ディフィールの銀の鏡 第65話

「マリアを見かけないけれど、どうしているの?」

「万梨亜様が気にかける必要はございません。きちんと仕事をしておりますわ」

 万梨亜は自分の侍女になったマリアを全く見かけないので、心配になってシャンテに聞いたのに、はかばかしい答えが返ってこない為余計に心配になった。

「奴隷のように扱っていないでしょうね」

「まさか。王妃様の侍女ではないのです。あちらでは王妃様のお怒りを買った者がひどい折檻を受けて落命したりしますけど、それ以外の側妃様はそんな無体な事はなさいません。万梨亜様もそうですし」

「じゃあマリアに会わせて」

 シャンテは困ったように首を傾げ、それはできないと言った。

「万梨亜様には私を含めて十名の侍女がついております。新しく入った侍女がいきなり主人の側に行ったなどと他の同僚にばれたりしたら、そこで陰湿ないじめなどが発生したりします。万梨亜様がマリアを大事にされたいのならそんな命令はされませんように」

「…………」

 そうなのかと思いながら、万梨亜は小さくため息をついた。もしも自分がケニオンで遭わされていたような目にマリアが遭っていたらと、不安でたまらない気持ちだ。一人で数人分の受け持ちの掃除、食事は思い出したように支給される固いパンや冷たいスープ、寒空の下での膨大な量の洗濯物、物置小屋のような家で男奴隷と同じ生活をさせられ、あげく囚人達の塔……あの忌まわしい地下牢に幽閉されるなんて事になったら!

 ディフィールでも一部の者達しかマリアの懐妊は知らされておらず、当然万梨亜もその事実を知らなかった。もし知っていたら意地でも侍女となるのを止めただろう。

 デュレイスは関係ないのだからとディフィールの情報を教えてくれない。関係なくなどない、あるからこそ知っていて教えないのだ。ソロンに大部分の魔力を吸い取られてしまった今の万梨亜は、おそらく成り立ての魔術師以下のレベルの魔力しかないだろう。しかし、体力の復活と共に魔力も徐々に戻ってくる。下手に教えた情報を元に、どういう魔法を使うかわからないから警戒されているのだ。それは当然と言える。これは元の世界のテレビゲームなどではなく、現実に起こっている事なのだから。多くの人々の運命が大国の王にのし上がった国王デュレイスの手に握られている。

「そうですわ。王妃様にご挨拶を致しませんと」

「行かないわ!」

 シャンテの提案を万梨亜は即却下した。

「万梨亜様、それはいけません。ここで王妃様の御不興を買ったりしたらやっていけません」

「とっくに買っているから絶対に会わないわ。不満があるのなら私をディフィールに帰せば良いだけの話よ。それも許せないのなら囚人の塔に……」

「万梨亜様!」

 万梨亜の態度は、シャンテから見たら自暴自棄にしか見えない。しかし万梨亜は少し笑っただけだった。

「第一、デュレイス様が許さないでしょう」

「その通りだ」

 いきなり、ぬっとデュレイスが現れ、シャンテは慌てて腰を屈めた。万梨亜は他の側妃のように国王の来訪を喜んで抱きついたり、腰を屈めたりはしない。不遜な態度なのだが、万梨亜にしてみればデュレイスのやり方に反発しないと、自分がこの境遇を喜んでいると取られかねないのだ。以前の気弱な万梨亜なら絶対に取らなかった態度だ。

「万梨亜とヘレネーは絶対に会わさぬ。そう心得よ」

「は、はい」

 シャンテはそそくさと、酒肴を準備するために部屋を出て行った。窓際から美しい庭を眺めていた万梨亜の背後にデュレイスが立ち、万梨亜の首筋に唇を当てた。

「最近、嫌がらないのだな」

「…………」

 嫌がると余計に情事が長くなるので、万梨亜はデュレイスの求めに逆らわない様にしている。突き放せるものなら突き放したい。自分がどうしようがディフィールはディフィールで勝手をやっているとわかった今では、すぐにここから飛び出して他国に行ってしまいたい。それをしないのはマリアとソロンの身が案じられるからだ。そんな万梨亜の考えはデュレイスにはお見通しのようで、唐突にデュレイスが言った。

「ソロンに会わせるわけには行かないが、マリアにならば会わせてやっても良いぞ」

「本当ですか?」

 願ってもない言葉に振り向いた万梨亜は、デュレイスにそのまま口付けられる羽目になった。成る程、抱せたら会わせてやる……という話らしい。お腹の子供が案じられるが今のところは何の異常もない。でもこれからあるかもしれないと思うと恐ろしい。

「あ……つ」

「どうした?」

 一瞬、下腹が燃える様に熱くなり、万梨亜はしゃがみ込もうとしてデュレイスに抱きしめられた。熱さはすぐに消えたが胸の動悸が激しくなってくる。

「万梨亜?」

「すみ、ません……。なんだか、気分が悪くて……」

 手先が冷たくなってきて、万梨亜はそのままくたりとデュレイスの胸にもたれた。デュレイスが万梨亜の額に手をやると、普段では考えられないような熱さだった。酒などを載せたトレイを持って入ってきたシャンテがぐったりとしている万梨亜を見て驚き、トレイをテーブルに置いて走り寄って来た。

「万梨亜様!」

「医師を呼べ。なにやら下腹を押さえていた」

「はい!」

 シャンテが部屋を飛び出していく。万梨亜は寝台へ寝かせられ、苦しそうに息を吐いた。せっかく今我慢したらマリアに会えたのにと思うと悔しい。知らずに涙が目の横へ流れた。

「苦しいか?」

 デュレイスが優しく囁くが、万梨亜が聞きたいのはこの声ではない。ちょっと意地悪で尊大なのに、妙に涼やかで心地いい声がいい。どうしてこんなに待っているのに夢に現れないのだろう、ずっと待っているのに。ひょっとすると、デュレイスに抱かれてはしたなく声をあげたりしているから、愛想をつかしてしまったのかもしれない。どんな男だって、妻が他の男に抱かれて歓んでいたら離婚したくなる筈だ。

(魔力の石を持っている人間の宿命とはわかっていても、どうしてと思わずにはいられない……)

「元の世界に、帰りたい……」

 ジュリアスにこのまま会えないのなら、この世界で生きていても仕方ない。万梨亜の心はもうくたくたに疲れきっていた。

「もう嫌。辛い……。逃げたい。逃げたい」

 思っても見なかった言葉に、デュレイスはぎょっとした顔になった。万梨亜は自分の情けなさを自覚しながら、上がっていく体温でますます気持ち悪くなってきた。ムカムカと吐き気があがってきて吐いてしまいたいが、今日はまだ何も食べていないので出すものがない。

「おろかな事を。万梨亜。逃げたらお前はその苦しみを一生背負う事になるのだぞ」

 デュレイスの大きな手が、流れ続ける万梨亜の涙を拭った。しかし、もう万梨亜の意識は深く沈んでしまったようで返答はない。黙って万梨亜の涙を拭い続けるデュレイスの元へ、シャンテと宮廷医師が現れた。医師は万梨亜を丁寧に診察し、最後にこれは……と、驚いた声を出した。

「どうした?」

「側妃は、懐妊しておいでです」

「本当か!」

 デュレイスの顔が喜びに輝く。医師ははっきりとうなずいたが表情が冴えない。妊娠初期の高熱は、母体にも芽生えたばかりの命にも危険なものだと言うのだ。高熱は病によるものではなく鬱屈している心から来ているもので、万梨亜の望みを可能な限り叶えてやった方が良いという診断だった。

 シャンテがデュレイスに言った。

「そう言えば万梨亜様は、侍女のマリアに会いたいとか申されていました」

「それならばさっきも私が言った、早速今夜にでも……」

 しかし、医師が首を横に振る。

「熱はまだ上がっておりますので、お会いになられても会話をなど無理です。落ち着かれてからの方がよろしいかと。おそらく万梨亜様は、王妃様を恐れていらっしゃるのではないでしょうか? 陛下の御子を身ごもった妃はまだおられませぬし……」

「それはありえるな。最近万梨亜が気落ちしていたのはこの為だったのかもしれない」

 三人は事実を知らないので、勝手に万梨亜の気持ちをおかしな方へ想定していく。デュレイスとしては初めての子であり一番愛している万梨亜が身ごもったのだから、ヘレネーの嫉妬で殺されたりしたらたまらない。彼女なら病死や突然死などに見せかけて母子共に手をかける可能性があるので、釘を刺す必要がある。

「王妃はもう戻っているのか?」

「お戻りになったという報告は……」

 シャンテの声を廊下の近衛兵の声が遮断した。

「陛下! ただいま王后陛下がお戻りになり、陛下に大至急報告する事があると申されておいでです!」

「そうか。すぐ行く」

 ちょうど良いところへ帰ってきたとデュレイスは思いながら、愛おしさを込めて万梨亜の額にキスを落とし、容態に変化があったら報告するようにと二人に言い置き、ヘレネーのいる王妃の館に向かった。相変わらずヘレネーの侍女達はきびきびと動いているが、その反面余裕がなさそうだ。少しの失敗が命取りになるのだから当然なのだが。

 デュレイスが部屋に現れると、赤い衣装で華々しく着飾ったヘレネーが微笑みながら抱きついてきた。

「今日はとっておきのご報告がございますのよ、デュレイス様」

「……そなたがそんなに喜ぶとは珍しいな、なんだ?」

「ほほほ、ケニオンにもデュレイス様にもとてもとても喜ばしい事ですの……」

 そう言ってヘレネーがデュレイスに口付けをし、甘く官能的な声で囁いた。

「魔界にてジュリアス王子の部下を発見し、ジュリアスの化身である青い石を砕いて参りました……」

「まことか!」

 デュレイスはヘレネーの顔を見ようとしたが、ヘレネーはそれを許さずにデュレイスの胸に顔を埋めた。

「はい。邪魔な部下や協力者達と一緒に、すべて異次元へ流れ込む川へ消えていきましたわ。貴方は世界の覇王になれるのです。ああ……デュレイス様抱いてくださいませ……」

 デュレイスは満足そうに微笑みながらヘレネーの身体を抱き上げ、彼女が求めるままに口付けた。妊娠した万梨亜の方が気になるが。この役に立つ女の機嫌を損なうわけにはいかない。デュレイスにとってヘレネーは協力者であり、愛する者としては存在していなかった。それはデュレイスが特別ひどいのではなく、王家の王妃と王の間に愛が芽生える方が稀なのだ。しかしヘレネーはデュレイスの愛を貪欲に欲しがり、側妃達へ恐ろしい悋気を妬くので女達は皆脅えている。

(さて、万梨亜が妊娠したと知ったらどう出るやら……)

 どのように話して釘を刺そうかと思いながら、デュレイスはヘレネーのドレスを剥がしていく。

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