ディフィールの銀の鏡 第76話

 エウレシスが率いる軍は、ファレの隣町のフェードラにある小高い丘の上で野営をしていた。前回のリーオでの戦闘で負った傷はまだ完全に癒えているとは言い難いが、そんな人間でも今のディフィールには必要だと思い、エウレシスは再び最前線へと国王テセウスに願い出た。一緒に居る兵達はどれもこれも猛者ばかりで、普通の戦闘なら頼もしい限りといえるのに、ファレの街から漂ってくる瘴気が異常なほど大きく、魔術師の力が不十分な現状では心もとない。

 ケニオンのファレ侵攻から六日が過ぎていた。

 ファレの街から大勢の住民がこのフェードラを抜けて各地へ散らばって行った。フェードラの民衆もほとんど残っておらず、居るのは店を護るために残された傭兵や、街の役人達だ。ケニオンの軍は依然としてファレから動かない。ケニオンの動きが不気味な中、瘴気はますます強くなってきており、魔物がいつ出てくるか兵達は皆ぴりぴりしている。

(すごい瘴気だ。今度こそまじで死ぬかもな)

 治りきらない右腕の傷を包帯の上から摩りながら、エウレシスはぱちぱちと火の粉をまきあげる焚き火を他の兵達と取り囲んでいる。

「司令官、どうぞ」

 髭もじゃの傭兵が出来立てのごった煮を木の器で手渡してくれ、エウレシスは礼を言いながら受け取った。朝食の時間だ。そこかしこで皆熱心に食べている。食べられる時に食べておかないと、次いつ食べられるかわからない。物資の供給がほぼ完全に行われているところが、前回のリーオの時との大きな差だ。これが途絶えがちだったりしたら、士気が瘴気に当てられて下がっていく一方だっただろう。

 伝令が、黄色地にディフィール王家の紋章が描かれているマントを翻しながら現れ、朝食を食べているエウレシスの横で片膝をついた。

「司令官、ただ今、王都より援軍が参りました。あちらの伝令がすぐに」

「うむ、来たか」

 思ったより早かったなと思いながら、エウレシスはごった煮をかき込んだ。すぐに援軍の司令官と戦略を練り、出来得る限り対策を立てなければならない。圧倒的な兵の差もあって攻める案を避けていた。だがいつまでもこのままではいけない、兵が揃ったらケニオンを追い払わねば……。

 ややあって援軍の先陣を触れ回る伝令が現れた。しかし何か言いにくそうにしていて、こちらの伝令の隣に片膝をついたまま口を開かない。

「早く言え」

 援軍の若い伝令はエウレシスに怖い目で睨まれ、慌ててテセウスからの伝言されたこれから来る援軍と、国内外の詳しい状況等を話した。しかし話し終えても伝令は何やら口ごもっていて、エウレシスはその態度に苛々した。

「まだ何かあるのか?」

「は……、あの」

 スッキリしない態度はエウレシスの最も嫌うところだ。うじうじした心で軍をうろつくような兵は害にしかならない。司令官の怒気を、エウレシスの隣に控えていた参謀が感じて助け舟を出した。

「事実をありのままに申すのが伝令の役目だ。申せ」

「は、ジュリアス王子がご一緒で……、その、万梨亜妃もおいでなのです」

「何!?」

 軍に所属していない王族夫妻が前線へ来るという異常事態に、不気味な瘴気が自分達の手に余る存在なのだと、エウレシスは悟らざるを得なかった。しかも神の子であるジュリアスと最強の魔力の石を持つ万梨亜が来るとは。もしや何もかも手遅れなのではとその場にいた全員が思った。

 万梨亜は戦場へ来たのは初めてだ。行軍は当然馬に乗り続けなければならず、かなり疲労していた。馬に乗る事も一人では出来ないため、ジュリアスと一緒に黒馬のニケに騎乗していた。当然服装も女性用にあつらえ直した軍服だった。それで女らしさが消えたかというとそれはなく、その簡素な服がより一層彼女の色香をかもしだしてしまい、同行する将兵の気をかなり引いてしまっていた。仕方なくジュリアスは防寒用の毛皮をすっぽりと万梨亜に被せている。ジュリアスの后に手を出す輩はいないとわかっていても、女に気をとられてはまともな戦闘など出来ない。それで無くとも、戦場は男の欲望がむき出しになる危険な場所だった。人殺しという行為は人を狂気に陥らせ、まともな判断を不可能にしてしまう。また、狂気に呑まれなければ行き抜く事が不可能な場所だともいえる。だからこそジュリアスは戦争を厭い、平和を強く望むのだ。

「ジュリアス王子、万梨亜様、このような場所へ何故おいでになりましたか?」

 野営地に辿り着いた二人は、半場詰るようなエウレシスの出迎えを受けた。ジュリアスは生活兵にテントを作るように指示した後、その横でにしつらえられた席へエウレシスを誘った。木の椅子は使い込まれたものでかなり頑丈な出来だった。風が身を切るように冷たい。

「第一陣と共に来たがここからは別行動になる。余らはファレ山の麓のカリスト神殿へ向かう。第二陣は明後日にやってくる、それらは他国の援軍が主だ。またリーオからもケニオンを挟み撃ちにする形で援軍が来る」

「そうなりましたか……」

「ところでファレ山に入った者はいるのか?」

「ケニオン軍が居るせいもありますが、ものすごい瘴気でとても近寄れません」

 エウレシスはなだらかな山並みを遠くに見やり、ジュリアスに現況を説明する。瘴気が日増しに強くなっている事。この凄まじい瘴気の中でケニオンの兵はファレの町を動かない事。住民は一人残らず避難する有様である事など。それらは皆ジュリアスが遠視で確認しているのと符合していて、ジュリアスは黙って聞いていた。説明が終わった後、ジュリアスはエウレシスに言った。

「あの瘴気は魔王が絡んでいるゆえ、余達はそれをひきつける必要がある。そなた達は第二陣とリーオ側からの援軍と連携を取りつつ、ケニオンを挟み撃ちにしろとテセウスが言っていた」

「そのリーオですが大丈夫なのですか? ケニオンに加勢するつもりなのでは? それに大人しく挟み撃ちにされるケニオンではありますまい」

 数ヶ月前に裏切られたばかりなので、エウレシスはリーオを信用していない。ジュリアスは控えていた兵から茶の入ったカップを受け取り、静かに啜った後わずかに笑う。

「あのオプシアーとやら、どうやら最初からケニオンを切るつもりだったらしい。確かに信用はならぬだろうが、ことケニオンに関しては裏切りはあるまい。挟み撃ちに関しては悟られぬようにする必要があるな。瘴気の方は余が引き受ける。すぐに取り掛かる」

「少し休まれては? 万梨亜様が……」

「ニケがついている。瘴気を封じ込めるぐらいは余一人で十分だ。それより危険なのはケニオンの者共がすべて催眠状態にある事だ」

「すべてですと?」

 驚くエウレシスにジュリアスは厳しい目でうなずいた。従軍している魔術師のレベルが低く、それを知らなかったエウレシスは舌打ちしそうになった。瘴気の妨害があるとはいえ、遠視すらもまともに出来ていないとは。

「全員が赤い目をしている。それに注意せよ」

「操っているのはヘレネー王妃でしょうか?」

「違う。彼女も操られている。それが誰か見極める必要がある。だが余にはその事に力を割く時間はない。魔術師どもにやらせよ」

 おそらく無理だろうと思いながらジュリアスは言った。自分ですら探し出せないのに、魔力がはるかに劣る者達に出来るとは思えない。ジュリアスが言いたいのは催眠状態にある人間の危険性についてなのだ。

 やがて第一陣の司令官がやって来て三人で打ち合わせをした後、それぞれの任務を遂行するために散った。エウレシスは愛馬のニケに餌をやっているジュリアスを振り返り、首をかしげた。何かが変わった気がする。

(何が変わったのだろう?)

 それを考える暇は無く、エウレシスはすぐに自分の仕事へ取り掛かっていった。

 ジュリアスはニケに餌をやり終えて水を与えた後、張られたテントの中に設えられた簡易寝台に横たわる万梨亜を見て、やはりこの強行軍は良くなかったかと少し後悔した。同行した魔術師が回復魔法をかけてはと言うのを退け、二人きりになる。テントの中は外のざわめきをわずかに防いでいて、万梨亜はそれに安堵を覚えているようだ。

「申しわけございません。こんなに長時間馬に乗ったのは初めてで」

「案ずるな。そなたはここでしばらく休め。何が起こってもニケが護ってくれる」

「……ジュリアスは護ってくれないのですか?」

「もちろん護るが、近くで護るというのは少々難だな。魔王と対決するゆえ」

「一人で行かれるのは許しませんよ」

 美しく煌く黒い瞳に睨まれてジュリアスは苦笑した。ひょっとして万梨亜にも真実の眼があるのかと思うぐらい、心を読まれている気がする。だが瘴穴に連れて行く事だけは避けたい。

「魔王が出現するとすれば新月の夜だろう。まだ少し日にちがある」

「そんなもの、今の魔王にはどうでもいい事だと思われますわ。私一人を安全な場所へ置いておきたかったのなら、ディフィール王宮に閉じ込めればよかったんです」

「万梨亜」

「眠りの術をかけようとしても駄目です」

 差し出されたジュリアスの右の掌から、万梨亜は顔を背けた。そして自分の胸に両手を当てて術を唱える。回復魔法だ。見る間に疲労が消えていく彼女にジュリアスは目を瞠った。最近魔術の本を熱心に読んでいるとは思っていたが、自分の力をここまで使えるようになるとは思っていなかった。

「……そなたは」

「なりません。ジュリアスと私はどこまでも一緒です。ずっと躊躇されていたのはこの道中でわかっておりましたよ」

 ジュリアスはため息をついた。テントの外でわかっているかのように黒馬のニケがいななき、万梨亜が髪をかき上げたジュリアスに微笑する。

「食事がまだでしたわ。すぐにでも行きたいところですが、お腹が空いていては戦いにもなりませんから分けてもらってきますね」

「待て、男ばかりで危険だ」

「ニケがついてきてくれます」

 返事をするニケのいななきと一緒にテントの外へ万梨亜が消え、ジュリアスは万梨亜が横になっていた簡易寝台に腰を掛けると、気だるげに一人布の天井を仰いだ。通気孔から見える空は雲行きがかなり怪しく、あと少しで雨が降りそうな重苦しさを孕んでいる。視線を足元に落とし、ジュリアスは一瞬青い目に炎を宿らせて苦笑した。

「……未来は変えられるはずなのだが、余には無理なのかも知れぬ。奇跡は起こりえぬから奇跡と呼ぶのだろう」

 幼い頃、与えられた真実の眼で母の死を知り、これ以上恐ろしい事は起こらないと思いたいばかりに必死に未来を視た。それは人生経験が浅い人間が取りがちな愚かな行動だった。たどり着くのは戦乱や人の死ばかりで明るい未来など何も視えず、ジュリアスは一人で震え上がった。大人に話したところで、怖い夢を見たのだろうと誰にも信用してはもらえなかった。結果、身内や王宮と関わるのが嫌になり、粗末な小屋に住んで農地を耕すようになった。世間から離れて隠者のように暮らす中、その暗い未来予知は悉く的中していった。絶望に近い思いを抱くジュリアスの唯一つの希望は、必ず異世界から現れる魔力の石を持つ女──万梨亜だった。万梨亜だけ未来が視えなかった。過去は視えても未来は視えない彼女の存在だけが、ジュリアスの救いで彼のすべてであったのに……。

「テイロンは何ゆえ余に真実の眼を授けたのだ」

 ジュリアスは寝台に仰向けに倒れ、握り締めた拳の甲で両目をゆっくりと擦る。

「人間になったからか? 何故彼女の未来が視える」

 ジュリアスの独り言は外の喧騒より弱く、誰かが傍にいても聞こえないほどかすれた声だった。

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