ディフィールの銀の鏡 第71話

 ある気持ちのいい朝、ニケはシャンテに呼ばれて食堂に入った。主人のジュリアスがまだ来ていなかった事にほっとして、配膳をするシャンテを手伝う。配膳していくうちに、一番上座にあるジュリアスの席にだけスープの皿がない事に気づいてニケが皿を置こうとすると、何故かシャンテが止めた。

「万梨亜様のお言伝で、よそってはいけないと言われております」

「ええ? そりゃまた……」

 くっくっくとおかしそうに笑いながら、シャンテがめいめいの皿にパンを置いていく。ニケはジュリアスが一番好きなスープなのにと気の毒に思ったが、こればかりは万梨亜の怒りが解けない限り続くだろうなとおかしくなる。だいたいこの罰はジュリアス本人が自ら申し出たのだから、万梨亜が陰険なわけではない。ココの実のスープはジュリアスの大好物なだけにさぞかし苦虫を潰したような顔をするだろうと、ニケはその顔を想像するだけで楽しかった。

「まだお許しが出ませんか王子?」

「まったく出ない。あのように意地悪な女子だとは思っていなかった」

 皆がおいしそうにスープを飲むのをみているだけだったジュリアスは、他のサラダや肉やパンを食べてもなんだか朝食を摂った気がしない。ココの実の香ばしい匂いが鼻について離れないし、おなじくココの実のスープが大好物なテーレマコスが何皿もおかわりしていたのが許せない。我慢している主人がいるのだから少しは遠慮しろと思うのに、作った万梨亜が勧めるものだからテーレマコスは調子に乗って飲んでいた。

「愛人を正妻にできるわ、国王の参謀になるわ、農業はできるわ、幸せな事だな」

「いい事ではないですか。あの肥え太った大神官ネペレは今度こそ処刑できそうだし、リーオとはこちらの出した条件で再同盟は結べるし、テセウス陛下は幽閉から無事に解放されて王位に復帰されて王妃マリアは懐妊中だ。一ヶ月前とはえらい差です」

「それはそうだがな」

 ジュリアス達は、国王テセウスが以前から用意していたという、ジュリアスの館のすぐ近くのこじんまりとした屋敷で生活していた。前の館は館と言うより小屋だったし、いくらなんでもこれでは臣下達が護りづらいとのテセウスの意見を、ジュリアスはしぶしぶ呑みここに住んでいる。

 あれからディフィールのジュリアスの館へ集団転移したジュリアス達は、休む間もなくすぐに王宮へ向かった。大神官ネペレが掌握している王宮へ向かうなど正気の沙汰ではないと思われたが、ネペレとその一味、ケニオンの役人達の横暴ぶりにディフィールの者達は憎しみを募らせていたらしく、ジュリアスの姿を見ると皆一斉に国王派に寝返った。国務大臣クレオンが、ジュリアス達の味方したのが一番大きかった。

『われわれはあの時どうにかしていたのです』

 と言って謝罪するクレオン達にテセウスは寛大だった。皆あの時は、女神カリストとばかり思っていたヘレネーにしてやられたのだ。自分もその一人だとテセウスは大臣達の責任を不問にした。病から復活していた宮廷魔術師のデメテルも合流し、慌てふためくネペレやケニオンの役人達を除いて、皆が国王テセウスの復活を祝福した。

血は流れないまま王宮はジュリアス達に明け渡され、ケニオンの役人達はケニオンへジュリアスが転移魔法で送り返した。その場で処刑しろと言う意見が多かったのだが、幽閉から開放された国王テセウスがそれを止めた。確かに自分は幽閉されていたが酷な生活を強いられていたわけではなく、ちゃんとした生活を保障されていたからと。

 しかし、裏切った大神官ネペレに対してはテセウスも酌量の余地は持ち合わせていなかった。勝手に王妃マリアを廃妃にしたり、ケニオンと影で手を結んで自分やディフィールを窮地に陥れた罪は万死に値する。自分と同じく神殿の牢屋に閉じ込められていたアリスタイオスを大神官に任命すると、ネペレをすぐさま一番罪の重い囚人が入る監獄へ送り込んだ。彼に味方した一味も連座させられたが、一味の女や子供は許された。ネペレは国王テセウスやジュリアスを目の前にした途端顔を青黒くさせて失神し、そのまま監獄へ行く檻付きの馬車に乗せられたのだった。

「王子があんまりにも意地悪い上に秘密主義で、しかも他の男に愛する女を行かせる様に企むからですよ。普通いくら自分の子供の為とはいえ、他の男に妻を抱かせる旦那はいませんよ」

「余だって我慢していたのだぞ。愛する万梨亜が他の男に抱かれるのがいかに悔しいか、お前みたいな馬にはわかるまいて」

 めずらしく子供のような物言いのジュリアスに、ニケは吹き出しそうになった。この調子だと閨のほうも完全に拒絶されているらしい。おまけに触れる事も禁止されているようで、抱きついたり軽いキスをしているところも見かけない。自分のテリトリーでは、他人の目などほとんど気にしない主人であるのに。

 ジュリアスは深いため息をついて、庭の片隅に生えている雑草を引き抜き始めた。ニケはその雑草を気に入ってわざと残していた万梨亜がこれを知ったらどうするんだと思ったが、抜いてしまった後ではもう駄目だ。腹立ち紛れにぶちぶちと引っこ抜いて、ジュリアスはぶつぶつ文句を言う。

「何故説明しなかったのかと皆言うが、話してしまってはあの魔女を騙せないであろうが。敵をだますには味方からだますしかあるまい。敵を狂喜させるように落とし込むのが罠を成功させる秘訣だ」

「王子のはいろいろと姑息過ぎますよ。あの魔女かなりむかついたでしょうし、変な術をまたかけてきたらどうするんです?」

「少なくともこの数週間は手出しできまいよ。余が砂にされて砕かれた時に、微粒子になってケニオンへ反抗する者どもの心に入り込んで勇気を吹き込んだ。実体を持たぬゆえ異次元に飛ばされたそなたらを連れ帰るのも容易だった」

「分身の術ですか。王子はいろいろできるんですね。それで力を消耗して万梨亜様の腹に入って、デュレイスの精で力を蓄えたと」

 ジュリアスの顔が不服そうに歪んだ。

「たわけめが。万梨亜の体力の消耗を癒しに入っただけだ。精の力はたまたまだ。ソロンにとっておかねばならなかったのだから」

「そんでちゃっかり体調悪くさせたり……。まーこれだけの悪事を働いたら万梨亜様もお怒りになりますよ。最初っからテーレマコスあたりに砕いてもらえばよかったのに。わざわざディフィールを窮地に陥れる必要もなし、万梨亜様をデキウスに渡したりデュレイスに渡す必要もなし……」

 指を折ってこれまでの事件を反芻するニケに、ジュリアスは手をひらひらと面倒くさそうに振った。

「もう良いわ。そなたらに説明すると骨が折れる」

 万梨亜が大切にしている可愛い花の雑草をすべて抜き去ったジュリアスは、そのまま草の絨毯の上に寝転んだ。ニケは内心で「あーあ」とそれを見やる。

「国に関する事は手出ししないとおっしゃってませんでしたっけ?」

「出さぬ。出したら縋りつかれて難儀するゆえな。今回は巻き込まれたから手出ししただけだ。ケニオンを追い込まねば、真の敵が引っ張り出せぬ」

「真の敵って……」

「魔王だ」

 ニケは沈黙した。頭の下に腕を組んで寝転んだまま、ジュリアスはおだやかな青空を見上げる。次元を超えた天上界では、父のテイロンが自分とソロンを見ているだろう。

「……まったく、面倒事ばかりをもってくる親だ」

「あの馬鹿王ですか?」

「あれも一応父親だったが、はるかに扱いやすかった。言っているのは主神テイロンのほうだ」

「あー、王子を主神にとかおっしゃってるんでしたっけ」

「面倒事はそれだけではないわ。ソロンも余もいい迷惑だ」

「ソロンっていつごろ出てくるんです?」

「……三日後ぐらいだろう」

 あまりの早さにニケはびっくりした。その鉄砲玉を食らったような顔を見てジュリアスがくすくす笑う。

「母の魔力に比例するからな。余が万梨亜に魔力を大分補充したゆえ、それくらいの早さになる。ちなみに成人体で生まれてくるだろう」

「なんかいろいろ凄すぎますねー」

「今度はテイロンも会ってくれるだろう。以前のようなあの不安定さでは、いくら神とはいえ、テイロンの姿を見た途端に業火に焼かれて消滅してしまう。天上界では神々は姿を偽れぬゆえな。パラシドス程度なら大丈夫なのだが……」

「万梨亜様は平気だったようですが」

「だから万梨亜は特別なのだ。魔力の石を持つ女は、完全体の神を見てもその魔力を透過させてしまう」

「へー……」

 それはヘレネーも同じだ。しかし彼女はテイロンを嫌っているため、天上界へ行ってもテイロンに会う事は無い。

「ソロンは我らの子になる事を望んだゆえ、余は我が子と呼んで万梨亜に入れた。土台はリーオに行く前の夜に作ってあった。万梨亜から生まれれば、我らは完全に親子となり分身で無くなる。奴も好きなようにすればよかろう」

「万梨亜様にまた言い寄るんじゃありませんか?」

 ふ、とジュリアスが鼻で笑った。

「母に言い寄る輩はおるまいよ。それに生まれる前の記憶は消えておる」

「へー……。じゃあジュリアス様に似るか万梨亜様に似るかもわかんないんですか?」

「わからぬな。性別もわからぬ。万梨亜の身体に子供として入ったからには、持っていたものすべてが消え去る」

「王子にだけは似て欲しくないですよね。二人もいたら万梨亜様が発狂しますよ」

 不吉な預言を知ってしまったように不気味がるニケに、ジュリアスは面白くなくて舌打ちする。実はそれが一番ジュリアスが心配している事で、ジュリアスだって自分に似た息子や娘などいらない。できれば万梨亜に似た娘が欲しい。

「私がなんですか?」

 唐突に万梨亜の声が聞こえてジュリアスは飛び起き、ニケはびっくりして振り返った。万梨亜は握った拳を腰に当てて何故かふんぞり返って、怒りを目に湛えてジュリアスを見下ろしている。理由を知っているニケは黒馬に変身して森の茂みへ駆け込んで行った。わけがわからないジュリアスは、万梨亜の視線の先を見てようやく怒りに合点がいく……。

「いや、これは、花瓶に生けようかと思っていたのだ」

「そんなに大量に要りませんよ。ひどいですわ、大切にしておりましたのに!」

「しかしだな、万梨亜」

「私が館に来た頃、初めて摘んでくださったのがこの花なのですよ。お忘れなのですか?」

 自分との思い出を大切にしてくれる妻をうれしく思いながらも、それなら先に言ってほしいとジュリアスは思う。口付けでごまかそうと手を伸ばしても、触れるのを禁止されているためそれも敵わない。正座してうなだれているジュリアスと説教する万梨亜を、森の茂みから黒馬のニケは眺め、にやにやと楽しそうに笑うのだった。

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