ディフィールの銀の鏡 第80話

 現れたルキフェルに万梨亜は恐ろしいものを感じた。前から恐ろしいとは思っていた。魔族の王というその言葉だけでも禍々しいのに、今の魔王ルキフェルは、この世界の負のエネルギーを一身に具現化しているとしか言い様がない禍々しさなのだ。

「久しいな万梨亜よ。ジュリアスに愛されてより一層力を蓄えたようだが」

「……貴方も」

 ぞくりと背筋が震える暗い目だが、万梨亜は恐れずに見返した。以前の彼女ならすぐに囚われて心をルキフェルに明け渡してしまっただろう。ただし万梨亜が成長したように、ルキフェルも成長している。正反対の方向に。南に位置するディフィールに珍しく降っていた雪はようやく止んだ。今は風ばかりが冷たく吹き付けている。ニケが馬から人間に変わり、万梨亜を庇うように立ちはだかった。

「魔族のなりそこないが、我の前に出てくるか」

「知らないな。あんたが嫌い、それだけで十分さ」

 はっと鼻で笑うニケに、ルキフェルはほんの少し唇を歪めた。

「お前が好きなジュリアスがすぐに死ぬとわかっていて、健気と言うべきか」

「はあ? もうろくしたのかあんた」

「知らぬとは幸せなことだ。なあ……? ジュリアスよ」

 ジュリアスは何も言わなかった。ただ黙って帯びていた剣をするりと抜き、ルキフェルに向けた。ルキフェルが哄笑する。

「そんなに死にたいか?」

「死ぬと決まってはおらぬ」

 静かにジュリアスが言ったのを皮切りに、ルキフェルが左手をかざして赤い炎を噴出させた。ジュリアスは涼しい顔で受け流して小さく詠唱し、万梨亜とニケの周囲に透明な防御壁を作る。そして空へ飛んだ。ルキフェルも飛び今度は剣を抜いた。

 爆風が風で荒れ狂う空で起きた。

 赤い光を放つルキフェルに青い光を放つジュリアスが応戦する。圧倒的にルキフェルの方が力強く、剣が不得手なジュリアスが完全に押されているのが万梨亜にでもわかった。

「どうしてジュリアスは魔法で攻撃しないの?」

「…………」

 ニケが返事をしないので万梨亜は不安になった。それに気付いたニケはにこりと笑う。

「不安になってはいけません。負の感情は魔王の手助けになってしまいます」

「ニケ」

「信じたらいいんです。王子は何もかもわかっていてあの戦い方を選ばれたのですよ」

「でもジュリアスは戦いは苦手なのに。剣の練習をしているところなんて見た事ないわ」

「そりゃそうでしょう。あれは主神テイロンの記憶で振るっているのですから。神の子は父の記憶を頼りに生きると聞いたでしょう?」

「…………」

「見ていて感じませんか? あの二人、剣の振るい方がそっくりです」

 万梨亜はニケが何を言おうとしているのかわからなかった。ただ、ジュリアスが勝つように強く望む。それがジュリアスに伝わり魔力の石の力が発揮されるのだから。ニケは万梨亜を見て微笑み、己に集中して魔力を高めていく。

 叩きつづけられた剣の音が不意に止んだ。二人は相変わらず空中に浮き続けたまま、互いを睨んでいる。風は先ほどより強くなり、二人の衣服を弄ぶ手を激しくさせた。

「……魔王よ。もっと本気を出さねば余には勝てぬぞ」

「その様だな」

 にやりと笑ったルキフェルが不気味な声音で何かを唱えた。分厚く雲が垂れ込めていた空が、より一層の漆黒を孕み雷の咆哮が響き始める。その雷の色が異様だった。血を溶かしたようなどす黒さを滲ませた真紅の色の赤なのだ。

「ジュリアス。なぜ瘴穴を封じるお前を我が邪魔しなかったかわかるか?」

「知らぬ」

「ははは! 知らぬ、ではない。お前は視たくても見えないのだ。特定の未来以外はな!」

「…………」

「お前は神力を失いただの人間になった。それに伴い真実の眼の力にも異変が生じているのだろう。一定の強さで視えていたものが途切れ途切れにしか見えなくなってしまった。混乱を避けるためお前はわざと視ないのだ」

「だからどうだと言う? 視えていようがいまいが未来は変わらぬ。ならば視ないほうがよい」

 ルキフェルの感情の高ぶりを示すように、真紅の雷が二人の近くに落ちて封じたはずの瘴穴をまた開けた。瘴気が吹き上がって地と空気が震え、周辺の気が瞬く間に乱れていく。その瘴気にはルキフェルの意思があり、幾筋にも分かれて枯れ草が広がる地面を恐ろしい速度で走り出した。向かった先はケニオンやディフィール、リーオの兵士達だ。魔術師達が防御壁を作ったが瘴気は数日前より威力を増しており、防御壁を薄い氷を割るように叩き壊して、兵士達に襲い掛かっていく。

「人間どもよ。互いを甚振り、殺し、至る所を破壊せよ。人も、作り上げたものも、大地も、水もすべて破壊しつくして滅びるのだ!」

 瘴気に当てられて倒れた兵士達がのそりと起き上がった。その顔に表情はなく、目が赤く染まっている。なんとなく周囲を見渡した彼らは、なんと敵味方関係なく剣を振るい始めた。自分以外のすべてが敵に見えているとしか思えない。魔術師達は恐ろしい禁呪を発動させ、周囲の兵士達を発狂させる。剣に優れた者は跳躍して滅多切りを始めた。司令官達は自分の思い通りにならない兵士達を槍でぶん殴り、乗っていた馬の骨を砕き、その鋭い刃先で止めを刺す。ある者は近くにいた少年兵に襲い掛かり、鎧や衣服をすべて剥ぎ取って全裸にし犯し始めた。貫かれた少年の叫び声が狂気をさらに深め、たちまち場が阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 ジュリアスが目を瞠った。

「……これは」

「今頃気付いたか。お前が瘴穴封じに使った魔力はすべて我が吸収して我が物にしている。その分お前は弱っている。我へ向けたものでなくても、魔界へ通じるものは皆我の力になるのだ」

「……」

「つまり瘴穴など放置しておけばよかったのだ。どちらにしてもこの地獄絵図は変わらなかったであろうな……、見ろ」

 以前より大きくなった瘴穴から、凶悪な魔族達が這い出てきた。見るのも汚らわしい禍々しさを放つ魔物達。上級の魔物ではなく、力はあれど知能がないという、ある種人間にとっては最悪な生き物だった。毒々しい液体を撒き散らしながら這い進む毛虫のような蛇。三つの牛の頭を持つ巨人。群れを成す吸血虫の大群。形はなく、アメーバのように触手を伸ばして跳躍するおどろおどろしい色の液体。嗅いでいられない悪臭が瘴気に混じり、人間達はまともに息が出来ず、それらを排除しようとして狂ったように暴れ始める。

 ジュリアスの頬に汗が滴り落ちた。瞳が辛そうに揺れ、狂うディフィールの地を見ている。己の魔力がルキフェルに加担してしまったのだから無理はない。万梨亜はジュリアスがどれだけディフィールを愛しているか知っているだけに、胸がかきむしられるようだった。

「知能がないってやだね。敵う相手でなくても挑んでくるんだから。うっとうしい」

 あくびを漏らしそうな声でニケが毒つく。ニケと万梨亜の防御壁はびくともしない為、魔物達は中にいる二人をなんとか捕食しようと、瘴気や悪臭を放つよだれを撒き散らしたり、ばんばんと体当たりしてきた。壁からの衝撃は伝わるため、万梨亜はニケにしがみ付いた。

「ニケ。ジュリアスを助けたい」

「今は駄目です。お后様に出来るのはこうやって俺に大人しく守られている事ですよ」

「でも!」

「わざわざ魔王に捕まるために出て行って、魔力の石ごと魔王に呑まれますか?」

「呑まれないわ」

 胸から青い光を発し始めた万梨亜の両腕を、ニケが強く跡が残るほど掴んだ。

「わからない人ですね。王子は貴女に傷ついて欲しくないんですよ! 四の五の言わずに護られていなさい、あの人のためを思うのなら!」

 万梨亜を置いて行こうとするほど護りたがっていたジュリアスを知っているだけに、万梨亜は悔しそうに唇をかんだ。では自分は何の為に存在しているのだろう。

「男はね。戦いの場に女を出したくないんですよ。差別とお后様はおっしゃるかもしれませんが、女は戦うものじゃない、ひたすら生きて幸せになるものなんです。それを護るのが男の誇りなんです」

 いつもふざけた物言いのニケが、めずらしく真剣な眼差しで万梨亜を射抜いた。それでも、と万梨亜は思う。視線の先にいるジュリアスは、頼もしくも見えたが同時にとても悲しげに見えた。

 ディフィール王宮では、ソロンからジュリアスの伝言を聞いたテセウスが難しい顔をしていた。そばにいるテーレマコスもクレオンも同様だ。

「オプシアーがケニオンの王になるとは……。テーレマコスはどう取る?」

「ヘレネー王妃が利用されていたと見るべきでしょう。彼女が王妃になった時から、反デュレイス派は根回しをしていたのではありませんか?」

「では、リーオ国王の兄が殺されたのは……」

「ええ、彼らの策略によるものでしょう。あの国王には国王の器があると思えません。わざと悪政を行わせてクーデターを起こしやすくした。しかもそれをヘレネー王妃にすべて罪を被せる」

 テーレマコスはリーオを見張っていたにも関わらずそれを見抜けなかった。いや、もし見抜いていたとしても、今の状況を阻めたかと自問する。答えは否だ。それほどディフィールは、前の国王とその取り巻きの私利私欲で弱体化していた。秩序が乱れている国がまともに機能できるはずはないのだから。上から下まで浸透するには時間がかなりかかる。

「誰かの意思を感じるな。上手くできすぎている」

 テセウスの言葉に、クレオンとテーレマコスは頷いた。そばにいたソロンも頷く。

「……やっぱり魔王がやってたんだね。ここまで来ると怖いね、弟への憎しみも」

 三人はソロンの言葉にぎょっとした。

「魔王は、父上……ジュリアス王子の兄上なんだ。二人は父親に主神テイロンを持っている、異母兄弟なんだ」

 遠くから、悪夢を告げる真紅の雷が近づいてきた。

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