ディフィールの銀の鏡 第68話

 囚人の塔の一番最下層に近い部分では、ソロンの声が突然途絶えたので、戸惑う囚人達にメテウスが説明しているところだった。

「死んだのではあるまいか」

「それはない。本来の形に戻ろうとしているだけだ」

「本来の形?」

「そうだ。彼は神ゆえに人間ではない変化を辿っていくらしい」

 メテウスの声に動揺は無い。彼は預言者であるので、真実の眼を持つジュリアスほどでないにしても、ある程度の未来を見る事ができる。メテウスはこの囚人の塔の外のはるか遠くにある王宮に、神々のような者が降臨したのを視ていた。それこそが彼の待ちわびていた事だった。

「主神に代わる者が降臨した。その者の子がソロン。母体にこれから戻っていくのだろう」

「言っている意味がわからぬ。母から生まれた乳飲み子が母の腹に戻るなどありえまい」

 メテウスの上の牢屋に入れられている男が言った。

「神々と人間では勝手が違う。神々の出産は神の一部分が分離して母体で育まれ、生まれ出ずるもの。それがどういうわけか、ソロンなる者は育まれる前に取り出されて封印されていた存在のようだ。そのかたわれが今王宮にいる、ディフィールの王子ジュリアスなのだ」

「では、ジュリアス王子の母も来ているのか?」

「いや、来ているのはジュリアス王子の妃だ。それがソロンを育む母体となる」

「ふーむ……。我ら人間も血を分けるようなものだが、神々の場合は力……、魔力そのものを子供として分離させ、女に植え付けると言うのだな」

「そういう事だ。見よ」

 最下層から青い光が差しはじめた。囚人達には牢屋の檻が邪魔になって覗き込めない場所で、ソロンは再び青い石に戻り、汚い石の床の上に転がっていた。その石はジュリアスと同じように青い光を放ち、波動は以前のようなぐらついたものではなく、ゆるぎない穏やかさに満ち満ちていた。

「皆の者、開放される時が来た。行きたい場所を念じよ、ソロンかジュリアス王子がその魔力で連れて行ってくれよう」

 メテウスの声が塔の中に厳かに響き、興奮にみちた空気と歓喜の声があがる。

「お前は……」

 デュレイスは驚きを懸命に封じ込めながら、辛うじて声を出した。一方のジュリアスは、敵の真っ只中にいるというのに涼しい顔をしている。それもそのはずで、ジュリアスの秘めている魔力はデュレイスをはるかに圧倒しており、ここで決闘をすればデュレイスが敗北するのが誰の目にも明らかだった。デュレイスが弱くなったのではなく、ジュリアスが強くなったのだ。

 無論、戦闘の勝利は魔力の強大さで決まるわけではない。通常の何万人との軍勢を率いての戦闘であれば、戦略と戦術を組み立てていけば魔力が劣っても勝利できる可能性がある。だが個人戦において、しかも今のような状況では確実に魔力の優劣が決闘を決めてしまう。剣の優劣においては確実にデュレイスが勝る。しかしその剣を簡単に弾いてしまうであろう魔力が、ジュリアスから満ち溢れている。

 天に向かって唾を吐くようなものだ。何をやっても己に跳ね返ってくるのが戦わずしてわかる。

「魔女が役に立たなくなったようだな。いつわりでも愛していると囁いてやれば、わかっていても魔女はお前にすべてを捧げたものを」

「それはお前だ」

「違う、余は万梨亜を愛している。いつわりなどいつかは必ず露見する危険なものだ。だが、その危険を承知の上でお前はささやくべきだったようだ。魔力の勝負は剣の勝負よりはるかに精神力が左右する」

「王子、この人妊娠してますよ」

 ジュリアスの後ろで、斬られたマリアの治療をしていたニケが口を挟んだ。

「わかっている。子は無事か?」

「ええ。本来の気丈さで頑張ってたみたいですね」

 ざわ……と、部屋の中の人間がざわめいた。デュレイスは舌打ちしてヘレネーに振り向いた。

「知っていて黙っていたのか?」

「……いいえ」

「わかっていれば始末したものを」

「…………」

 ヘレネーの顔は氷のように凍りついたまま白く、その美しい双眸にいつもジュリアス達に対して燃やしていた赤い魔力は欠片ほどもなかった。今のヘレネーは誰よりも弱く、殺そうと思えば簡単にできそうなほど無防備な状態だ。ジュリアスは哀れみを一瞬感じた。しかしその感情は、迫ってくる巨大な魔力の塊を察知した途端に胡散霧消する。自分の腕の中にようやく抱き戻せた万梨亜は、ジュリアスの魔力で眠っている。もっとも、万梨亜は疲労の極致にいたので、そんな事をしなくても泣き疲れて眠ったに違いない。

「ここまでのようだ。王妃も万梨亜もディフィールに連れ帰る」

「させるか!」

 デュレイスも味方の接近に気付いたのだろう。多少の手傷を負ってもジュリアスを止めおこうとして、新しい剣を抜いた。ジュリアスはデュレイスの殺気をかわし、万梨亜を抱えなおすと窓の外に青い光を帯びながら飛び出した。当然そこには多数のケニオンの兵が控えていて彼に襲い掛かったが、低く詠唱して出現したジュリアスの青い光の暴風に弾き飛ばされ、仲間の群れの中に悲鳴をあげながら落ちていく。ニケ達はそのジュリアスにぴたりと貼り付き、彼の防御を援護する。

「国の諍いには手を出さぬと決めていたのだが、己の完成に関わる事ゆえ仕方あるまいか……」

 ジュリアスは、遠くに聳え立って見える囚人の塔を眺めやった。右手を塔に向かって差し出し、手のひらに魔力を集中させる。曇っていた空に雲の切れ目が現れ、その光がジュリアスや周辺に落ちてくる。

「陛下、あの者をやるのは今ですぞ!」

「馬鹿めが! 死にたいのか」

 進言する兵をデュレイスは叱り飛ばした。

「しかし……」

 ジュリアスの姿は威厳に満ちていて、デュレイスも他の者達も手出しが出来なかった。この間を壊す者はすぐに殺される、そんな切羽つまった緊張が満ちている。

「闇に囚われし者達よ。各々が望む場所へ行くが良い。そして使命を果たせ」

 太陽がついに姿を現した。その中で囚人の塔からいくつもの青い光の玉が飛び出して空へ舞い上がり、穀物の種がばらばらに散っていくように遠くへ飛んでいく。ある光は東へ、ある光は西へ。よく見るとその光の玉の中には囚人がひとりずつ入っていた。

「あれはなんだ!」

 デュレイスが叫んだ。駆けつけたケニオンの魔術師長がそれに応える。

「ジュリアス王子の魔力で、望むところへ行くのでありましょう」

「それぐらいわかっている! 国の外へ行くのを止められぬのか」

「無理です。止めるにはジュリアス王子を屠らねば……」

「なんとかならぬのか!」

 珍しくうろたえるデュレイスに、ジュリアスは右腕を静かに下ろして言った。

「今ここで、すべての戦争を止めると言うのならケニオンは救われるであろうが、いかがする?」

「何!?」

 そこへ最後に囚人の塔から飛び出した一際眩しく輝く青い光の玉が、こちらに向かって飛んできた。デュレイスはとっさに防御の壁を詠唱で築いて避けたが、対処に遅れた兵達はその光の玉の力になぎ倒されていく。その玉はジュリアスが再び差し出した右の手のひらの上で止まった。しなやかな指でその玉をいつくしむように撫でて、ジュリアスは優しい笑みを浮かべた。

「……おかえり、我が子よ」

「子供!? ソロンとやらはお前の分身のはず」

 ジュリアスと同質の魔力を持つ光の玉を前に、デュレイスはもう驚愕を隠す事も無い。人間の常識をはるかに超えた技を見せ付けられて、王としての威厳を保つのも一苦労だ。

「ふふふ……」

デュレイスは自分の背後で低く笑うヘレネーの声に振り返った。ヘレネーはやっとすべての状況が飲み込めた。踊らされた己をあざけるように低く笑い続ける。

「そう言う……事、かえ」

 ヘレネーは放心状態からやっと立ち直り、黒い瞳に赤い魔力を宿らせた。カールされた長い黒髪が蛇のように赤い光の中でうねる。

「わらわ達は利用されていた……、お前とソロンを別固体にするという策のな!」

 赤い魔力が爆発し、多数の蛇がジュリアス達に襲い掛かった、大部分は弾き返されていくが、そのうちの幾匹かはジュリアスの腕や足に絡まる。怨念のようなヘレネーの視線に、ジュリアスは万梨亜を優しく抱えなおし口だけで微笑む。

「最愛の女を敵に手渡してまで、お前は自分達の……」

「人聞きの悪い事を言う。デュレイスに愛されぬからと言って、余が万梨亜を愛していないと勝手な妄想をするのはどうか。それにこれは万梨亜のためにも必要だった。神の子を宿すにはそれなりの器が無ければならない。そしてそれなりのそれなりの精……がな」

「デュレイス様の!!」

「その通り。余が注げぬ以上、誰かに代わってもらう必要がある。見事に成し遂げてくれて礼を言う」

「お前は! しかもその女はソロンと言うお前の分身と交わったのじゃぞ」

「これから産み月までずっと交わるがな。正確に言うと、余も自分を砕かれてからは万梨亜の腹に入っていた。神の子の妊娠でつわりなど起きぬのだが、デュレイスに嫉妬する余の波動が出てしまったのであろうな……」

 ジュリアスは微笑みながら、青い光の玉を万梨亜の下腹部まで下ろした。デュレイスがそれに攻撃を仕掛けたが同質の威力で跳ね返され、青い光の玉は万梨亜の下腹部に吸い込まれるように消えていった。

「最初からこのように大人しくしてくれれば回りくどい事はしなかったのだが、余の分身とあらば抗って余を殺そうとするに決まっていたゆえ、こうするしか道は無いと懲らしめる必要があった。余が石となったのはその為。己の限界を知れば、いかに神の部分だけのソロンでも、人間の部分がある余の正しさを悟るしかない」

「そのためにわらわに石を砕かせたのか!」

「ふ……、余を砕けば気が緩む、軽く見ていたソロンへの警戒も緩む。我が子を支配したつもりになったそなたの慢心がそもそもの失敗よな。一体どうして余を砕けば余が死に絶えると思ったのやら。石が砂に変わっただけだ、たとえ燃やされて灰となろうが余は死なぬ。人間の部分が死んでも神の部分は生き続ける」

「なんじゃと……!」

「以前、テセウスに斬られて大量失血しても生きていたであろうが。並の人間なら死ぬ怪我であった。何故あの時わからなかったのだ? 一時的には弱っても余は決して死なぬ。死ぬる方法はあるがそれを教えてやるほど余は親切ではない」

 意地悪くジュリアスが言い、腹を立てたヘレネーが攻撃を仕掛けようとする。あともう少しで魔力がヘレネーの手のひらから解放されるというところで、大きなデュレイスの手がそれを阻んだ。もうデュレイスは立ち直りいつもの平静さを取り戻していた。ジュリアスは敵の兵士が取り囲む中で、改めてデュレイスと対峙した。

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