ディフィールの銀の鏡 第83話

 万梨亜は冷たい水を全身に感じながら、再び意識を戻した。何故かルキフェルから解放されて見知らぬ場所にいた。洞窟だろうか、一方向からのみ薄暗い明るさが確認でき、岩の上に身体を横たえているようだ。目の前では相変わらずジュリアスが目を閉じていた。ルキフェルに燃やされたはずなのに何故こうして生きているのだろう。あのルキフェルが情けなど持つはずがない。万梨亜は視線だけをさ迷わせ、自分達の周囲をぐるりと取り巻く水の膜の存在に驚いた。

「目覚めたか万梨亜」

 屈む人影に万梨亜は苦労して視線を合わせた。それは水の神のデキウスだった。

「……ど、してここに」

「酷くやられているな。おまけに魔力を封印されているのか。だが私の魔力は受け付けられるだろう」

 デキウスの両手から回復の青い光がかざされ、万梨亜の身体にゆっくりと力が蘇ってきた。

「私より、ジュリアスに」

「お前の方が先だという思念を受けている。そうせねばこいつは受け付けないと言い張る。頑固者め」

 ぶっきらぼうなデキウスの物言いが懐かしい。身を起こせるほどに回復した万梨亜はゆっくりと起き上がった。デキウスはそれを確認すると今度はジュリアスに回復の青い光を向けた。

「ジュリアスは重症すぎる。お前のようにはすぐに起き上がれないかもしれぬ」

「私を庇って、まともに魔王の攻撃を受けてしまわれて」

「ふ、父親譲りだな。愛する女を目の前にすると正気を失う」

 デキウスが万梨亜の後ろのほうへ顎をしゃくった。みると衣服が二人分たたまれて置かれていた。

「お前達の服はぼろぼろだ。おまけになんらの魔法の処置もしていないではないか。魔王を相手に何を考えていたのだ」

「……してあったのですが、それが私の魔力だったので」

「成る程、まるごと封印されてしまったか」

 ジュリアスの身体が大幅に癒え傷が消え去ると、デキウスは回復させる青い光をおさめた。再度デキウスに促されて洞窟の奥で着替えた万梨亜は、今度はジュリアスの服を着替えさせた。人がいる前で夫の服を脱がせるのはかなり恥ずかしいが、ずぶぬれ状態だと今度は病気を引き寄せてしまう。

 洞穴の入り口から見える外は、大雨が降っていて、ぶすぶす音をたてて煙が広がっていた。

「神々は、人間界の戦争に手を出さないのではなかったのですか?」

「自分が生まれる前の約束事など知るか。せっかく苦心して砂漠を緑の野に変えたのに、あのルキフェルの馬鹿のせいでめちゃくちゃにされてみろ、普通腹が立つだろう。どれだけ苦労したと思ってるんだ!」

 デキウスはそう吐き捨て、万梨亜に食料が入った袋を手渡した。

「ここまでやられたら黙っていられん」

「デキウス」

「私は世界を支配したいとは思うが、破壊したいとは思わない」

 きっぱりとデキウスは言い、眠っているジュリアスの頭を撫でた。それは何故か優しい温かさに満ちていて万梨亜は驚いた。確かこのデキウスはジュリアスを嫌っていなかっただろうか。万梨亜のそんな眼差しに気づいて、デキウスは気まずそうに笑った。

「実はこいつに会うのは今日が初めてだ。会ったら、こう、……親近感が沸いて、な」

 万梨亜は吹き出してしまった。デキウスも微笑する。

「私はいろいろ思い違いをしていたようだ。やはり家族は一緒に過ごしたほうがいいようだな。我らがおかしくなったのは別々に過ごしているからだ」

「…………」

「ソロンもお前達が大好きだから天上界に住む気はないようだしな。もっともあれほど子供なら無理かもしれぬが」

「……ルキフェルに家族はいなかったのですか?」

「いるわけない。母親はリクルグスとやらに監禁されて、あいつの目の前で犯され続けていたらしいから家族どころじゃなかったろう。ヘレネーが生まれたら用なしと母親は殺され、今度はあいつが変わりに慰み者になってたらしい。愛など入る余地もない」

「テイロン様はこの事を」

「知っていたろうさ」

 ふう……とデキウスが重いため息をついた。

「だけど当時は裏切り者だと責める気持ちが強かったんだろう、どれだけルキフェルが泣き叫んでも助けなかった。テイロンは自分を裏切った女とその浮気相手の息子などどうでも良かった。だがいつしか気付いた、ルキフェルが自分の子であった事実と、女がテイロンの父に逆らえばテイロンを殺すと脅されて密通していたのだとな。主神争いはテイロンが劣勢だった、言う事も聞くだろうさ……女は深くテイロンを愛していたのだからな」

「何故そんな事を貴方が知っているの?」

「ある日、神々を集めてテイロン自身が懺悔したからさ。知らぬ神はいない」

「…………」

 洞穴の外の雨はますます強くなった。先ほどの狂気は少なくとも目の届く範囲にはなく、平穏な空気が万梨亜を落ち着かせた。敵だと思っていた神が助けてくれたと言う安堵もある。

「このジュリアスはそれをわずか三歳で知らされた。テイロンの馬鹿正直もここまでくれば罪だ。もう少し待ってから真実の眼を授けてやれば良かったものを」

「でもジュリアスは、親の記憶は成長と共にって……」

「だからそれが嫌だったから、ソロンを思ってその様に記憶を解除していくようにしたんだろうが。こいつの他人を思いやる心には閉口する」

 万梨亜は泣きたくなった。いつもジュリアスは無言実行で人を驚かせる困った男だ。でもその影には大概相手を思いやる温かな心が溢れていて、それを後に知らされる人間の身になって欲しいと毒つきたくなる。思えば彼も家族の愛などほとんど知らない。どうすればそれが相手に伝わるか、その方法を知らないのだ。だからそのように不器用なやり方になってしまう。

「……ディフィールはどうなっているのでしょう?」

「王都以外は混乱を極めている。各国もルキフェルの瘴気と戦っている。このままでは魔王の思いどおりに破滅に向かうだろう。」

 万梨亜は悔しさに唇をかんだ。負けたくないのにルキフェルが相手では皆成す術がないのだ。人間が相手だったら戦略も戦術もできて戦いようがある。しかし今のルキフェルは神を相手にするようなもので、人間が束になって掛かっても敵わない。神を取り込んだヘレネーの才が自分も欲しい。

「今回出没している下級魔族は魔王が新しく作り出したものが多く、対処のしようがないらしい。我らとてよくわからぬ性質の者ばかりだ」

「そう……ですか」

 食べかけていた木の実を膝の上に置き、万梨亜は俯いた。くすくすデキウスが笑う。

「そう落ち込むな。力技ならお前が封印を解けばなんとかなろう?」

「それがわからないからこうなってるんじゃないですか。いつ掛けられたのかもわかりま……そうだわ! ニケはどこに行ったんですか!」

「黒馬の事か? あやつなら淫魔の女が突然現れて攫っていった。お前達を護るのだと黒馬は駄々をこねていたが、無理矢理な」

 おそらくルシカだ。何か必要があっての事だろうから心配はいらないだろう。じっとジュリアスを見下ろしていた万梨亜はジュリアスが突然目覚めて目が合い、どきりと鼓動が跳ねた。その青い瞳の力強さは普段と同じだ。

「ジュリアス……、気分はどう?」

「……最悪だ。何故デキウスがいる?」

「デキウスは貴方を助けてくれたのですよ」

 デキウスが面白くなさそうに顔をゆがめているのを横目に、万梨亜はジュリアスを叱った。ふんとジュリアスは鼻をならす。

「何を交換条件に助けたのやら」

「そんなものあるわけ……」

 万梨亜が言い返そうとすると、デキウスがしかめっ面を止めて笑い出した。

「はっはっは。それでこそお前だ。当たり前だ、見返りがないと助けるわけがない」

「何が望みだ?」

「魔王を退治してくれればそれでいい」

「……?」

 ジュリアスが不思議そうにデキウスを見上げた。デキウスはにやりと笑い、ジュリアスの肩をぽんぽんと優しく叩く。

「残念ながら私では魔王の相手に出来ぬ。お前があいつをなんとかしてくれないと、テイロンからの仕置きを完了できぬから天上界へ戻れぬ」

「……そなた」

「主神の座はもらえそうにないし、ここでテイロンの怒りを買うわけにはいかぬ。カリストは追放されたようなもんだ。あいつはもうこの先狂い死ぬしかない。私はそんなものはゴメンだ」

「デキウス」

「あんまり持ち場を離れるとテイロンに感づかれるから、もう戻る」

 デキウスは立ち上がった。ジュリアスは起き上がれないまま、そのデキウスを見つめ続ける。

「そうだ、これをやるよ」

「?」

 デキウスが右の掌に載せて差し出したのは、大粒の赤い宝石だった。ジュリアスの代わりに万梨亜が受け取り、ジュリアスの手に握らせた。

「……何だこれは?」

「ソロンの神殿のあの奥の部屋にあった。寝台の上にな」

「寝台の上? ソロンが封印されていた場所か?」

「ああ。なんかの役に立つかなと思ったが、多分私ではただの宝石だ。お守り代わりにやる。それと……」

 デキウスが突然ジュリアスに屈み込み、軽く唇に口付けた。万梨亜は仰天し、当然ジュリアスは顔を赤くして怒った。

「き、貴様! 余が動けぬのをいい事に何をするっ!」

「嬲ってるわけではない。神力を分け与えたのよ。起き上がってみろ」

 ジュリアスが訝しく思いながらもそっと力を入れると、普段と同じように身体を起こせるようになっていた。

「水を操る力も分けてやった。魔王は魔力を吸収するらしいが、神力は奪えない。なんとか頑張るんだな」

「これは助かるが、余に手を貸してテイロンから新たな仕置きがあるのではないのか?」

「一つ増えたところで変わりはしない。お前に魔王を退治してもらうほうが肝要だ。じゃあな」

 デキウスは励ますように二人に微笑み、霧になって消えた。二人が今ここにデキウスがいたのは夢だったのではないかと錯覚を起こしかけるほど、わずかの気配もなくデキウスは行ってしまった。しかし、彼がいたという証拠がジュリアスの手の中にある。

「万梨亜……」

「はい」

 ジュリアスが立ち上がり、万梨亜はその腕の中に飛び込んだ。大丈夫だ、この人は何もかもきっとわかっている。唇を求められて惜しげもなくそれを差し出し、二人は激しく口付けあった。胸が熱い。熱いのに魔力の石は封印されてしまった。

 洞穴の外は焼け野原だった。デキウスの雨のおかげで消火されていても、前のような豊かな木々の群れではなく、真っ黒な炭になって崩れ落ちかけている。焦げ臭い臭いが辺りに満ちていた。

「来るぞ」

 ジュリアスの声と共に目の前に赤い光の柱が立った。その中を、ゆっくりと魔王が空から剣を抜きながら降りてくる。

「まだ生きていたのか。消えたのでどうしたかと思っていたが」

 休息の時は終わった。

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