ディフィールの銀の鏡 第59話

 ジュリアスは夢の中でたゆっていたのに、妙にまぶしく光り輝くものが降りてきたため覚醒せざるを得なくなった。石となったジュリアスはずっと眠っている状態にあり、絶えず精神はソロンとリンクしている。彼の見ているものや感じた事がそのまま夢となってなだれ込み、ジュリアスの記憶となるのだ。

『いつまで眠っているつもりだ? 早く目覚めたほうがいいのではないか?』

『……今は動いてもどうにもならぬ。余が手を出せば出すほどすべては歪んでいく』

 真っ暗でしんとしていた世界はすぐに美しい野原に変わった。その中でジュリアスは起き上がり、父である主神テイロンを仰いだ。テイロンは相変わらず長くまっすぐな金髪を服の裾まで伸ばし、きらめく雪の結晶を辺りに散らしている。

『このままではディフィールは滅びようぞ。魔女ヘレネーが大神官長ネペレと手を組んで奴を勝手に更迭から解放し、王宮を掌握させつつある。いずれあの国王テセウスは幽閉されよう。そして万梨亜も王妃もソロンもケニオンへ連れて行かれる。万梨亜はすぐさまケニオンの国王デュレイスに捧げられよう』

『余を煽るおつもりか。それぐらい読めている。裏で糸を引いているのは魔王であるのも知っている』

『デキウスは生き残った方を相手にすると決めたようでおとなしくなったが、そのせいで奴らを抑える神がいなくなった』

『もともとデキウスは魔王に操られていたに過ぎぬ。正であれ負であれ、魔力の大きさを比べると魔王のほうがはるかに上だ』

 ジュリアスは目の前を右手でゆっくりと払った。するとその部分の野原がわずかに消え、気を失っている万梨亜がソロンによって馬車に連れ込まれているのが映った。王妃マリアがそれに続いている。

『ディフィールを護っていた結界は、万梨亜の魔力を我が物にしたソロンを支配しているヘレネーが打ち砕いた。もうディフィールは終わりだ』

『だからテセウスはケニオンの条件をすべて飲んだのだ。あの者も変わった……』

 悔しそうに馬車の傍に立つテセウスは、激情をかろうじて表に出さないようにしていた。国王とは感情のままに動けない辛い立場なのだ。

『ジュリアス。お前は一体何を考えている? 何故万梨亜や弟を救わないのだ? あれほど愛していただろうに』

『……国王と同じで、思うまま動けば逆に状況が悪くなる。それゆえ動けぬ』

 そう語るジュリアスの顔は涼しげで、激情を抑えているテセウスとは正反対だった。真実の眼ですべてが見えているのだとしても、その冷たさはおおよそ人間離れしている。人間の部分がわずかにも見えない程に。

『父よ。貴方も一度としてわれらの危機に手を貸しはしなかった。それと同じではないか』

『我とお前達では状況が違う』

『同じだ。貴方はソロンと余を分けた事を後悔し続けている。自分が余計な事をしなければソロンを苦しめなかったのにと』

『…………。あの時はどうかしていた。生きるものは生きる、死ぬものは死ぬ。そうしておけばよかったのに、私はお前が殺されてしまうのではないかと恐れたのだ』

 テイロンはそっとまぶたを伏せた。

『真実の眼は父にもあるのであろうが?』

 一瞬、テイロンの双眸が見開かれ、黄金に煌いた。

『……お前と同じで、自分と同程度の者の未来は途切れ途切れにしか見えない。それゆえ不安になった。お前があのおろかな国王に殺されるのではないかと。魔族や他の神に殺されるのではないかと……』

『必要以上な子供への執着がソロンの不幸を生んだのだ。ましてや当時の貴方は自分勝手すぎた。片方が助かればいいなどとおおよそ親の考える事ではあるまい。どちらも助けようと考えるのが親であろう』

 ジュリアスの言葉は淀みない。テイロンはうなだれて苦笑した。

『子に教えられるとは情けない話だ。当時の我は傲慢だった……主神になったばかりゆえ、力を誇示する事ばかりに熱中していた』

『デキウスのようなものか』

『そうだ。あまりにも似過ぎているゆえにあれは主神にはふさわしくないと判断したのだよ』

 テイロンはゆっくりと屈み、ジュリアスの隣に座った。

『では、ソロンを主神に添えればよかろう』

『あれも駄目だ。あれはお前より強いのだと認めさせようと躍起だ。器が小さすぎる』

『仕掛けておいて何を言うやら……』

『酷な話だが、もうすでに我がするべき事はソロンにはない。あれの苦しみが我の苦しみとなり、共に苦しむのが我の贖罪だ。子供がもがいて苦しんでいるのを知りながらどうする事も出来ないのが、こんなにつらいとは思わなかった』

 すうっとテイロンの頬を透明な涙が伝わっていくのを見ながら、ジュリアスは父の苦しみを己の中に取り込んだ。これでいくぶんかテイロンは楽になるはずだ。気付いたテイロンはお前には負けると恥ずかしそうに微笑んだ。

『我の魔力はもうお前達には及ばぬ。それゆえもう引退したいと思っているのだ』

『まだ早すぎる。我々は力に見合う心が伴っておらぬ』

『………………』

『それに余の望みは、万梨亜と共に土地を耕してささやかな幸せを育む事だ』

『世界はどうなる?』

『余を試すのもほどほどになさるがいい。わかっておられるだろうが。世はなんとかして動かすものではないと。流れていくのを見ているのが最善であるというのに』

『お前はその若さで悟りすぎていてつまらぬ』

 ふてくされたテイロンにジュリアスはため息をついた。

『万梨亜と触れていると宇宙に生かされているのがよくわかるようになる。心を克服したゆえさらにそれを強く感じさせるようになった』

『あれは本当に人間の女なのだろうか。神々にすら心を読ませないのだぞ』

『読まれてたまるものか』

 不機嫌にジュリアスは言い。再び草むらに横たわった。同時に野原は消えて再び周囲は暗闇に戻った。立ち上がったテイロンはそんな息子にやきもきしているようだ。

『万梨亜は寂しがっている。いい加減に力づけてやらぬとそっぽを向かれるであろうぞ』

『逢いたいのはやまやまだが、あの魔女が余を引きずり出そうと躍起になっているゆえできぬのだ。そそのかすでないわ。とにかく今は魔女と魔王の動きを見ているしかない。必死に自分を押さえつけているのは余も同じ。他の男が万梨亜に触れるのは我慢ならぬ、だが動くべきでない時に動いてはよりややこしくなる、仕方がない』

『ディフィールはどうなる』

『わかっていて問うな。すべてテセウス次第。余が助けるものではない。余はいかにすればいいかは既に伝えておいたのだ。それを忘れなければテセウスもディフィールも助かるであろうよ』

『何を言った』

『具体的な言葉は言っておらぬ。でも伝わっている……』

 テイロンはうれしそうに言った。

『信じているのだな……』

 親に褒めてもらったのだと気付いたジュリアスは、照れを隠すように目を閉じた。さっきからソロンの心が泣き叫んでいるのがどうにも気になる。ヘレネーに心を縛られているのだからつらいのはわかるが、なんだか異常だ。

『では我も信じるとしよう。ソロンとお前を』

『…………』

 テイロンが雪の結晶と共に消え静まり返ると、ジュリアスは眠りに入った。ジュリアスは自分の感情をかろうじて制御していた。ジュリアスの心を正常でなくさせるのは万梨亜からの愛だけで、それをヘレネーや魔王は見破って揺さぶりをかけてくる。だから動けない。力づけたいが万梨亜を信じるしかないのだ。ジュリアスが再び万梨亜を自分の胸に抱けるのは、まだまだ先の話だった。

(余も万梨亜を信じている。万梨亜の奇跡を起こす力を与えるのは、揺るがない愛だけだ)

 波立っていた心は再び静まり、ジュリアスは宇宙と同化していく……。

 ルキフェルはリーオの状況を見ようとして眉を顰めた。妨害が入っているらしく真っ暗で、魔法の鏡は何も映そうとはしない。それはディフィールも同様でまったく映らなかった。ヘレネーからは上手くディフィールの大臣達を取り込む事に成功し、万梨亜と王妃とジュリアスの分身であるソロンをケニオンへ移動させる最中だと報告が入ったが、これはどういう事だとルキフェルは頭を傾げた。その脳裏に浮かぶのは銀色の髪に青い炎を燃やす男の姿だ。

「ただの石になっても思い通りにはさせない……か」

 感情のままに魔法の鏡を叩き割るという、おろかな真似をルキフェルはしない。ただ画竜点睛を欠いたような気分になり胸がしょうしょうむしゃくしゃする。何かにつけジュリアスはルキフェルの邪魔をするのだ。農夫になりたいというのならば大人しく泥まみれになっていれば良いものを、何故こうもでしゃばってくるのかと腹だたしい。

「魔王でもどうにもできぬ存在なのね」

 くすくすとそれを見ていた女神カリストが笑う。カリストはジュリアスへの腹いせに今回のたくらみに協力しただけなので、ルキフェルはまったく彼女を信用していない。

「相手にされず、可愛さあまって憎さ百倍で協力した女神としてはどう思われる?」

「減らず口を叩くのね。悔しいわ、あんな人間の女がジュリアスの心を奪うなんて」

「ソロンへ靡いてはどうか?」

「身体は大人でも心はなっちゃいないわ。子供には興味ない。ああ早く見たいわ、あの万梨亜がめちゃくちゃに壊されるところを! ふふふ……ははっ」

 ルキフェル無言で女神の腰を抱いた。これではあのジュリアスの心を奪うなど不可能だなと、内心で嘲り笑いながら。

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