ディフィールの銀の鏡 第82話

 長い黒髪を掴む手に身体を引きずり上げられ、その痛みで万梨亜は失神状態から目覚めた。

「どうだ万梨亜。我に加担すればジュリアスを助けてやるぞ」

 ジュリアスを助ける……? 意味がわからず万梨亜は激痛の中で目を開いた。身体中負傷しているようで、血が流れているのか冷える部分やぴりぴりする部分、骨まで届くような鈍痛が苦しい。ルキフェルが手を離した為にまた下に落ちた。それは動かないジュリアスの上だった。

「……ジュリアス」

 ジュリアスは血まみれで横倒しになって目を閉じている。万梨亜は震える指先をジュリアスの首筋に当てた。大丈夫だ生きている。でもジュリアスはピクリとも動かない。魔王が言った。

「お前のせいだ万梨亜。先ほどの攻撃はまだジュリアスに避けられる余裕があったのに、お前が飛び出してきたせいで、ジュリアスはお前を巻き込むまいと己の身体を盾にしたのだ」

「……私の?」

「愛とはおろかなものだ。そんなものの為に命を危機に晒すとは」

「…………」

 万梨亜は痛みに堪えながら、魔力の石を使って回復呪文を唱えようとした。しかし何故か発動しない。

「ムダだ。我が封印している」

「う……そ。でも」

「そうだな、何故だかわかるか?」

 わかるはずがない。まだ魔法の勉強は浅いのだから。

「我の魔力はお前より上回っている」

 風は瘴気のせいで生臭く、兵士達の喧騒や炎が広がっているのが嫌でもわかる。ルキフェルは人の恐怖や怒りや悲しみを糧に、魔力をさらに大きくしていく。

「このファレから崩壊が全世界に広まっているぞ。隣国どころかそのさらに向こう側までな。すべて崩壊するのも時間の問題だ。お前達がいくら抗おうとも無駄だ。人は戦争になると狂いだす。狂わないと生きていけなくなるからな、それほど弱くてもろい」

「……やめ、て」

 そんな恐ろしい話を万梨亜は聞きたくない。住んでいた日本には少なくとも現在戦争はなかった。だが過去にはあった。沢山の爆弾が落とされ大勢の人が生きたまま焼かれて死に、あるいは敵の銃弾から逃れようと必死に逃げ、助からぬ場合は死を選べと国に強要されていた為に愛する我が子を親が殺した。男達は国の命令で殺したくもない殺人をしていた。そうしないと他国に侵略されてしまうからという理由の戦争だった……。

「どうしてなの。どうしてそんな恐ろしい破壊をしなければならないの?」

 元の世界では武器を作る商人が利益を得るために、金持ち達がさらに金を得るために、目をつけた国を戦わざるを得ない状況に追い込んで戦争を起こしていた。だがこのルキフェルはそんなものには興味はないだろう。彼は豊かさや金銀財宝などどうでもよいのだ。

「テイロンが作り上げたものが目障りだからだ」

「……ならば、あなた自身もそうでしょう。貴方は自分さえも殺すと言うの?」

「何故我が死なねばならぬ。新しい世界を我が作るというのに」

 万梨亜は目を閉じた。話すのも本当はかなり辛い。自分へ回復呪文を唱える事すらできないのでどうしようもない。おそらく今のルキフェルにとって万梨亜の魔力の石などどうでもいい代物だろう。自分の方の魔力が上回った今では、なくても困らないがあったら便利という程度に違いない。

「早く決めろ万梨亜。そうでないと愛しい夫が炎で生きたまま焼かれる事になるぞ」

 ルキフェルは楽しんでいるのだ。人が苦悩しその痛みに悶えるところを見て。

「どうした、寝ている場合ではないぞ?」

 ルキフェルが万梨亜の胸のふくらみを利用して再び彼女を抱き上げた。胸に痛みが走り、ぼんやりしかかっていた意識が戻った。頭がくらくらする。傷の具合から見て致命傷はないだろうが、普段ではありえない出血量で貧血を起こしているらしい……。

「そうら見ろ、お前がぐだぐだやっているから火がついてしまった」

 ルキフェルが楽しそうに笑い、ジュリアスの足元の辺りの枯葉に火をつけた。それはすぐに燃え広がり、ジュリアスの破けて汚れた服の裾に燃え移った。

「止めて……」

「ならば我に言え。魔力の石を捧げると。我の妻になれ」

 どちらとも嫌だ。万梨亜は歯を食いしばった。世界が滅びるのは嫌だが、それよりもジュリアスのいない世界そのものに耐えられない。愚かな考えに万梨亜は唖然としながらも、自分のエゴを否定する気にはなれない。国の為に愛する人間を差し出すなど、権力者に命じられた弱者が涙を飲んでするものだろう。

「恐ろしい女だな。お前のせいで罪のない女子供が殺されたり慰み者になり、男達はより一層狂っているぞ。お前達の息子のおかげで、ディフィールの王都は強固な結界が張られていて今は無事なようだが、それもいつまで持つかわからぬぞ」

「……勝手に私のせいにしないでください。世界が狂いだしたのは貴方のせいだわ」

「ほう、言うようになったではないか。責任転嫁か」

「しているのは貴方。貴方が人間界から手を引いたらすべては終わるの……ひっ……」

 ルキフェルの指先の鋭い爪が柔らかい胸の肉にのめり込んだ。胸が詰まり鼓動がおかしくなる。万梨亜は懸命に心を鎮め、ルキフェルの思惑から逃れようとする。ジュリアスの服についた炎がじわじわと彼を燃やしていくのが見えた。どうすればいい、どうすればこの炎を止められる。すぐに燃え広がらないのは、先ほどの氷の攻撃で全身が濡れているからだろう。そうでなかったら今頃は全身が燃えているはずだ。

「お前も所詮は権力に奢った女か。己が大事か」

「……当たり前でしょう。誰だって……自分が、一番……大事だわ。でも、だからこそ、自分を思うように人を思うのではないの……? 人を大事にしたいのではないの?」

 ジュリアスの微笑が脳裏に広がる。そうだ、この思いは彼が教えてくれたものだ。ジュリアスがいなければこんなふうに思えやしなかった。ルキフェルが唇を歪める。

「愚かな考えだな」

 左胸を握り込む力が強くなる。万梨亜はもう声など出せない。このまま抉り取られるのだろうか。でもその方がましだ。ジュリアスを捨てる言葉を言う前に死んでしまいたい。

「ふ……良かろう。お前の心のよりどころを消し去ってくれる」

 ルキフェルが炎を激しくさせた。じわじわと燃えていた炎が勢いづき、一気に燃え広がっていく。止めたい、止めなければと思うのに、もう万梨亜は指一本すら動かせない。涙すらも出てこなかった。心までルキフェルに封印されてしまったのか、凍り付いていくのを止められない。ぼんやりとした視界に炎が愛しい人を焼いていくのが見えるのに、どうして自分は動けないのだ。

(消えて、消えて! お願いだから消えて──っ!!!)

 万梨亜の目の前が真っ白になった。

 ディフィールの王都では、人々が家に閉じこもって脅えていた。街を歩いているのは王都を護る兵のみで、彼らの顔つきも怯えがいささか混じっている。それでも巡回しているのは王都を護るという国への忠誠心と、これを乗り切れば昇進に預かれるかもしれないというひとかけらの野心があるからだ。青色に発光して見えるソロンの結界はディフィール王都をすっぽりと覆っていて、ルキフェルの巻き起こしている瘴気をわずかたりとも侵入させない。当然魔物達も狂った人間達も天変地異も入ってこれなかった。結界の外は赤黒い霧の薄気味悪い世界が広がり、見るも恐ろしい狂気が渦巻いている……。

「何たる事だ。我らだけが助かっているのか」

 テセウスがどさりと王座に座り、疲れたように背もたれに凭れかかって目を閉じた。

「……ごめんなさい」

 ソロンが何故か謝るので、テセウスははっとした。

「いや、お前が悪いのではない。お前のおかげでここは無事だ。私が嘆いているのは自分の無力さだ。結局私は何もできていない。兄上を救うことすらできなかった。お前が居なければ王都はもう駄目だっただろうな」

「父上も母上もまだ死んでない。でもこのままじゃ死んでしまう」

「わかっている。わかっているのに救えないから苦しいのだ」

 そばに立っているテーレマコスは、ジュリアスがここを出ていった時を思い出していた。やはりジュリアスは死ぬつもりだったのではないかと。だからソロンをここに置いて行ったのだ。

「テイロン様に頼んでみたい」

 ソロンが言った。しかしテセウスは首を横に振る。テイロンが地上の戦争で手を貸す事は三十年前にぴたりとなくなった。今神殿に祈りを捧げても無駄だろう。神々への畏敬の念は途絶える事はないが、それだけの話だ。

「私だって神だよ。だから」

「ソロン様。人間の都合で神々に頼るのはあってはならない話なのです」

 テーレマコスが諭すと、ソロンはわからないとばかりにテーブルを力任せに叩いた。

「人間の都合じゃないっ。もともとはテイロン様が、ルキフェルとその母上を追放したから起こった事だっ。テイロン様は責任を取るべきなんだよ!」

「ですからこれが責任なのです。戦争に手を貸さない事、それがテイロンの取った責任です。かの神にはわかっているのですよ、己が動けば戦火が確実に広がるのが」

「……わかりたくない!」

 荒れ狂うソロンの姿は、常に冷静だったジュリアスを何故か思い出させた。思えばジュリアスはこのように燃える思いを、内心にずっと秘めていたのかもしれない。何が彼をあのようにさせたのだろう。彼はいつどこで情熱を抑えるすべを身に付けたのだろう。

 テーレマコスは黙って主君の息子を抱きしめた。ソロンが泣いたら、泣き止むまでそうしてやってくれと言うジュリアスの伝言だった。

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