ディフィールの銀の鏡 第60話

 テーレマコスは、深夜にまた淫魔のルシカの来訪を受けていた。書記としてのさまざまな雑務を終えて、眠ろうかとペンを置いた途端に上から突然降ってきたのだ。

「うわ!」

「こんばんは~テーレマコス。うふっ、今日はなんだか元気ないわねー」

「何だお前は。この間来たばかりだろうが!」

 抱きついてくるルシカを引き剥がそうと躍起になりながら、まんざらでもないテーレマコスは顔を真っ赤にしている。この靡く様でいて必死に我慢しているあたりがルシカとしてはたまらない。二人でもみ合っていると、ドンドンと扉を叩く音がして、ニケの開けろと叫ぶ声がした。ルシカを引きずりながらテーレマコスが粗末な木の扉を開けると、ニケが転がり込んできて何故か扉を慌てて閉め、魔法までかけた。

「今日に限ってジュリアス様の館ではなく、自分の家に戻っていて大正解だ」

 ニケが荒い呼吸を繰り返しながらテーレマコスに振り返り、テーレマコスはただならぬ事件が起きたのだと緊張した。

「何があった」

 ルシカを首にぶらさげたまま、テーレマコスはニケに木のコップに入れた水をすすめた。それをがぶがぶ飲んだ後、ニケは言った。

「王宮で一大事だ。大神官長ネペレが国王に反逆を起こしたんだ」

「なんだとっ。やつは更迭されていたはず……」

「魔女のヘレネーがやったのよ」

「ヘレネー? なんでまたケニオン王妃が」

「女神カリストが王宮に現れたでしょう? あれがヘレネーだったってわけ。私達が気づけなかったって事は女神自らがなんらかの形で関与していたに違いないわ。あの女神、腹黒いものね」

「そんな……こうはしておれんっ」

 テセウスが危ない。壁に立てかけてある剣を取ろうとしたテーレマコスは、信じられない力でルシカに寝台へ押し倒された。狭い小屋のような家なのでそれはあっという間だった。

「何をするっ。この一大事にお前の相手など」

 もがくテーレマコスはニケに顔を向けたが、ニケはめずらしく真剣な顔をして首を横に振った。

「あんたも狙われているんですよ。なにしろジュリアス様の石をお持ちですからね。今、ジュリアス様の館は、近衛兵らにぐっちゃぐちゃにされています。そのうち燃やされるんじゃないでしょうかね……、あそこには書籍と農機具ぐらいしかありませんから」

「なおさら……こら、やめぬかっ。万梨亜様は……!」

 ルシカが首筋に吸い付いてきたのを押し留めながら、テーレマコスは叫んだ。ニケが指先で魔方陣を描きながらそれに答えた。

「もう何もかも遅いですよ。万梨亜様は王妃やソロンと一緒にケニオンへ行かれてしまいましたから」

「馬鹿者! お前は王宮の馬小屋にいながらそれを黙って見ていたのか!! 大体何故そんな話にっ。王妃だけではなかったのかっ。くっ……やめ…………」

 胸を弄られて服を脱がされていきながらもテーレマコスは懸命に抵抗するが、二人はテーレマコスを開放しようとはしない。挙句、ニケが転移魔法を使ったらしく一瞬の空間のぶれの後、見知らぬ石造りの部屋の寝台にテーレマコスは移動させられた。ルシカが女とは思えないほどの怪力でテーレマコスを押さえつけながら笑う。

「ここは私の家よ。魔王と言えどもここにはそう簡単に入れないの。うふ」

「まさか魔界か! お前らいい加減にしろっ」

 かんかんに怒っていたテーレマコスは、次のニケの一言で冷や水を背中に浴びさせられたように固まった。

「ディフィールにかけられていたジュリアス様の結界が跡形もなく消えたのです。万梨亜様の魔力で」

 それは万梨亜の裏切りを意味する。テーレマコスが思わず自分の胸にあるジュリアスの石の入った袋を触ったのを見て、ニケはそうではありませんと首を横に振った。

「ソロンがヘレネーの側についたのでしょう。ジュリアス様とソロンは分けられただけの存在で根本は同じです。なんらかの形でソロンが万梨亜様の石の力を利用したのですよ」

「あのボンクラ神、なぜ魔女の肩など持ったのか」

 ボンクラ神という言葉にニケとルシカは笑った。確かにそうかもしれない。ルシカに抱きつかれているテーレマコスを見下ろしながらニケはすぐ傍の椅子に座り、近くのテーブルの籠に盛られている林檎に似た果物を取って噛り付いた。

「甘いけどやりたくなるのが困るなこれ」

「うふふふ、淫魔の家の食べ物は皆やりたくなるような媚薬が入っているのよ」

「いかがわしい話をしている場合か!」

「している場合なんですよ。あんたの今の使命はディフィールを護る事でも、国王テセウスを救う事でもありません。他ならぬ忠誠を誓ったわが君、ジュリアス様を御護りする事でしょうが」

「ジュリアス様に頼まれたのだ、陛下とディフィールを……」

「ですが、今はジュリアス様を御護りするのが第一。ジュリアス様を魔女や魔王に渡していいんですか?」

「しかし……」

 テーレマコスは自分がついていながら、何故何も気付かなかったのだと自分を叱咤していた。これでは何も知らぬ子供のようだ。宮廷魔術師長のデメテルが倒れたのは知っていた。だからこそテセウスが厳戒態勢をしいていたというのに、それは何の役にも立たなかったというのか。思えばクレオンや他の者の様子が変だった。あの時にもっと注意深くしていれば。しかし、万梨亜が倒れて部屋に下がるのと同時に会議は終わり、テーレマコスは他の用事もあって自分の家に帰らざるを得なかった。わずかな時間でこれだけの事が運ばれてしまうとは、前もって地下で陰謀が企まれていたのだろう。ヘレネーと手を結んでいたとなると、最近の異様なネペレの尊大さも腑に落ちる。

「そうですね。ですが、一番の失敗はソロンを放置していた事でしょう。あの神を王宮に幽閉するなりなんなりして、見張っておくべきだったんですよ。ジュリアス様の分身だからディフィールに災いをなさないなんてありえませんから。テセウスもあんたも我々もジュリアス様に依存しすぎた、それが敗因です」

「…………」

 身体中の力が抜け、テーレマコスは自分の能無しぶりを呪った。黙り込んだテーレマコスをルシカが励ますように言う。

「とにかくあんたがヘレネーに捕まらなかったのはもうけものよ。魔王や魔女の狙いはジュリアス王子なんですもの。今頃歯軋りして悔しがっているに違いないわ。私達は大丈夫よ、純粋な魔族ではない神とのあいの子の魔族だから魔王なんかに縛られやしないし、横の連携も強いのよ。皆私達に協力してくれるわ、魔王なんてくそくらえって連中ばかりなの」

「…………」

 目を閉じたままテーレマコスは動かなくなった。真面目一途にやってきただけにやはりしてやられた感が強い。せっかくディフィールは再生されようとしていたのに、以前より悪くなってしまった気がする。さまざまな方向から案は練ってきたが、さすがにソロンを利用されようとは思わなかった。身体は同じくしていようとやはり別人格なのだ。神はきまぐれで、ジュリアスのような神(人間の部分もあるが)の方が稀なのだ。

(わが君……)

 テーレマコスは胸元に下げている、ジュリアスの石が入った袋を握った。

 王妃マリアはディフィールとケニオンの国境付近で休憩をのぞみ、そこでついてきた侍女達に王宮へ帰るように言った。ケニオンへ王妃一人で行くなどとんでもないと泣き付く侍女達に、マリアはさも嫌そうに顔を歪める。

「お前達が居ると邪魔なのよ。私はもうすぐ王妃でなくなるの。ケニオンの王の見初められて華やかに暮らすのだから」

「王妃様……」

 万梨亜にしか見せた事のない本性を、マリアは侍女達の前であからさまにして高笑いした。

「私はこんなに美しいのよ。もっともっとふさわしい地位がほしいの。滅びていくディフィールの王妃なんてまっぴら。だから私の操を護ろうとするあんたたちなんて邪魔以外の何者でもないわ」

「王妃様!」

「ああうっとうしい。私にはディフィールの何も必要ないの。兵達もさっさとお帰り。これ以後はケニオンの兵だけで十分なのよ」

 下品な女のような物言いに、侍女達は失望を通り越して絶望した。こんな女に仕えていたいと誰が思うだろう。マリアはたらたらとディフィールや侍女達に対する不満を口にし始めた。甲高い声で貶し始めたので、馬車の外に居る近衛兵達にもまる聞こえだ。その様子を前の馬車から見ていたヘレネーは薄笑いし、同乗している魔術師を恐れさせた。向かい合って座っているソロンは、万梨亜を抱いたまま横になって眠っている。起きていると面倒なのでヘレネーが眠らせたのだ。ヘレネーは馬車を見張るように同乗している魔術師に言い、馬車を降りた。ちょうどその時馬車の扉が開いて、侍女二人が怒りながら出てきた。しかし続いて降りてきた侍女頭は怒る事もなく沈黙している。

「なんて方なんでしょう、あんな方に仕えていたなんてっ!」

「早く帰りましょう。確かにディフィールは終わりだわ、あんなのが王妃だなんて……やっぱり異世界の女なんてあんなものなのね!」

 何事だと目を丸くしているディフィール側の隊長に、侍女頭が王妃の命令だから王妃一人を残してディフィールへ帰還すると伝えた。驚いた隊長は王妃マリアに説明を乞うたが、馬車の中からマリアの尊大な拒絶が帰ってきただけだった。話し合いがカリストに化けているヘレネーと隊長と侍女頭の間でなされ、ディフィールの近衛兵達はぷりぷりと怒っている侍女達と戸惑いながらも来た道を引き返し始めた。侍女頭はショールを深くかぶったヘレネーに顔を上げた。

「……妃殿下を無体に扱われませぬよう、お願いします」

「安心するが良い、ディフィールに居る頃より幸せに過ごせよう。ただし、怪しい行動をすれば……わかっていような?」

「妃殿下はお身体が弱っておいでです、どうか……」

「そこまで心配ならばついていけばよいものを」

「妃殿下のお望みですので……」

 侍女頭は初老の女で、肩にたらしている茶色の髪には白髪が数本混じっている。今は美しいと誇り高いマリアも所詮人間で、いずれ醜い姿に年老いていく。対してヘレネーは魔族なので永遠に美しい。この侍女頭もかつては王宮一の美女と言われた美しさを誇っていた。前国王の手が付いた事も一度や二度ではない。ヘレネーは侍女頭に将来のマリアを重ね、愉快な気分にならずにはいられない。それは万梨亜も同じだ。ずっとケニオンにとどめて何十年も経てば、いずれこのように年老いて醜くなっていくに違いない。デュレイスもきっと興がそがれるはずだ。その時に死にたくても死ねない地獄へ突き落としてやる……。

「薄情な王妃に薄情な侍女か。ディフィールの人材も尽きたと見える」

「……くれぐれもお願い申し上げます」

 深く頭をさげた侍女頭は、馬車から出てこないマリアにも深く頭を下げ、帰っていく兵達に混じって歩き出した。冬が始まろうとしていて空は曇りがちで空気は冷たく、ぱらぱらと雨粒が降ってきた。

(ジュリアスは逃したが、万梨亜と一緒に必ずや葬り去ってくれよう……!)

 ヘレネーはデュレイスの雄雄しい姿を心に描き、自分の馬車へ引き返した。ケニオンの兵が王妃マリアの馬車の扉を閉め、ディフィールの兵達に代わって周囲を取り囲んだ。そして一行はディフィールの国境を越えてケニオンへ入っていく。

【第三章 幻と愛と 完】 

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