ディフィールの銀の鏡 第84話
水の球の中に万梨亜は突然入れられた。当然そんな事をするのはジュリアスで、蹴破ろうとする万梨亜にジュリアスは振り返らないまま剣を抜いた。
「魔力の石を封印されていてはどうにもならぬ。ニケもおらぬゆえ、そこで黙って見ていよ。余が死なぬ限りはその結界は破れまい。先ほどの防御壁のようなやわなものではない」
「ジュリアス!」
強い風が吹いた。ジュリアスの後姿からは表情がうかがい知れず万梨亜は不安になった。水の膜を叩く万梨亜にやっとジュリアスは振り返った。
「すぐに終わる……、後はそなたが好きにするがいい。誰かしらが助けてくれるだろう。それがそなたの星の運命だ」
「それは……」
どういう意味だと万梨亜が聞こうとした瞬間に、ジュリアスはルキフェルに向かって走り出していた。ルキフェルは残忍な笑顔を浮かべ、ふわりと横に移動する。
(駄目よ、ジュリアスは全然本調子じゃない)
万梨亜は己の左胸に手を置き、ジュリアスに縋りつきたい思いに駆られる。どうしたらこの封印を解けるのだろう。自分は結局ジュリアスの邪魔をしに来ただけではないか。水の膜を両拳で叩いてみたが、それは柔らかく力を吸収するだけだった。先ほどと同じようにまたジュリアスがルキフェルに押されて傷ついていく。ジュリアスがこんな無謀な真似をするはずがない。でも現実では……。
「ぐ……っ」
ルキフェルの炎の猛攻で、ジュリアスの長い髪が肩の辺りで吹き飛ばされた。炎は辺りにも燃え広がり、雨で濡れていた木々や地面が乾き炎が蘇った。水の膜が温度を通さないのでわからないが相当な熱さだと思われる。わずかな水の防御でジュリアスは耐えていたが、ルキフェルが炎を強めた瞬間に吹き飛ばされた。
「いい加減に死ね!」
吹き飛ばされたジュリアスに、容赦のないルキフェルの衝撃波が襲い掛かる。まともに受けたジュリアスは、焼け焦げた木々に何度も激突した後地面に落ちた。万梨亜は水の膜の中で悲鳴をあげる。身体を震わせながら立とうとするジュリアスの髪を、瞬間移動したルキフェルが掴み、万梨亜の時と同じように引きずりあげた。再び満身創痍の状態のジュリアスを、ルキフェルはまた容赦なく地面に叩きつける。炎に焼かれつつある枯葉が舞い散った。
「止めて! ジュリアスが死んでしまうっ」
万梨亜は水の膜を叩きながら叫んだ。ルキフェルはそんな彼女を見て嫌な笑みを浮かべ、今度は右手でジュリアスの首を掴み抱えあげた。うめき声をあげたジュリアスは苦しそうにしている。無残に髪を焼き切られ、再びぼろぼろの衣装を引きずったジュリアスの無残な姿を、ルキフェルは万梨亜の前に見せつけた。ルキフェルの瞳に赤い炎が燃えた。
「今度こそ確実に殺す」
「あ……ぐぅ……っ」
喉元から締め上げられたジュリアスが身体を緊張させる。
「ジュリアスっ!」
「馬鹿な奴だ。天上界へ逃げるなり、王都へ戻るなりすればいいものを。お前には見えているのであろうがジュリアス。ここで我に殺される未来が」
恐ろしい言葉に万梨亜は戦慄した。血の気を無くす万梨亜にルキフェルは笑いながら振り向く。
「なんだ……知らなかったのか? 知っていてこの場に居るのかと思っていたが」
「そんなの信じない!」
先ほどのジュリアスの言葉が耳の底に蘇ってくる。すぐに終わるとジュリアスは言った。すぐに終わるとは、自分を助けてくれるとは、何だ。いや違う。そんなの信じてはいけない。ルキフェルの言葉の嬲りに動揺してどうする! 万梨亜は必死に己の内部に思念を集中した。しかし魔力の石の封印の力を解こうとしても、バチバチと火花が散ってルキフェルの力がそれを押さえ込んでしまう。
ルキフェルが必死に封印を解こうとする万梨亜を嘲笑った。
「まだ懲りぬのか。ではこうしてやろう」
「あああああっ!」
「中途半端な結界だ。内部からの攻撃は避けられぬとはな、ははは!」
今度は魔力の石に握りつぶされるような圧力がかかり、耐え難い痛みが胸から全身に走った。万梨亜は立っていられずその場にうずくまる。この痛みには覚えがある、ルキフェルの城でジュリアスとルキフェルが戦った時、同じように苦しめられた。あの時は宇宙が味方をしてくれた。だが今は……。
「そうさな、もうお前達を弄ぶのも飽いた。魔力の石だけはこのまま抉り出してくれようか」
「ん……ううう……」
胸の石が外に出されようとして、さらなる激痛が襲った。血の気が引き手先が冷え始める。こんな死に方は嫌だと万梨亜は心の中で叫んだ。違う。違う。今死んだらソロンはどうなる。まだ生まれて少ししか経っていないのに、父母がいなくなったら……。
(まだ愛したりない。あの子にはまだ私達が必要なのに)
冷や汗が滲み出て顎や胸を滴り落ちていく。
(でもあの子をここに連れてこなくて、良かった。もし居たらあの子がこんな目にあったのかもしれない。だったら……)
どくどくと鼓動だけが大きくなって、それ以外は何も聞こえなくなった。ふわりと身体中から力が抜けた。胸だけが痛い。痛い。痛い。生きたまま内臓が引きずり出されるようなもので、痛くて当たり前だ。涙だけが止まらない。
(やっぱり駄目。ソロンを……ジュリアスを……でもどうしたらいいの)
胸の先に血が滲み始めた。赤い光がルキフェルからまっすぐに伸び、万梨亜の魔力の石だけを抉り出していく。
(……どうしたら)
その時、ふわりと誰かが万梨亜の頬を撫でた。水の膜の結界は破れないはずで、できるとしたらルキフェルだけだがこの男がそんな事をするわけない。
『万梨亜』
懐かしい声に万梨亜は誰が撫でているのかわかった。最近は怖い声しか聞いていなかった。でも今の彼は昔のように優しい声だ。だがどうしてここに居るのだろう?
(デュレイス……さま)
『あきらめるな。お前はここで死んではいけない。お前達には未来がある』
(デュレイス様だって……、そうでしょ)
『私とヘレネーは、死んだ』
(うそ……)
万梨亜の胸がすっと冷えた。そんな万梨亜を慰めるように、デュレイスの声が温かく響いた。
『だから私達は今自由だ。だがお前は生きて自由になれ』
(でも、私、無理なんです)
『諦めるな。お前は何度私達が災いしても切り抜けてきただろう?』
それはジュリアスの助けがあったからだ。結局自分はひとりでは何も出来ないお荷物なのかもしれない。いつもいつも危ない時、ジュリアスや誰かが助けてくれたから切り抜けてこれたに過ぎない。
『お前は気付いていないだろうが、本当のお前は誰よりも強い』
そんなの信じられない。自分はいつだって意気地なしだった。マリアが嫌っても無理が無いほど。ああ駄目こんな考えは。こんな卑屈な思いとはさよならしたはずだった。万梨亜は自分で自分を叱りつけるが、沈んでいく気持ちはなかなか止められない。誰か助けて欲しい、お願いだから。デュレイスがそんな万梨亜を諭した。
『駄目だ万梨亜。奇跡は自分で起こすものだ』
好き勝手を言わないでほしい。
『ジュリアスを助けたいと心の底から願ってみなさい。彼はもう動けない。だから万梨亜が助けるんだ』
(封印されているんです、私……)
胸の痛みはますます激しい。
『こんな土壇場で逆戻りになっておるのかえ? 面倒くさい女子じゃ』
(……ヘレネー)
『完全な術など存在せぬわ。生きている限りそれには思いがある。そこに術者の弱点が潜んでおるのじゃ。そこに思いを叩き込めば術は解ける』
(術者の弱点……?)
『そうじゃ。ルキフェルの弱点は封印したそなたの中にあるのがわからんかえ? だから力任せに潰そうとしておる。ルキフェルはそなた達二人が恐ろしくて仕方がないのじゃ』
(私達……二人が?)
ヘレネーの手が万梨亜の両肩を掴み、デュレイスが万梨亜のお腹に腕を回して抱き起こした。二人は透けているのに万梨亜の身体に触れている。ルキフェルには二人の姿は見えないようで、ジュリアスを宙吊りにしながらも万梨亜を見下ろし、石を抉り出そうとしていた。目の前のヘレネーは初めて見る穏やかな顔をしている。気がきつそうで得体の知れない雰囲気はあるが、それは魔女だから仕方がないのかもしれない。
『ジュリアスを助けたいと願い、その愛で己自身を満たすのじゃ』
『彼や子と幸せになる自分を願え、それは愛になる』
実体のない二人の手がとても温かい。万梨亜の中に生じていた気持ちのぶれがぴたりと治まった。
(私は……生きたい)
空から万梨亜に向かって純粋な力が降ってくる。ルキフェルの城での決戦で味方をしてくれた宇宙の力だ。万梨亜はそれを胸に抱きしめて、熱い思いを心の奥底から呼び起こしていく。
「これは……!?」
ルキフェルの、万梨亜の魔力の石をえぐる力が遮られた。それは力強く、ルキフェルの魔力をしのぐ勢いで増大していく。起き上がった万梨亜に先ほどまでの弱弱しい雰囲気は無く、静かな決意じみたものが見える。ジュリアスは気を失ったのか動かないままだ。あと一息で殺せるだろう。
「しつこい!」
ジュリアスの首を絞める力を、ルキフェルは強めた。
(私は生きていくの。ジュリアスやソロンと。皆と一緒に……!)