ディフィールの銀の鏡 第75話

 ケニオンが国境を越えて攻めてきたという報告が入ったのは、ソロンが生まれてから数日後の深夜だった。万梨亜と共に寝台に伏していたジュリアスは、知らせに来たテーレマコスの報告を耳にした途端にすばやく着替え、王宮に向かって馬を飛ばした。

 南のディフィールでも冬の夜はさすがに寒い。羽織った外衣から冷気が突き刺さってくる。王宮は緊急事態を受け、かがり火が増やされて明るく、その王宮へ貴族や兵がそこかしこから馬や徒歩で駆けつけている。二人もその沢山の人々の中の渦に入った。

「信じられない話です。あれほどケニオンは国内が分裂して指揮系統がめちゃくちゃになっているというのに、戦闘の手際は以前と同じように見事だったとか。国境を護る兵もひとたまりも無かったそうです」

「今はどこに居る?」

 ジュリアスは馬を走らせながら、後ろを同じく馬で走ってくるテーレマコスに聞く。

「それが奇妙な事に国境のファレに留まったままだそうです。こちらの部隊は壊滅状態で、今、隣の街に駐屯しているエウレシスが向かっています」

「……ファレは、リーオとケニオンの間にある街だったな。エウレシスは怪我で療養していたと思っていたが、もう大丈夫なのか?」

「はい、しかし、つい一週間前に戻ったばかりですので心配です」

 すぐに王宮に着き、二人は出迎えた近衛兵に馬を預けてそのままテセウスの居る部屋を目指した。テセウスはやはり起きていて、国務大臣のクレオンや将軍達と会議に入っているところだった。

「兄上。きて下さったのですか?」

 驚いたテセウスに、ジュリアスは小さく頷いた。

「今回は魔王がからんでいるゆえな。ファレの街に、先日ソロンが壊した魔界の入り口へ通じる場所がある」

 テセウスも他の者達も魔王と聞いて顔色を変えた。ケニオンだけでも大変だというのに、魔王まで加わると相当な数の兵の犠牲を覚悟しなければならなくなる。ディフィールはまだまだ発展途上で、斜陽にあるとはいえケニオンとの兵力の差は獅子と子猫ほども違う。

「ファレに……。そしてそのソロン殿は?」

「あれは身体は大人でも心は子供ゆえ、全く役に立たぬ」

「さようですか」

「このファレ山のふもとにカリストの神殿がある。ここに魔界への入り口がある」

 大きなテーブルに広げられている地図をジュリアスは指差した。そしてファレの街をゆっくりとなぞる。テセウスが腕を組んで唸った。

「もう破壊されたのですよね?」

「完全ではない。ここから魔界の瘴気が満ちれば魔物が一気に溢れ出てくる。今からすぐここに向かって、破壊を完全なものにするか、封印するかしなければならぬ。ひょっとするとファレからケニオンが動かないのは、動かないのではなく動けないのかも知れぬ。魔物の出す瘴気は人を麻痺させる」

「あり得ますね。一気に攻め入って陥落したにもかかわらず、それに乗じてこないのはおかしいと思っておりましたので」

 テセウスが顎を指でさすった。ケニオンの他国への侵略ぶりは凄まじく疾いの一言に付き、戦闘らしい戦闘もないまま陥落したのなら、その勢いでまた次の街を陥落させるはずだった。大臣の一人が言った。

「指揮する者が国王ではないのではありませんか?」

「魔術師長のデメテルが、遠視で指揮しているデュレイスを確認している。今回は后のヘレネーも同行しているらしいから、その為かも知れんな。女に行軍は辛いものがある」

「あの魔女が……」

 ジュリアスは用意された椅子に浅く腰を掛け、ディフィールの王都の位置とファレの位置を計った。馬で約10日とは聞いているが、それは一般の者ののんびりとした旅の場合だ。戦時の移動で計るとすれば約一週間で、ヘレネーほどの魔力を持つ者なら一瞬でこちらへ来れる距離。将官達が言った。

「彼女の魔力の復活のために待っているのですか? 何のために? 大体何故今頃ディフィールに攻め入るのですか?」

「決まっておろうが。われらがかの国に混乱を生じさせからだ。その国に勝利すれば他の国の勢いを牽制できようからな」

「わが国だけではあるまい、貴様何を言っている」

「やぶれかぶれな行動にしか思えぬ。狂ったのではないのかケニオンの連中は!」

 言い合いが続く中、ジュリアスは遠視でファレに居る国王デュレイスを視た。妨害が全く入らないのを奇妙に思いながら、ヘレネーと野営で食事をしているところを視、その目が真紅である事に気付いた。デュレイスだけではない、他の兵達も皆目が赤い。

(……これは集団催眠? しかも強力だ)

 ヘレネーが操っているのかと彼女を視ると、なんと彼女も操られている。これはどういう事だとジュリアスは首をかしげた。ケニオン。ファレ侵攻。留まるケニオン軍。集団催眠……。魔界へ繋がる瘴穴。ぐるぐると考えを廻らせるジュリアスは、ヘレネーの口が集団転移と動くのを視た。

(集団転移? いかな魔女でも、弱っている上余の結界の下でそれは不可能であろうが)

 そう思った瞬間、脳裏に嫌な存在が再び浮き上がってきた。それを可能に出来るのは魔王ルキフェルだ。動かないデュレイス達は、もしや魔王ルキフェルをこのファレの街で待っているのではないだろうか。そしてデュレイスも集団転移と言い、ヘレネーと何か頷きあっている。擬態かもしれないが、可能性の一つとしてそれをやられるとディフィールは一気に陥落する。いちいち他の都市を滅ぼさずとも一気に詰められるのだから、ケニオンも兵の損害が少なく済む。

 ジュリアスはいつの間にか場が静まり返り、皆の視線が自分に集中している事に気付いた。青い炎を燃やし続けていては注目されないわけが無かった。視たものを説明しながらジュリアスは言った。

「最近の魔王はずっと瞑想していて、やけに魔力を溜め込んでいると聞く。それをあてにしている可能性は高いな。……だがあの冷酷な男が、こんなやぶれかぶれな人間のいさかいに手を貸すとは思えない。集団催眠は、強力な魔術師がケニオンに出現して、デュレイス達を操っているのかも知れぬ」

 テセウスが同意して頷いた。

「そう思います。しかし先ほど兄上は、魔王が絡んでいるとおっしゃいました」

「絡んでいる事は確かだが、魔王がどう動くのかが予測が付かぬ。ケニオンの軍勢をこちらへ一挙に転移させるつもりなのか、そうと見せかけて他の行動を取るのか、それとも他の魔物達をその瘴穴から発生させて災いを持ち込むつもりなのか。いずれにせよ余や万梨亜に向けての行動であるのは間違いない……」

「真実の眼はこういう時でも使えませんか?」

「……視えないものもある」

 遠視はできるのに、妙に自信なさげなジュリアスの物言いだった。だが誰もそれを気にせずにそうかと納得する。テーレマコス一人だけがそれに気付き、気遣わしげに後ろから視線を投げた。テセウスが言った。

「すぐリーオやサーミから援軍が来る。彼らと合流してケニオンを迎え撃ちます」

「それまでエウレシスに任せる……か。そんな余裕があるのか?」

「ありません、ですから先に我が軍の一陣がファレに向かう事になります。早朝にもここを出立しますが、兄上自ら行かれる必要はございません。危険ですし、ケニオンを熟知している者共でそろえますので」

「集団転移してきたらいかがする?」

「兵の半分はこちらに残します、私も残る予定です」

「奴らは集団催眠に掛かっている。行動に予測が付かぬぞ。嫌な予感ばかりがする」

 ヘレネーの美しい横顔が、まがまがしくジュリアスの脳裏に映った。

「魔術師を同行させます、いずれにしても戦わねばなりません」

「……魔王の狙いは余と万梨亜だ。魔王をひきつけている間にそなたらはケニオンをなんとかせよ」

 椅子から立ち上がるジュリアスをテセウスが止めた。

「お待ちください。単独で行かれるおつもりですか。危険すぎます!」

「……そうだな。万梨亜を護れる者が他にも必要か。いずれにしても百もあれば良い」

 将官達は百という少なさにざわめいた。テセウスもそう思ったようだが、言い出したら聞かないジュリアスの性分をよく知っているため、しぶしぶ了承した。しかし、参謀のテーレマコスが椅子を立った。

「お待ちください。いくらなんでも一国の王子を護るのに、百とは少なすぎます」

 ジュリアスは静かにテーレマコスに振り向いた。

「……千いようが万を超えようが、あの魔王相手に人間がどれほどの事が出来ると言うのか? 余計な犠牲者を出したくない」

「いいえなりません。ディフィールの結界は王子が再びお作りになったもの。万が一の事が貴方にあって結界が消えれば、ケニオンの魔術師どもに何をされるか。デメテルとて病は完全に癒えてはいないのです」

「ソロンが居るゆえ大丈夫だ。あれを王都に残していく。王宮で預かってくれれば良い」

「王子!」

 ジュリアスはテーレマコスの言葉を振り切るように、席を立って部屋から出て行く。テーレマコスは万梨亜から絶対に誰にも言うなという言葉を受けていたので、ジュリアスが人間になった事をここで言えない。もしそれがばれたら、確実に士気は低下する。神にも等しいジュリアスが居るからこそ、ディフィールはケニオンと戦えるのだから。

(くそ! なんて事だ)

 いくら魔力があると言ってもただの人間では魔王に殺されてしまう。不死でなくなったジュリアスはどうやって魔王と対峙するのだろう。テーレマコスは追いかけて行きたいのだが、職務があるため再び椅子に座った。第二陣とテセウスが率いる第三陣の打ち合わせが始まっている。参謀になどならねば良かったとテーレマコスは後悔していた。

(余計な犠牲者を出したくない? まさか王子は死ぬるおつもりなのか……!?)

 テーレマコスは、テーブルの下の両手をぎゅっと握り締めた。

 ジュリアスは家に戻り、起きていたソロンにばつが悪い顔をした。万梨亜がジュリアスの行動を読んで旅支度をこっそりしているのを、この生まれたばかりの息子は敏感に感じ取り起きてしまったらしい。ニケが面白そうに頭の後ろで両腕を組んでいる。

「父上と母上だけで魔王と対決するのは危険だと思いますが」

「これは遊びではないのだ。生まれたばかりのそなたに何が出来る」

 ソロンの前を通り過ぎ、ジュリアスは万梨亜に持っていく物を指示する。

「魔力の補充など、できる事は沢山あります!」

「補充は万梨亜一人で十分。なまじそなたは魔力がある分危険だ。魔王にその魔力を奪われたらなんとする?」

 一瞬詰まったソロンだったが、すぐに万梨亜を見て反撃する。

「それは……母上だって同じです」

「あやふやな心だった過去ならいざ知らず。今の万梨亜はもう魔王ごときに左右はされぬ。……ソロン」

 万梨亜が荷物をまとめていくのを背後に、ジュリアスは息子に振り返った。

「そなたには余の培ってきた記憶という知識があるが、残念ながらそれに見合った感情が付いて来ておらぬ。膨大な記憶がそなたの中に眠っていて、成長に見合う感情の鍵がそれを開いていくようになっているのだ」

「だからなんですか」

「魔王の過去はそなたが思っている以上に凄惨だ。生まれ変わる前のそなたなど比較にならぬ」

「だから?」

「目を背けたくなるような映像を見させられても、そなたは平静を保っていられるのか? あれの過去は血みどろの悪夢そのものだ。普通の人間ならば確実に発狂するような残忍な殺しや、それに等しい嬲りを目の前で見せるなど魔王はお手のものぞ」

 ジュリアスの目に青い炎が浮かんで消えた。青い目はひたと息子の揺れる目を睨んで離れない。

「人の恐怖や憎しみや妬みという感情を吸収して、魔王は己の赤い魔力を増幅していく。そなたのように魔力だけは大きくて経験がまったく追いついていない神など、格好の餌だ。わかるか?」

「…………」

 ソロンは黙ってうつむいてうなだれた。ようやくジュリアスの言わんとする事がわかったようだと、一同がほっとした途端に、再びソロンは頭を上げた。

「は、母上は女性なのに大丈夫なのですか? どうして父上はそのように危険な場所へ母上を連れて行くのですか?」

 女性は護るものだというのがこの世界でも共通認識だった。ヘレネーのように行動して戦う女の方が珍しい。しかし、その反撃もやはりジュリアスの前では無力だ。

「万梨亜の生は余と共にある。魔力の石を持つ女は愛する男と共に戦うのが運命、片時も離れては生きられぬ」

「でもつい最近まで離れてお暮らしだったではありませんか」

「あれは例外だ」

「しかし」

「はいはい。もうおのろけは結構ですよ」

 それでも何か言葉を捻り出そうとするソロンに、ずっと黙っていたニケが口を開いた。しかも、ぱんぱんと拍手までし始めた。

「ソロン様、貴方は図体がでかい子供なんですから大人しくご両親を待ちましょうね」

「だって、ニケ」

「男になりたいのなら、ここは黙って見送るもの。すでに貴方はお二人の邪魔をしています。邪魔をしたいのわけではないでしょう?」

「…………そうだ」

 ぼろぼろと涙を零し始めたソロンの頭を、ジュリアスが優しく微笑みながら撫でた。万梨亜もその息子を正面からゆっくり抱きしめる。ジュリアスも万梨亜も命を削ってソロンをこの世に生み出した、自分達の生きた証を危険な場所へ連れていく事はできない。

「待っているのだ、ディフィールの王宮で」

「……はい」

 窓から見える空は、星が消え始めていた。

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