっ……平気、なの、ですか?』
ジュリアスが動くのを止めた。
『ディフィールと王妃マリアのためなら仕方あるまい。そなたはディフィールも王妃も救いたいのであろう? ならば余はおのれの想いを封じ込めねばな。余もディフィールの王子であるのだから……』
『ジュリアス』
辛そうに微笑むジュリアスに万梨亜は泣きたくなった。胸の石が万梨亜の感情に反応したのか青く光り輝きかけた。しかし、すぐに消えて痛みは消えた。そうだ。マリアを助けねば、ディフィールを救わねば。万梨亜はジュリアスに口付けて夫の痛みを分けてもらおうとした。が、その時、再び妙な違和感を感じた。
以前、ジュリアスはこう言っていなかっただろうか。
「余は普通の農夫でありたい。権力も最高の座もいらぬ。万梨亜……、愛するそなたが余の隣で微笑んでいてくれたらな」
……と。もちろん身分相応の行動を取るべきだが、民に馴染んで育ったジュリアスは違う。ジュリアスは一人を幸せにできないで、一国を救えるわけがないという考えの持ち主だ。そのジュリアスが、愛する万梨亜に犠牲を強いるような事を自ら言うだろうか。それはどちらかと言うと、デュレイスのような己の野心のために行動する人間の考え方だ。
黙り込んだ万梨亜から、ずるりとジュリアスが抜け出た。甘美な痺れが走っても万梨亜はもうその悦楽に没頭できない。あっという間に甘い感覚も気持ちも冷めてしまった。万梨亜はジュリアスをじっと見つめた。
『どうした万梨亜?』
『……私はどうしても行かないといけないのですか?』
ジュリアスは苦笑した。
『何を言うかと思えば。そなたはずっとディフィールを思っているし、あの親友とはとても思えぬが王妃マリアを大切にしているのだろう』
『貴方はどうなのです?』
『余か? 余はあのような女はどうでもよい。万梨亜を傷つけた女を許す気にはなれんな。ディフィールもあの女はさっさと廃妃にして新しい王妃を迎えれば……』
万梨亜はすべてがガラスのように砕け散る音を聞いた。同時に胸の石が青く光り輝く。ジュリアスを突き飛ばして寝台を降りると、すばやく自分の周りを防御壁で囲った。
『貴方はジュリアス王子ではない! 誰なの!』
寝台の上のジュリアスは驚いたように目を見開き、ついで呆れたように笑った。
『何を夢の中で寝ぼけておる? 余はジュリアスだ。それを証拠にヒュエリアも反応せぬ』
『ヒュエリアは関係ないわ。貴方は誰なの!』
『いい加減にせよ。余を疑うか』
やはり違う。ジュリアスは確かに強引だが、こんなふうに感情を操るような威圧的な言葉は言わない。ではこれは誰だ。寝台を降りたジュリアスがゆっくりと近づいてくる。その笑みは間違いなく彼なのに、絶対にジュリアスではない。これは夢だ。夢なのに。現実に限りなく近い夢なのに……違う。万梨亜は思い至る一人の人物の名を口にした。
『……ソロンなのですか?』
ジュリアスだと思っていた男は、ゆっくりと微笑んだ。万梨亜はソロンの指先が、自分の作り出した防御壁をなんなく破壊していくのを見た。身体は動かなかったが、胸の石だけが光り輝く。
『夢を見ておれば幸せだったものを』
『何故……?』
『簡単だ。私はジュリアスより上位である事を父に認めてもらいたい。そしてお前の魔力の石の力が欲しい。だからお前に愛されたい』
万梨亜の身体は細かく震え始めた。
前回ソロンを止めたヒュエリアは何故出てこないのだろう。
どうして、今この時ジュリアスは助けてくれないのだろう。
『魔力の石は持ち主の女が愛する男にのみ力を与えると言うが……、私はジュリアスの半身ゆえ反応するようだな。お前は私を愛していないのに』
ソロンの手が万梨亜の首筋をゆっくりと撫でて、光り輝いている胸元へ落ち、手のひらで押し包む……。魔力の石の力がソロンに吸い取られていくのを、万梨亜は止められなかった。動きたいのに、逃げ出したいのに足が動かない。夢の中でも身体がだるくなり、立っていられなくなってくる。
『いとおしい万梨亜。ケニオンへ行ってデュレイスを篭絡せよ。そして操るのだ』
『嫌で……す』
『そなたならば簡単だ』
『ジュリアス……ならそんな事は言わない。貴方は……ジュリアスと記憶を……、共有していても……彼では有り得ないのですね。私を一片も愛して……いな……いのですね。愛する妻よ……りも、自分の、……求める王座だけが……大事なのですね。栄光が欲しくて……たまらない、の……ですね……?』
『だまれ!』
ソロンの手が万梨亜の細い首を締め上げた。夢なのにやはり現実味を帯びていて苦しい。万梨亜はソロンの中に巣食う孤独を感じた。泣きたくなるほど辛く、寂しく、空虚だ。知らずに頬に涙を伝わっていく。思えばジュリアスは王族の中で冷遇されていて孤独だったが、テーレマコスやその近辺の民と交流をしていて決してソロンほど孤独ではなかっただろう。明るい温かさが常にあり、それが彼を救っていた。それなのにソロンは主神である父テイロンに封印されて、たった一人、あの暗い神殿の中で眠り続けるしかなかったのだ。
『……かわい……そう』
やっと目覚めたと思ったら父に拒絶され、ジュリアスと記憶は共有していても別人格であるがゆえに思うように行動できず、さらに孤独においやられている一人ぼっちの男。力があっても心が伴っていない。神であっても心は神ではなく、無垢な人間の子供のように見える。
息が途切れかかったところで締め上げる手の力は緩んだが、万梨亜は魔力のほとんどをソロンに吸い取られたため、その場に崩れ落ちた。