ディフィールの銀の鏡 第81話

「それほど父が憎いかそなたは」

 ジュリアスはゆっくりと剣を持ち直した。ルキフェルが何かを言おうとする前にジュリアスは続ける。

「父に寵愛されている余が憎いか? 葬り去られた存在の兄としては複雑であろうな」

「お前、知って……」

 珍しく言葉を詰まらせているルキフェルに、ジュリアスは哀れみに似た笑みを浮かべる。

「テイロンが己の罪を息子に見せないようにしていたと思ったか? テイロンの決断は生半可なものではないぞ、あれが余に真実の眼をくれたのは余が3歳の頃。そなたはおそらく7歳の頃であったろうかな、リクルグスに苛まれていた頃か」

「…………!」

 甲高い音を立ててルキフェルか剣を振るってきた。ジュリアスはそれを受け止め、至近距離でルキフェルに向かい合う。

「すべての発端は、お前の母がテイロンの正妻でありながら、テイロンの父と不義密通した事に始まる。それがわかったのは、テイロンが父を倒して主神になり数年が経った頃……、テイロンは狂ったであろうな、自分の子供だと思っていたそなたが憎い父の息子だと思い込んで」

「そうだ、あのテイロンは主神などと呼ばれているが、父親を殺し妻子を嬲った恐ろしい男だ。お前とていつ裏切られるかわからぬぞ!」

 噴出した赤の波動を避けきれず、ジュリアスは近くの木に強かに身体をぶつけた。背中がきしみ、初めて彼の顔が苦痛に歪んだ。あまりの激痛に剣を離しかけ、目を閉じてしっかり握りなおす。万梨亜が悲鳴をあげているようだがジュリアスは耳に入れない。今は彼女の事を考えてはいられない。間を置かずに来た二発目を避けて横に飛ぶ。大木が木っ端微塵に砕け散った。

「なかなか敏捷に動けるではないか。夢の世界ではすぐにデュレイスにしてやられていたであろうに」

 無尽蔵に繰り出されるルキフェルの衝撃波の攻撃をことごとくかわすジュリアスは、さすがに息が切れていた。彼は戦場の経験が少ないため、剣のみの接近戦は向いていない。それでもジュリアスはルキフェルと戦う必要があった。

「そなたはまだ本気ではないようだ。余がまだこれだけ動けるのだからな」

「小ざかしい……っ、人間ごときが!」

 突然ジュリアスの足へ木の蔓が意思を持って絡まり、ジュリアスは衝撃波をまともに浴びた。

「ぐはっ……!」

「この場所は魔界の入り口と直結している。木々も土も水も我の思いのままなのだぞ。それゆえあのカリストは我に誘惑されたのだ」

 容赦のない衝撃波がジュリアスを引き裂いていく。髪が散り、服が引き裂かれて手足や顔から血が流れ始めた。それでもジュリアスは己の魔力を発動させてそれをかわす。ルキフェルはぎり……と歯をかみ締めながらも、ふと防御壁の万梨亜へ視線を移動させる。その視線にジュリアスはニケに注意を喚起しようとしたが、すべてが遅かった。防御壁は地面から上にしか張られていない。地中からいきなり見えない手が出現し、万梨亜の身体をむんずと掴んだ。

「きゃあっ!」

 さすがのニケも土の中からの攻撃は予想していなかったのだろう。しかしあっさりと万梨亜を渡すわけにはいかない。剣を抜いて土の中のルキフェルの手を切断しにかかる。

「やらす……かよ!」

「馬鹿めが!」

 ニケが防御壁からルキフェルの手に気を逸らしたため、ルキフェルの目から放たれた赤い光が防御壁の隙を攻撃して破壊した。背中からまともにルキフェルの攻撃を受けたニケはそのまま土の中にのめり込む。

「ニケっ!」

 ニケは万梨亜の悲鳴に起き上がろうとしたが、両手両足を土の中の魔物に絡め取られた。毒素を放つ嫌な触手だ。普段なら戦う価値もない低級の魔物なのに、ルキフェルの意思を受けたそれは脅威だった。たちまちニケの身体を飲み込んでいく。

「させないわ!」

 万梨亜がルキフェルの手に身体をつかまれながらも、触手に向かって青い雷を落とした。触手はすぐに砕け散ってただの液体になり、ニケの身体は土の上に放り出された。しかし万梨亜は、本物のルキフェルの腕に抱きしめられる形になった。

「おのれの魔力を扱えるか、万梨亜」

「貴方と戦うためではないわ。皆を護るためよ」

「それが女の浅智恵というものだ。己を護る男達をかえって危機に陥らせてどうするのだ……」

 先ほどのルキフェルがやったように、万梨亜は至近距離でルキフェルの顔を狙って衝撃波を放った。しかし……。

「これは気持ちがいい」

 にやりとルキフェルが笑った。衝撃波が放った瞬間からルキフェルに吸い込まれていく。

「どういう事なのっ」

「まだ気付かぬのか。何故ジュリアスが先ほどから魔法の攻撃をしていないと思う? 我が皆吸い取ってしまうからだ……」

「そんな!」

「そなたのくれた魔力のおかげで、我はさらに充実した……。手始めにジュリアスを叩き潰してやろう」

「止めなさい!」

 ルキフェルは右の手に握っている剣を振りかぶった。防御を解除したジュリアスが恐ろしい目でルキフェルを睨み、ついで万梨亜を見た。足手まといになった後悔が万梨亜の胸に広がった。

「ジュリアスよ。この女を殺されたくなければ我の味方になれ。この世を破滅に向かわせようぞ。あのテイロンが作り上げた人間界など砕いてしまえばよいではないか。それともこの世界の覇者になりたいのか」

「断る。余は王だの覇者だのに興味はない」

「なら何故戦う。大人しく鍬を持って土を掘り返しておれば良いものを……」

 ルキフェルの嘲笑と共に、振り下ろされた剣の先から真紅の雷が轟いた。ジュリアスは身体中の痛みに耐えながらもそれを必死でかわした。ついで足に絡みついている蔓を切断し、再び空中に浮き上がった。

「余は世界を護りたいのではない。自分がそうしたいからしているだけだ」

「何?」

「正義も悪もこの世にありはせぬ。ましてや勧善懲悪などと言うものもな。それらはすべて強者が弱者を支配する為に考えた偽物よ」

「ならば何故」

「余の兄であるのにわからぬのか。わからぬのであろうな、お前は母から何も受け取ってはいなかった」

「侮辱するか!」

 ルキフェルから放たれる、衝撃波の三つのうちの一つはジュリアスに当たるようになってしまった。その最後を腹に受けてジュリアスの身体が地面に叩きつけられる。

「……っ!」

 それでもジュリアスは起き上がった。その動きはかなり鈍っている。ルキフェルはいちいちジュリアスが起き上がるのを待つ善人ではない、嬲るように今度は氷のつぶてを一斉に降らせた。それはジュリアスの身体を透明な氷の棺に埋め込み始めた。ジュリアスの足元から氷が覆い始め、たちまち腰にまで上がってきた。

「侮辱ではない。余が戦うのは……、余を愛する者の為だ」

「はは……! 結局はお前も我やテイロンと同じで戦いたいだけではないか」

「違う……」

「どう違うと言うのだっ!」

 凍り付いていくのを止めないまま、ジュリアスはルキフェルを見上げた。

「そなたは戦いたいから戦う。余は護るために戦う。力がなければ滅されるのはこの世の定理。弱い者が負けるのは当然」

「だからなんだと言う」

「余が戦っているのは、そなたの野望ごときが余に勝てる道理がないと思い知らせるためだ」

「魔力が尽きかかっている今に何を寝言を言っておる! もうその生意気な口答えも飽いたわ。首を跳ねてくれる」

「させないわっ!」

 万梨亜がとっさにルキフェルのむき出しの首に噛み付いた。

「何をするこの女っ」

 予想外の反撃にルキフェルは万梨亜を手放す。噛み付いた歯からの胎内へ直接流される魔力の攻撃は、ルキフェルに吸収されなかったらしい。急所を攻撃されたルキフェルはさすがにすぐに攻撃は出来ない。しかし短時間で復活し、万梨亜がジュリアスの傍へ行く前に、ジュリアスへ再び剣を向ける。

「危ない万梨亜!」

 ジュリアスが叫ぶ。ルキフェルの怒りの波動は今までの波動のどれよりも大きく、ジュリアスと万梨亜の二人を押し包んだ。赤い光が冬の空に光の柱を作る。それは遠く離れたディフィールの王都から見える巨大さで、恐ろしい地響きと共にあたりを焼き尽くしていく。

「母上、父上っ」

 ソロンが王宮の窓から出ようとするのを、テーレマコスは辛うじて止めた。ここから出すなとジュリアスから厳命を受けている。彼をルキフェルの餌食にするわけにはいかないのだ。これからを話し合っていたテセウスは、ソロンの叫び声に、向かっていた机から振り向いた。

「どうした?」

「母上と父上が魔王にやられた。早く助けて! あれを見てよ。あんなの受けたら死ぬに決まっている」

 泣くのを必死で我慢しながら、ソロンが赤い光の柱を指で指した。遥か向こうの山から見えるそれは黒い雲に覆われているのにはっきりと見えて、不吉極まりない。テセウスは宮廷魔術師長のデメテルに振り返る。

「二人はどうなっている? 映像を!」

 デメテルは頷き、空中に映像を作り上げた。その映像にその場にいたテセウスやテーレマコスを初め、居並ぶ者達は絶句した。そこに映っていたのは、炎に包まれて燃え上がる森と哄笑するルキフェル。そして、衣服や地面を赤い血で染めて倒れ伏す男女だった。

「……兵どもが、魔王の作り出した瘴気に当てられて……魔物達と共に狂っておりまする。こちらへぞくぞくと向かっているようです」

「魔術師達は何をしていたのだ」

「伝える前に、本人達が狂ったようです」

 いやに冷静なデメテルの声が、会議の間に静かに響いた。辛さに耐え切れず、ソロンがしくしくと泣き始め、やがてくる魔物達の足音が聞こえてくるかのようであった。

web拍手 by FC2