ディフィールの銀の鏡 第77話

 ケニオンの王宮の中でも、一番贅が尽くされている王の間。普通なら国王デュレイスがいる場所にヘレネーの父であるリクルグス将軍が居た。すべてのケニオン人を操れる秘薬を飲んだリクルグスが一番にやった事は、国王デュレイスによるディフィール侵攻だった。中でも強く命じたのは、王子ジュリアスの殺害とその后万梨亜の捕獲。ジュリアスのせいですべてが崩れ落ちたと思っているリクルグスは、彼になみなみならぬ憎悪を抱いている。一方で最強の魔力の石を持つ美女の万梨亜に懸想していた。

 だがそれは未だに成されないまま七日が経とうとしている。何故なら目的の達成まで人を操るには、じっとその事を心の中で命じ続ける必要があったのに、ヘレネーがその説明をわざとしなかったためだ。過去に同様の秘薬を使った人間は瞑想に入り、誰も部屋に寄せ付けないようにしていたという。それを知らないリクルグスは、軍がファレを侵攻したと聞くや否やジュリアスの殺害と万梨亜の捕獲を考えなくなり、それ故ケニオン軍はファレに留まり続ける羽目に陥っているのだった。

 王の間で私利私欲を満たす法律をリクルグスは次々と決めていた。どんな小さな事柄でもリクルグスの承認が要る事を盛り込み、事実上の国王の権力を握る為に。

「ヘレネーめ、いい薬を作ったものだ。あの蛇女の娘はどこまでも役に立つ」

 デュレイスのみが許されている王座に座り、黄金の杯の酒を次々と飲み干しながらリクルグスはほくそ笑む。ヘレネーの母である蛇女を魔術師に命じて捕獲し、乱暴に犯した時を思い出すと凄まじい高揚感がリクルグスを襲う。魔力を封じる枷を両足首につけられ、泣いて許しを乞う彼女は扇情的で妖しい色香に満ちており、それでいて妙な清純さを持ち合わせていた。神の妻だったらしいが魔族に堕とされたらしい。そばに同じように魔力封じの枷を両足首に付けられている幼子が居て、母が犯されるのをいつも黙って見ていた。それが現在の魔王だ。

「あの時殺さずにいた恩を忘れおって……! 今に見ておれ」

 最強の魔力の石を持つ万梨亜を手に入れれば、魔王など恐るるに足らず。リクルグスは野卑な笑みを浮かべ、自我を奪われた美女の腰を抱いて寝台へ向かった。するといつの間にか黒髪の若い男が我が物顔でそこへ寝そべっていた。

「貴様、そこで何をしている。ここは王の部屋だぞ。出て行け!」

 ケニオンの王きどりのリクルグスは、ぶくぶく太った顔を怒りで赤く染めて横柄に怒鳴った。

「お前は王でもないのに使おうとしているようだが?」

 赤い光をまとった黒髪の男は、リクルグスが抱いている女よりはるかに美しい女の乳房を弄っている。その淫らさにごくりとリクルグスの喉が鳴った。

「そ、その女を置いていくのなら許してやるぞ」

 黒髪の男…………魔王ルキフェルは鼻で笑った。

「どこまでも愚かな男だ。お前など誰が相手にしようか、なあ……カリスト?」

「ええ。こんな豚蛙の相手なんてまっぴら。本物の蛙に抱かれたほうがましね」

 くすくす笑う二人の横のテーブルで、黄金の枠に縁取られている砂時計の砂がさらさら落ちている。もう少しで全て落ち切りそうな勢いだ。リクルグスの虚栄心はこの一週間でかなり肥大化していた為、二人の侮蔑が下克上の野蛮なものに思われた。事実上のケニオンの王である自分に、この無礼な者達は愚かな挑戦をしていると。

「何を生意気な……、衛兵!」

 声高にリクルグスが叫んだ時、砂時計の砂がすべて下へ落ちた。数名の足音が廊下から近づいてきて、王の間の両扉が乱暴に開け放たれる。

「こいつら二人を切り刻め!」

 リクルグスの命令に、真紅の布地に黄金の紋様が描かれた軍服を着ている近衛兵達が、一斉に鋭い光を放つ剣を抜いた。リクルグスは人を虐げられる喜びを顔に滲ませた。彼は弱いものを虐めるのにいつも目を輝かせる……。

「な?」

 寝台で戯れる男女を指していたリクルグスは、向かってきた近衛兵に何故か取り囲まれた。皆恐ろしい殺気を放っている。そして男女には見向きもしない。リクルグスは命令を無視する近衛兵達に怒鳴った。

「何をしている、早くしないか……ぎゃあっ!」

 突然抱いていた女がリクルグスの薄い髪をまとめて引きちぎった。頭から血を流しながらリクルグスは情けない悲鳴をあげる。女の目に赤い光はなく憎しみだけが揺らめき、血が滴っている毛髪をさも汚いもののように豪華な絨毯へ投げ捨てると、自分の腰を抱いているリクルグスの腕を乱暴に振り切る。

「リヘラ、気が狂ったか!」

 自分を殴ろうとするリクルグスの手を、リヘラと呼ばれた女は敏捷に避け、包囲する輪を狭めてきた近衛兵の後ろに下がる。リクルグスは剣を前後左右から突きつけられ、情けないほど身体を震わせ始めた。そんな彼を涼しげに見やるルキフェルは、カリストを嬲る手を止めない。

「秘薬の効力が切れたようだな。追い出されるのはお前のようだ、くく」

「な、な、何を馬鹿な。私は国王につぐ権力を持つ将軍リクルグスだぞ。どいつもこいつも私の命令を聞かねばならんのだ。お前達! そこにいる無礼な奴らを早く追い出せ!」

「つまみ出されるのはお前だ。我らの姿はお前以外には見えていないのだからな……」

「ひ……ひいっ」

 近衛隊隊長がリクルグスの襟首を掴んで引っ張り、床へ乱暴に叩きつけた。肥満ではちきれんばかりになっているリクルグスの身体は受身をとれずに転がる。起き上がろうとしたリクルグスの顔の横に、近衛兵の剣がぐさりと突き刺さり、わずかに顔を切ったリクルグスはまた情けない悲鳴をあげた。

「ひゃああああっ。血が……血がぁっ」

「将軍ともあろう方がこのぐらいで脅えられるとは、ケニオンも地に堕ちたものですね。我らにはこれ位の傷は日常茶飯事でありますのに」

 怒りと憎しみに燃えた目が上からリクルグスをまっすぐに射抜く。助けを呼ぼうとして誰も味方が居ない事実に気付いたリクルグスは、にやにや笑っている魔王を仰いだ。

「た、助けぬか魔王っ。あの時殺してやっても良かったのを助けた恩を忘れたのか」

「ほう……我が誰かわかっていたのか。それなのに助けた恩? 魔力封じの枷で動けぬようにして、目の前で母を陵辱したのを助けたというのか? 人間界の恩とやらは魔族なみのようだな」

「なな、何をゆ、悠長なっ。天を追われたお前達を救ったのは私だぞ!」

「可笑しな事を言う。魔術師の蜘蛛の糸が突然我らを攫ったのを救った行動だと? はははははっ! ヘレネーが魔力の石を持つ赤子だと知った途端に母を部下達に与えてなぶり殺し、我を慰み者にした事が救った? お前は我より余程愉快な生を送っているようだ」

「お前とて歓んでいたであろうがっ」

「さあてなぁ。昔過ぎて覚えておらぬ。覚えておるのは生きたまま腹を割かれた母が血みどろになって死んだところか……。お前はその母を犬の餌にして笑って見ておったなあ」

 まるでルキフェルの意思を受けているように、近衛隊隊長の剣がリクルグスの腹に切っ先を突きつける。逃げようとしても首の横の剣がそれを許さない。鋭い切れ味の剣が、服ごとぶくぶく太っているリクルグスの腹へ沈んだ。

「ぎゃああああっ……!」

「ほんの少しであろうが? 大した事はない。母の時もそう言っていたなお前は」

「馬鹿者っ。あれは魔族だぞ、私は、私は人間だっ!」

「魔力封じを施されて人間並みに魔力が堕ちていたな、我らも……」

 ルキフェルが小さく指を鳴らし、呼応してリクルグスの腹の上の剣が腹に刺さったまま下へ降りていく。生きたまま腹の皮を裂かれたリクルグスが恐ろしい声をあげた。

「ああああぁあっ!!! わかった、私が悪かった。許してくれ。もう何もせぬ。何もせぬゆえこれを止めさせよ。ヘレネーも開放するっ。お前達の母の墓をちゃんと作る。だから」

「知らんなあ。母の骨もないのにどうやって墓など作る気だ。ヘレネーを操る? 操られているのはお前だ……」

 カリストの首筋に唇を滑らせながら、ルキフェルはにやりと微笑む。

「うが……うううっ、許してくれ許してくれ。何でもいう事を聞く、だから!」

「母もヘレネーも同じように許しを乞うたな。最後までせぬのを免罪符にお前はヘレネーが幼い頃から慰み者にしていたようだが? 今はあれだが当時はよく泣いていたようだ」

「許してくれ。あいつらは魔女だ。魔女だから悪いんだっ。ぎひぃっ!」

 ルキフェルの眉がわずかに上がり、近衛隊隊長の剣が突然腹をまっすぐに貫いた。しかもそれは致命傷にならない場所だが、痛みだけは凄まじく感じる場所だった。魔王はみっともなくぎゃあぎゃあ騒ぐリクルグスに飽きたのか、掌を小さく振った。ルキフェルが命令する姿が見えているわけでもないのに、近衛達は悶絶しかかっているリクルグスを起こし、数名で担いで部屋を出て行く。窓からは民衆達の怨嗟の声がとどろき、この王の間を目指して突き進んでいるようだ。ヘレネーの秘薬の効力が切れた途端に皆が正気に戻り、その分の憎しみが一気に噴出している。

「……怖いわね人間って」

 初めてカリストが声を発した。美しいものだけを見ていたい女神の顔は青い。ルキフェルは笑った。

「女神のお前が言うのか?」

「貴方が一番怖いわ。何を考えているの?」

「我の恐ろしさはわかっていると思っていたが」

「ルキフェル!」

 ルキフェルは興味が失せたようにカリストの身体を突き放した。その時民衆の投げた石が窓を突き破り寝台の上へ転がった。王宮の門が壊され、人々が蟻の大群のように押し寄せてきている。暴動の始まりだった。

「妹ながら恐ろしい女だ。手に入らぬのならいっそ壊してしまえ……か。その気持ちは良くわかるがまだまだ甘い」

 廊下から助けを呼ぶリクルグスの言葉にならない声が響いた。復讐の宴が始まったのだろう。ルキフェルは生きながら徐々に殺すようにという意識を彼らに植え付けた為、リクルグスは簡単に殺してもらえず、これから数日間死ぬより辛い拷問に掛けられるのだ。ヘレネーは心の底から自分の父親を憎んでいたようだ。恋敵の万梨亜など比較にもならない程に。

「世界に光などいらぬ。闇にすべて包まれれば良い……」

 ルキフェルは震えているカリストを置いて、ふわりと割れた窓から外に出ると、そのままディフィールに向かって飛んでいく。阻む激しい吹雪はルキフェルの敵ではなく、ルキフェルはその中をたやすくすり抜けていった。

 魔王の姿が吹雪で見えなくなってから、カリストは呆然としていた自分に気付き、裸の上に魔法で服をまとって立ち上がった。

「……テイロンに言わねば」

 いまさらながらカリストは自分の起こした事件の大きさがわかったらしい。しかし、もうすべて彼女の手には負えない。ケニオンのたけり狂う吹雪には人々の怨嗟が滲み、恐ろしい濃度の赤い呪文が立ち上る。それらはすべてディフィールへ向かうルキフェルの身体に吸い込まれていく……。

 ファレで留まっていたケニオン軍に異変ありとの報告が入ったのは、ジュリアス達がフェードラを発ち、一時間ほど経った頃だった。それと同時にあの凄まじい瘴気が一斉に引いて行った為、誰の目にもそれはあきらかだった。

「どういう事かしら……」

 万梨亜はあんなに強かった瘴気が消えたので、不思議に思いながらも不気味な心地がする。それは他の者も同様だ。ジュリアスは遠視で集団催眠が解けているのを視た。

「行くぞ」

 ジュリアスが黒馬のニケの腹を蹴った。しかし警護の者達の馬が軒並み揃って動こうとしない。静止を呼びかける彼らを無視してジュリアスはニケを飛ばし続ける。

「ジュリアス?」

「魔王が降臨して瘴気を吸い取った。それを馬達はおびえているのだ」

「魔王が……!? 近くに居ると言うのですか」

「ディフィールには居るだろうがまだ遠い。いずれにせよカリストの神殿へ向かう」

 ジュリアスはファレ山の麓に向かって黒馬のニケを急がせた。もう警護の者達の姿は後ろに見えない。それがジュリアスの目的だった。果たしてすぐに魔王のものと思われる稲妻が近くに落ちた。鼓膜が破れるような地響きに、万梨亜はジュリアスの胸の中で肩をすくめた。

「だからあそこで寝ていればよかったのだ」

「いいえっ、怖くなどありません」

「正直に怖いと思えばよい。今だけはな」

 強い風がファレ山から吹き降ろしてくる。見るとリーオ軍の旗が翻りながらいくつも山道を降りてくるのが目に入った。

「ケニオンの内部とリーオが繋がっていたか……!」

「ではディフィールに突撃してくるのでは……」

「それはわからぬ。使者を出す必要があるな。どうやら今のケニオン軍に侵略の意思はない様だ。操っていた人物が死んだか何かしらがあったのであろうが。ともかくエウレシスが危惧を抱くのも当然だ。ヒュエリア!」

 ジュリアスが手綱を持たない左手を空中に差し出すと、万梨亜からいきなりヒュエリアが出現した。そして腰にしている皮袋から文具を取り出して、さらさらと伝言を紙に書き、ヒュエリアの細い足首に括り付ける。

「エウレシスのもとまで飛んでこの文書を届けよ。その後はディフィール王宮のソロンにこの事を伝えよ。テセウスにヒュエリアの言葉はわからない。必ずソロンからテセウスへ直に言わせるのだ。わかったか?」

 ヒュエリアは声高に鳴き、またたくまにエウレシスが居る方向へ飛び去った。

「あの鳥は話せるのですか?」

「ソロンや神々にだけはな。万梨亜とてできるだろう、あの鳥に気に入られているのだから」

「知りませんでしたわ」

「必要ないゆえ話さなかった。では行くぞ」

 自分と万梨亜とニケが見えないようになる術を、ジュリアスは短い詠唱で施す。ニケは黒い翼を広げて草地を強く蹴った。彼らは動揺しているケニオン軍の上を通り抜け、ファレ山の麓のカリスト神殿を目指して飛んでいく。万梨亜はデュレイスが気に掛かったが、もう彼とこの先交わる事はないと思いなおした。

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