ゲーム 第08話
腕を宮下さんに舐められて、びっくりして彼を置いて店を飛び出した。
天気予報で今夜は晴れだったはずなのに、何故か雨がざあざあ降っていた。
傘なんか持ってなかったから、そのまま駅に向かって走ろうとしたら、運悪く車道を走る車に泥水を思いっきり引っ掛けられてしまった。
「きゃあっ」
当然ながら車から人が降りてくる気配はなく、そのムカつく車は走り去った。
なんてドライバーだ。天罰下るぞ!
なんてついてないの。とほほ。
「林さん、待って!」
うわ、追いかけてきた。ドライバーにムカついてる場合じゃない。
あんな不気味な男と一緒にいたら、何されるかわかったもんじゃないのよ。
なのになのに、この時の私はとことんついてなかった。
次に走ってきた車が、また泥水を引っ掛けやがった。
今度は頭から足まで全身……。
そしてまた、ドライバーはそのまんま猛スピードで走り去っていった。何をそんなに急いでるのよう。こんな泥水かぶって電車なんか乗れないよ!
「あー、ひどいな。最近のモラルはどうなってるんだか。林さんの家って電車に乗って三十分はかかるだろう? おれの家へ来いよ」
「……タクシーで帰りますから」
「そんな泥だらけじゃ乗車拒否されるに決まってる。おれの家が近いから寄って行こ?」
じょおおおおだんは勘弁して! 腕舐めるような男の家に誰が喜んでついていくのよ!
宮下君を狙ってる女子社員ならついていくだろうけどっ。
「風邪をひくよ。さ!」
「大丈夫。風邪なんか引かないから」
言ったそばからくしゃみをしてしまい、心配した宮下君に腕をつかまれ、近所だという宮下君の家に連れて行かれた。
この人、本当に強引だ。でも私もこのままじゃどうにもならない有様だったから、ついていくしか選択肢はなかった。
……想像はしていたけど、やっぱり豪邸だった。
入った門からさらに歩かされ、さしかけてくれる宮下君の傘など意味がない泥ねずみの私は、とほほ状態だった。
いったい私が何したって言うのよ。
とにかく、こうなったら仕方ない。着替えだけもらってさっさと帰ろう。
いくら豪邸で一人当たりの部屋面積が広くても、男と一緒にいるのは嫌だ。
宮下君がインターフォンを押すと、家政婦と思われるおばさんが出てきて、優様おかえりなさいませと頭を下げた。
「彼女にお風呂と着替えを」
「かしこまりました」
あとでねと宮下君は微笑んでさっさと奥へ行ってしまい、抗えないまま私はおばさんにお風呂に連れて行かれた。
誰ですかとも関係も聞かれない。よくあることなんだろうなあ。
意味もなく胸がちくりとし、服を脱ぎながら思わずため息を漏らした。
浴室で温かなシャワーを浴びて、湯につかった途端ぶるっと身体が震える。そうとう冷えていたみたいで、じんわりと温まっていくのがとても心地いい。
あ、そういえば家に連絡してなかったから、早く帰らなきゃ。
……って、今日は誰もいないんだ。お父さんもお母さんも泊まりの出張で、朗は会社の研修旅行で家にいない。
でも、長居はよくない。
ふと舐められた腕が目に入り、パッチテストじゃない赤あざを見て、なんともいえない寒気が背筋を襲った。
一体、彼はどういう男なんだろう。
広山君は絶対にあんな事しなかった。まじめが服を着て歩いてるような人だったし。
一瞬、忘れようとしていた場面が頭に蘇った。
……………………。
いかん、思考停止した。
ざばりとお湯から出て脱衣所で身体を拭いた。
さてブラウスを洗おうかな……って、ない?
うそ。脱いだブラウスやスカートや下着がない。
代わりに水色のかわいいワンピースと、下着のセットが入れてある。
おまけに靴までない。おしゃれな白のサンダルが置かれているだけ……。
どうしよう。
とにかくそれを着ない事には外に出れないので、それらにしぶしぶ袖を通して、サンダルを履いた。
廊下に出ると、すぐに開けたリビングがあり、そこでスーツから私服に着替えた宮下君が、ソファに座ってテレビを見ていた。
声をかけると宮下君はすぐに気づいて振り返った。
「あったまった?」
「うん。ありがとう。あの、私の服と靴……」
「今クリーニングに出したよ。泥だらけだったし」
「え。そんなの、そこまでしてもらうわけには」
「いいんだよ。それよりこっちにおいでよ」
テレビをリモコンで消し、私はまた宮下君に腕を取られて階段を昇らされ、突き当たりの部屋に入った。片側に本がぎっしりと並んだ本棚があって、窓側にシンプルな木の机がある。反対側に少し大きなベッドがあった。
……宮下君の、部屋?
そう思った瞬間に、私は顔がさあっと赤らむのを感じた。
「失礼いたします」
ノックの音と共に、さっきのおばさんが入ってきて、ケーキとお菓子が入った皿、お茶のセットを机の上へ置いてさっさと出て行った。
外は雨がやっぱりすごく降っていて、窓が流れる雨水で何も映さない。
黙って宮下君がカーテンを閉めた。
ものすごく心細くなって帰りたくなってきた。
やっぱり、意地でも電車に乗ったらよかったかな。
宮下君の足のほうが私より圧倒的に早そうだったから、すぐつかまったかもしれないけど……。
「あの、私、もう帰りたいかな……」
「え? もう帰るの? せっかく温まったのにすぐ冷えちゃうよ」
宮下君は紅茶をカップに注いだ。断れない私は、そのまま紅茶を受け取ってしまい、仕方なく一口飲んだ。
そしてまた、いざなわれるままにラグに座った。ローテーブルを挟んでるけど、近くでじっと見ていられると落ち着かない。
部屋の壁にかけてある時計は、23時を少し過ぎたところを指している。
本当ならもう帰って寝てる頃なのに、なにやってるの私。
「もしかして、本当に男とつきあったことないの?」
「そうですけど。何かそれで宮下君に迷惑かけました?」
「いや別に。ラッキーだ」
「は?」
宮下君は面白そうに笑って、紅茶の入っているカップにブランデーをなみなみと注いだ。苦手なアルコールの匂いがこっちにまで漂ってきた。
「そんなに飲みたいなら、他の女子社員連れ込んだら?」
「んー。ああいうタイプは興味ないんだ」
「ああいうタイプ?」
「誘ってもいないのに粉かけてくるうざいタイプ」
モテる男は言うことが違う。
「じゃあ私が粉かけたら、誘わなかった?」
「いや、喜んでおつきあいするけど?」
言ってることがぜんぜん違うじゃん! なんなのこの男。
帰りたいけど、財布や家の鍵入りのショルダーバッグが回収されてしまって手元にないから、帰れない。
そうこうしている間にも、宮下君はブランデー入り紅茶を全部飲んでしまった。
これだけ飲んで平気なのって、どれだけ強靭な肝臓持ってるんだろ。
呆れ返っている私の前で、宮下君は今度はブランデーだけをカップに注いだ。
「……広山が、林さんの話をもらしたことがあるんだ」
帰りたくてそわそわしていた私は、一瞬で気を戻された。宮下君は楽しそうに頬杖をつき、お酒を飲んだとは思えないほど普通の顔で私をじっと見つめた。
「広山君が、なんて?」
「知りたい?」
「……気になるじゃないですか」
「良かったって」
「?」
不意に宮下君は立ち上がり、私の隣に移動した。近寄って欲しくなくて離れても、すぐに詰め寄ってきて、引っ付くように座った。
男がやっぱり苦手だ。
でももう遅い。私はいつだって、強引に迫ってくる相手を避けられない。
ううん、違う。
今までも何度か危ない目にはあった。若ければ誰でもいいって言うタイプの男数人に、ホテルに連れ込まれかけたりしても、押し倒されても、私はなんとか逃げてきた。
避けられないのは、宮下君が広山君に似ているから────。
止めておけと心が叫ぶのに、身体は動かず、目は近づいてくる宮下君を見つめてしまう。
唇が、重なった。
アルコールが残る舌が入ってきて、執拗に中をかき回されて、もうなにも考えられない。
宮下君の手が背中にまわって、混ぜるように何度も何度も撫でた。
知ってる、この動き……。
封印したはずのあの日が、よみがえってきそうになった時、唇が離れた。
耳に宮下君が、ちゅっと音を立ててキスをする。
そして、熱く囁いた。
「林さんのキスも、秘密の花も、とても甘かったって……」
首筋に、宮下君の唇が落ち、私はその場で彼に組み敷かれた。
『ねえ、こっちを見て』
『ものすごく綺麗』
『恥ずかしがらないで』
私の時計は、中学のあの時に止まったまま。