ディフィールの銀の鏡 第73話

 ケニオン王宮は万梨亜が去った頃より、一層殺伐としていた。他国との同盟などの決裂、国内での反乱、王宮内の貴族や軍の要人の腐敗したやり取り、デュレイスの権威はさらに崩れつつある。囚人の塔から脱出した預言者メテウスの言葉が何よりも大きく、これまで抑圧されてきた民や反国王派に力を与えているのだ。

「国王デュレイスは、魔王の妹である魔女ヘレネーに操られているに過ぎない。彼の導くままに進めば必ず国は滅亡する。今、ケニオンがすべき事は戦争ではなく、平和への交渉なのだ! そして我々の使命は王宮に巣食う魔を祓う事にある!」

 当然ヘレネーの父のリクルグス将軍は烈火のごとく怒りメテウスを捕らえようとしたが、メテウスの意見を是とする権力の中枢から追いやられていた貴族や民衆が彼を匿ってしまう為、メテウスの髪の一本も掴めない。メテウスや反国王派を匿う者は厳罰に処するとの命令もむなしく響くだけだ。リクルグスはヘレネーを王妃に据えてから彼女の魔力で軍を掌握して権力を振るい出したのだが、それまでのしきたりや軍規を無視して思うように法を変えた為に人々から嫌われている。彼が権力を握ってから他国への侵略ぶりも虐殺に近いものが多く、国外でも彼の評判は悪い。実際にしているのは国王デュレイスなのだが、その行為の発端はリクルグスだと思われていた。

 虐殺は神々の忌み嫌うところだ。神々を崇拝するこの世界では、神に嫌われる存在を極端に嫌う。それでもリクルグスが権力を握っていられたのは、ヘレネーの魔力が誰よりも強かったせいだ。さらに言えば、彼女の兄の魔王ルキフェルの力だ。

 そして魔族は人間界では嫌悪される存在だった……。

 ディフィールでヘレネーは自分の正体を何故かばらしていた、それほどディフィールを舐めてかかっていたのだろう。しかし先日、勢いを盛り返したディフィールが王妃ヘレネーは魔王の妹だと暴露したため、知らなかったケニオンの大臣達は驚愕した。その時は誹謗中傷だと一旦収まったのだが、国の腐敗を正す預言者のメテウスが改めて暴露した。無効と叫ぶリクルグスを誰ももう信じない。

 あまりの非道さと魔力の大きさに魔族ではないかと怪しむ声が無きにしも非ずだったが、彼女を恐れて誰も口にはしなかった。しかし弱りきった彼女の前だと皆声を大にする。そんな存在が国の上層にいたとあっては国の威信に関わる、ヘレネーを廃妃にするべきだと。進展がない会議ばかりが毎日のように王宮で開かれ、真面目なデュレイスはすべて出席していた。そして大臣や軍部からの非難を浴び続けていたが、彼は魔力が衰えて弱ったヘレネーを護り続けている。それがデュレイスへの失望を加速させるとわかっていても、デュレイスはただ黙ってそれを聞いているだけだった。

 ディフィールの参謀のテーレマコスが淫魔のルシカを妻に迎えても誰も何も言わないのは、彼女が魔族であるのと同時に神の血を引いているためだ。半分が魔族で半分が神々、神の血を引く魔族のする事はいたずらの範囲内で(例えば黒馬のニケがジュリアスの畑を荒らしたような)、子供のするような事だとおかしみをもって容認されている。神の血が混ざるだけで人々が魔族への嫌悪を払拭してしまうのは理解しがたいものがあるが、それがこの異世界の常識で、万梨亜などはその常識が未だにわからず混乱している。

「何とかならぬのかヘレネー。このままでは我らは滅びるだけだ」

「弱気な事じゃな父上。それでも一国の将軍かえ……?」

 リクルグス将軍は、王妃の部屋までわざわざやってきて薬の調合をしているヘレネーに毒づく。将軍という地位にありながら、リクルグス将軍は肥満しておりぶくぶくと太った醜い男だ。最近処刑されたディフィールの大神官長と遠縁に当たるのだが、一族は大抵肥満しているのでそういう体質の血筋なのかもしれない。こんな男の娘が美しいヘレネーなのだから、誰もが実の親子ではないのではないかと怪しんでいる。

「何を暢気な事を申しておるのだ。我らの凋落は陛下にも影響するのだぞ」

「わらわに何をせよと?」

「お前は魔女で魔力の石を持っているのだろうが! それで反抗する者共を鎮圧するのだ!」

「ほほほ……、父上は魔力を勘違いされているようじゃ。相手に付け入る隙がないのにどうやって支配すると言われる?」

 ヘレネーは眉一つ上げずに、金の匙に盛った粉薬を、ぐつぐつ煮えている黄土色の液体に入れた。一瞬それは七色に輝き、今度は真っ黒に染まった。何の臭いもしないがどことなく悪臭が漂ってきそうな感じだ。打つ手はないと言われたリクルグスの青黒い顔に血が上った。

「では魔王を呼び出せ。お前には無理でも魔王であれば……」

「無理というものじゃ。兄上はケニオンの滅亡を望んでおられる」

「なんだとっ!?」

 リクルグスは滅亡という言葉に仰天したらしい。その豚のような顔がとんまに膨れていく。しかし、やはりヘレネーは眉一つ動かさない。魔族を利用しているつもりだった父親の無様さが露呈していても、ヘレネーはいまさら驚きはしない。

「それ……それを知っておりながら、何故お前は平然としておるのだ」

 今にも爆発しそうな怒りを抑え、一方でがくがくと膝を震えさせる父親を見もせずに、ヘレネーは黒い液体を木のひしゃくで混ぜまわす。

「そうじゃな。わらわの本当の望みはケニオンが最強の国になるのではなかったという事じゃ。だから滅亡しても構わぬ」

「ヘレネー!」

 怒鳴ったリクルグスに、ヘレネーは出来たばかりのその液体を純金のカップに注いで手渡した。臭いのしないそれをリクルグスは怪みながら覗き込む。

「一時的に人を支配できる薬じゃ。効き目は一週間ほど……ただし代償は大きいですぞ父上。期限が来た途端に皆正気に戻る。その時の彼らの憎悪をかわせるのならばどうぞ」

「本当か?」

「何がじゃ」

「一週間人を支配できるというのは……」

 都合のいい部分しか聞いていないリクルグスに、ヘレネーは失笑を浮かべそうになった。

「できましょうとも。陛下であろうがわらわであろうが……、ケニオンの者で人間の血が混ざっておれば思いのままじゃ」

 リクルグスはどこまでも愚かで強欲な男だった。魔王の妹である彼女と、まだ権力を持っているデュレイスを支配できれば、再び元通りのケニオンに戻せると考えた。ヘレネーが注意を喚起した後半部分を完全に忘れている。今まで勝利を治めてこれたのはヘレネーの奸計とデュレイスの戦術戦略によるもので、彼はケニオンから一歩も出ずに自分に都合のいい法を作って威張り散らしていただけだったのだ。自我の無い二人を、そんなリクルグスが思うように動かせば大失敗が目に見えている。それなのに彼は、この二人を操れば自分は再び権力を盛り返す事ができると思い込んでしまった。いや、そう思うように仕向けられた。他ならぬ実の娘のヘレネーによって。

 黒い液体を飲み干すリクルグスを、ヘレネーは冷たい赤の瞳で見ている。彼女の最後の計画はまだ始まったばかりだ……。

 天上界は良い天気で晴れ渡っていた。そして咲き乱れている花々の原っぱの中を、生まれたばかりのソロンが歩いている。美しい花々に母の万梨亜が脳裏に浮かび、驚きすぎて動けなくなった彼女の表情を思い出して、ソロンは一人でくすくす笑った。肩には小鳥のヒューが乗っていて、時々ぴいぴいと鳴いている。

「あら、もう生まれたのね」

 横合いから声がかかった。そこには美の女神のカリストが大木を背に寄りかかっていた。

「ねえ本当に前の記憶はないの? 知りたくはないこと?」

 父のジュリアスの記憶がそのままソロンにはある。だが、分身であった記憶はほとんどない。生まれ変わったソロンは分身時代の記憶が欲しいとは全く思わなかった。楽しく過ごしていたかもしれないし、辛く悲しい思いをしたかもしれないが、それらはすべて生まれる前に終わった事だ。自分には今優しい父と母がいる。それだけで十分だ。

「何も知りたくない。またその必要もない」

 ソロンは素っ気無く言った。追いかけてこようとするカリストを瞬間移動でかわし、主神テイロンの神殿の前に立った。前には出来なかった術だ。

 テイロンの神殿は相変わらず人の気配がなく静かだった。ジュリアスの記憶によると母万梨亜とここに来て、テイロンに会えないまま追い返されたようだ。

「…………ずいぶんと大きいな」

 その時突然、見上げたソロンに向かって、白い柱の影から衝撃波が襲い掛かってきた。ソロンはそれを瞬き一つで胡散させる。

「客人にいきなり襲い掛かるとは、何を主神は警戒しているのですか?」

 怒りもせず、不思議そうにソロンが言うと、柱の影から伝令のパラシドスが現れた。

「失礼。本当に大丈夫かどうか確かめたかっただけです。貴方は確かに光の神ソロン殿ですね」

「……パラシドスか。あの程度で私を倒せるとでも?」

「以前の貴方なら確実に」

 にこにことパラシドスは笑いながら謝罪のための握手を求め、ソロンは黙ってそれを握り締め返した。ヒューが主人のパラシドスの元へ飛び、彼の杖の先に止まって羽をばたつかせた。パラシドスがその杖をゆっくりと上に上げると神殿の奥へ向かう光の道が出来た。

「この先で主神テイロンがずっとお待ちです」

「うむ」

 ゆっくりと穏やかな足取りで歩いていくソロンの後ろを、パラシドスは微笑してついていく。ソロンは歩いていくに従って、人影がそこかしこに現れるので驚いた。本当は恐ろしい人数の仕え人がいるらしい。だんだんと明るくなっていく廊下は、主神の聖域にふさわしい荘厳さが漂っている。やがて廊下の突き当たりにある黄金の扉の前に辿り着いた。そこを護る者は誰もおらず、ソロンがどうしたらいいのかと振り返ると、パラシドスが相変わらず微笑みながら言った。

 

「両扉の合わせ目へ手を添えてください。入る資格があれば開くでしょう」

「…………」

 ソロンはなんの躊躇いもなく、右の手のひらで扉の合わせ目に触れた。一瞬胸を蹴破るような恐怖や鼓動が湧き起こった気がした。それは生まれ変わる前の消しきられていない分身時代の記憶だった。ソロンの肩に戻ったヒューが羽を広げたかと思うと元の姿のヒュエリアに戻り、同時に両扉が静かに左右へ開いていく。

 廊下より一層光が満ち溢れている部屋に、一瞬ソロンは目を眇めた。ヒュエリアが美しい声で甲高く鳴く。それは祝福の美しい旋律のようだった。

「光の神だというのにこの程度の光が眩しいのか?」

 白い視界から長い黄金の髪を持つ男の姿が浮かび上がった。隣にソロンそっくりの女神が居る。自分は光を制御できるのだとソロンは思い出し、両目へ左の手のひらを一閃した。眩しさはすぐに消え去り、いかにも神々の住む部屋という感じの清清しい室内が現れた。ああ、やっとここまで来た……と、わずかに分身時代の記憶のあるソロンは思う。青々とした木々が見える窓辺に立っているテイロンが手招きをした。

「こちらへ来い」

 二人の前へソロンは進み、優雅な物腰で礼を取った。

「主神テイロン、女神ペネロペイア。お目にかかれて光栄です」

「ずっと待っていた……」

 温かそうな優しい両腕がソロンの前に広げられ、ソロンはやはり躊躇う事無くそこへ入り、テイロンの胸の中にかき抱かれた。涙が溢れてくるのはやはり消しきれなかった分身の記憶のせいだろう。でもそれは訴えかけるために残ったものではなく、今綺麗に消え去るために残されたものだった。その記憶はソロンの身体全体に煙のように浮かび上がったかと思うと、虹色の光の粒子になって四散した。

 祝福されている神々を眺める一方で、部屋の壁に凭れたパラシドスは暗い思いをわずかに抱いていた。彼の心を悩ませるのはテイロンの息子のジュリアスだ。

(あの方は、何故そこまで人間界に依存されるのだろう)

 人は愚かだ。そして儚い。わずか100年足らずの寿命しかないのに、欲望を丸出しにして争い、同士を陥れ悦楽にふけっては戦争を繰り返している。何故その様な場所をジュリアスが求めるのか、パラシドスにはわからない。祝福された天上界のほうが、余程愛する万梨亜と穏やかに過ごせるというのに。人間の貪欲さは真実の眼によって嫌というほどわかっているはずだ。それでもジュリアスはこちらには来ない。主神テイロンも女神ペネロペイアもずっと待ちわびているのに。

 そこまで考えたパラシドスは、はた、と思い当たり、抱き合う二人に顔を上げた。気付いたテイロンが悲しげに微笑む。またこのような思いをしなければならないのか、自分ですらこうなのに親であるテイロンの悲しみはいかばかりだろうか。そして真実を知らないソロンはそれを乗り越えなければならない。

(ジュリアスは、ソロンを次の主神に据えるために……)

 パラシドスは、熱くなるまぶたをそっと指で押さえて目を閉じた。

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